「東堂」
福富寿一が東堂尽八の名を重々しく呼んだのは、秋の初めのある日の夕方のことだった。
集大成として迎えた三年夏のインターハイを終え、部の舵取りは近く二年生に譲られる。それに備えて引き継ぐべき書類をまとめ、わかりにくい部分にメモを添えるなどの作業を、ふたつならべた長机に向き合って進めているところだった。
自転車部の専有するプレハブの建物のなか、事務作業の為に確保された少しほこりっぽいこの部屋に、好んで出入りする部員はほとんどいない。なにかとつるんでいる新開や荒北も、下手に顔を出すと東堂に雑用を言いつけられることを知っているので、この部屋にはあまり寄りつかなかった。
カリカリとシャーペンの芯がノートの上を走る音や、パラパラと紙をめくる音、マーカーで線を引く音。そんなささやかな音ばかりが、あかね色に変わった陽光のさす部屋のなかでひかえめに人の気配を示すばかりの、静かな時間だった。無駄なのは口数だけだなどとすら言われる東堂だが、福富とふたりきりで居るときの彼は存外無口だ。ふたりきりで長く時間を過ごす機会がおおむね部長副部長としての業務遂行時に限られているのだから、あたり前のことかもしれないが。
一段落のついた福富がノートをぱたりと閉じたとき、向かいに座る東堂は思案げにうつむいて、シャーペンを指先で遊ばせていた。ななめに浴びた夕日が東堂の整った輪郭を際立たせ、長い睫毛の下に、濃い影をつくる。言葉と表情をなくしてしまうと、東堂はおそろしいばかりの美貌の男だった。
「なんだ、フク」
名を呼んだ福富に、東堂はひとつぱちりと瞬きをして長い睫毛を上下させ、福富に視線を向けて呼び返した。フク、という愛称は、東堂だけが使うもので、その響きを福富は気に入っている。
「おまえが好きだ」
以前から告げようと決めていたわけでもなく、かといって言うはずもない言葉を思わずこぼしてしまったというわけでもなかった。ただ、目の前の東堂を見ているうちに、いまここで言うべきだという確信が天啓のように降ってきたのだった。
東堂はまた、ぱちりと瞬きをした。
「それは、……いわゆる恋愛感情としての『好き』なのか? フク」
「そうだ」
「――――」
東堂はコトリと音を立ててペンをテーブルに置き、福富から目を逸らさないまま、ふぅと息をついた。
「びっくりしたぞ」
「そうは見えないが」
「いや、かなり驚いた」
東堂はゆるく笑う。
福富は一度テーブルに視線を落とし、ふたたび東堂の秀麗な顔に視線を向ける。
「驚いた理由を聞かせてもらえるか」
「……気になるのはそこなのか? フク」
「ああ」
頷くと東堂はクックと鳩のように喉を鳴らし、おまえはまったく福富寿一だな、と呟くと、では聞かせてやろうと唇に弧を刻んだ。
「まず、フクが恋愛感情を誰かに向けるというところからして意外だった」
「そこからか」
「そこからだよ。おまえは不器用なやつだから、自転車に夢中なあいだは恋愛に興味など持たないのだろうと思っていた。女子に騒がれてもどこ吹く風だったろう?」
「女子が騒ぐのはおまえと新開と真波にだろう」
「いや、俺のファンが最も多いのは当然として、おまえや荒北にもファンはいるぞ? 特にフクは王者箱学の主将で、夏まで負けなし、ルックスは少々ごついが男前だし態度は紳士だ。モテんはずがない。そう思っていないのは、おまえが女子に興味がないからだな。
そこで、ふたつめだ。俺は、おまえの性指向はごくノーマルだと、つまりもし恋愛をするならば対象は女だと思っていた。だから女子に興味がないイコール恋愛をする気がないと判断したわけなんだが――、おまえは優等生だし、王道を歩くのが似合う男だ。同性愛というのはどうしたっていまだ日陰のものだろう。そういう恋をする男だという印象が、俺にはなかったのだよ。
とはいえチャリ部なんぞはこの通りの男所帯だ。男が男に惚れることもまあ、あるだろう。だが、俺のひとつめとふたつめの予断をくつがえしておまえが――福富寿一が、男に恋をするという事態がありうるならば――」
ひらりと東堂の白い手が、福富のまえで踊る。
「その相手は隼人か、でなくば荒北だと思っていた。それが俺の驚いた三番目の理由だよ」
ぴたりと突きつけられた指の先を、福富はまっすぐに見返した。
「隼人とおまえは、中学から互いに切磋琢磨しあった仲だろう? おまえたちのあいだには、誰も入り込めないものがあるよ。去年、隼人が走れなくなったとき、おまえ以外の誰かに理由が聞き出せたとも思えん。あいつがもう一度走り出すことができ、四番のゼッケンを得ることができたのは、おまえの存在があったからだ。
荒北もそうだ、あの誇り高い野獣が全身全霊をささげるのはおまえだけだ。おまえこそが荒北の走る理由だった。詳しいいきさつは知らんがね、荒北はおまえが拾い上げ、前を向かせた男だ。誰がなにを言ってもおまえは荒北を諦めず、とうとう皆に認めさせたよな。
隼人も、荒北も、おまえに強い気持ちを向けている。おまえを、おまえの強さを必要としている。それがいまおまえの言う、恋愛感情かどうかは知らんよ。だが強い執着であることは明らかだ。依存と言ってもいいだろう。それほどの思いを向けられ、必要とされて、心動かされたとしてもなにも疑問はあるまい。
だからな、フク。隼人を愛しているとか、荒北に惚れているとか、そう聞かされたなら俺はこれほど意外には思わんよ。さもありなんとすら言うだろう。
だが、おまえは、俺が好きだという」
たったいま己への恋心を告げた男の恋愛対象が、自分以外の誰かであるべき理由を、東堂はつらつらと語る。つねのごとくに滑らかで、機嫌良さげですらあった声音がふっと、トーンを落とした。
「驚くなというほうが、無理な話だ」
「東堂」
「俺こそ問いたいぞ、フクよ。なぜ、俺なんだ?」
「――いまお前が語ったことこそが、俺が新開でも荒北でもなく、おまえに惹かれた理由だと言ったら?」
東堂がずっと口元に浮かべていたゆるい笑みが消えた。かたちの良い眉をひそめ、東堂は福富を睨むように見据える。
「どういう意味だ、フク」
「お前は、俺を必要としない。おまえは、俺とは一切関係なく、強い。それが俺には――」
福富は目を伏せ、脳裏にふたりの男の顔をおもいうかべる。
『寿一!』
『福ちゃん!』
呼ぶ声。眼差し。求められているその自覚はたしかに心地よく、だがそれを向けられるたび、福富の耳には鎖の巻きつくような幻聴が小さく響いた。
強い男たちだ。信頼のできるチームメイトだ。だが彼らの強さには、福富が強くあることが不可欠だった。福富が崩れてしまえばひとたまりもない。そういうあやうさのある関係だった。
それに潰されるほど福富は脆くはなかった。彼らのためにも強くあらねばならないと、その使命感はむしろ前へ進む糧ですらあった。
だが、福富とて疲れないわけではない。
鉄仮面と呼ばれた無表情の下で疲弊に喘ぎながら隣に視線をやれば、背筋を伸ばし笑みをたたえ、山の頂上に眼差しを向け続ける美しい横顔があった。東堂の強さは、負け知らずの強さですらない。ライバルと呼ぶ相手に幾度も敗北を味あわされながら、その悔しさをも全て己の力に変えて高みへと駆け上がる、そんなしなやかな強さをもつ男。
「大袈裟に言うならば、それが俺には救いだった。俺が倒れたら新開も荒北も倒れただろう。だが、おまえは、倒れまい。俺の背を踏みつけにしてでも、先へ、勝利へ、駆けてゆけるだろう。
そんなおまえだからだ。東堂」
「――――」
東堂が僅かに目を見開き、それからゆっくりと、目を細めた。
福富の初めて見る表情で、東堂は微笑む。困ったような、慈しむような、照れたような、笑みだった。
「……自分を特別に想わない相手がいいとは、おまえも難儀なやつだな、フク。そして、とても残酷なやつだ」
「自覚はある」
「そうか」
くるりと頬を手でくるみ、東堂は肘を机にのせた。すこし疲れの見えるような、彼にしては珍しい姿勢だと、福富は眺める。そんな格好もまた似合うと思ってしまうのは、惚れた欲目というものなのだろうか。
「おまえの気持ちはわかった。それで、おまえは俺をどうしたいんだ?」
「なにも。言いたいと思っただけだ」
「無欲だな。俺に応えて欲しいとは思わないのか?」
「それこそ、ありえないだろう。おまえは女子が好きなのだろうし、男がおまえの恋愛対象に含まれるとしても巻島に勝てるとは思えん」
がくり、と。
唐突に東堂が首を垂れた。艶やかな黒髪が勢いよく揺れる。
「――まったく!」
その姿勢のまま東堂が大声で喚いた。驚きに、びくっと福富の肩が跳ねる。
がばりと上がった東堂の顔は、茹で上げたように真っ赤だった。
「なんなんだ、おまえは! なんなんだ俺たちは!!」
ばんばんばんばんばん、と東堂は掌で長机を幾度も叩く。机に広げられたノートや文具が振動で跳ね、転がり落ちそうなペンを福富は慌ててつかまえながら、これまでの静かなたたずまいをいきなりかなぐり捨てた東堂を仰天して見つめた。
バン、ガタン! と机と椅子を激しく鳴らして立ち上がった東堂は、のしのしと大股に長机の周囲を回って福富のそばまで来ると、腰に片手を置いた尊大なポーズで福富に指を突きつける。
「勝手に告白して勝手に決めつけて勝手に諦めるんじゃないこの馬鹿者!」
「――――なに?」
「だから! 俺もおまえが好きだと言っている!」
「――――おまえが?」
「ああ!」
「――――俺を?」
「そうだ!」
「恋愛感情としてか?」
「恋愛感情としてだ!! いいかフク、よく聞けよ、俺はなあ、朴念仁で、不器用で、努力家で、なにもかも背負いこんで、たいして強くもないくせに強くあろうとするおまえが好きなんだ! 2年の夏からずっとだ! ――――」
そこまで怒鳴るようにして言い切り、ぜえはあと息を荒げた東堂が、空気の抜けた風船がひゅるひゅるとしぼむように膝を抱えてしゃがみ込んだ。
「と、東堂」
「……なあ、フク。さっき、おまえが俺を好きにならん理由を挙げたろう。あんなもの、おまえを諦めるつもりで普段から考えていなければ、ああもスラスラと出るものか。おまえは恋をしない、するとしても対象は女子、まかり間違って男に行くとしても隼人か荒北、なあ、俺は本当に、ずっと自分に言い聞かせていたんだぞ」
「巻島は――」
「巻ちゃんは巻ちゃんで巻ちゃんだ! 大事だし愛しているしライバルだ当然だ! そしてそれだけだ! 文句があるかこの馬鹿フク!」
くそう、ちくしょう、ばかやろう、と散々悪態をついて、東堂はようやく、しゃがんだまま顔を上げた。
「――すまんねフク。おまえは散々持ち上げてくれたが、俺など実際こんなものだ。幻滅してくれて構わんよ」
真っ赤なままへにゃりと笑う顔もまた、福富の知らないそれだった。美しくも強くもないその顔は、だが、みぞおちが熱く煮えるほど福富を揺さぶる。
――この男が好きなのは、俺なのか。
ようやく脳に辿り着いた理解と同時、爆発するような衝動のままに、福富は東堂の両腕を掴んで引っぱりあげる。勢い余ってつんのめった軽い身体を腕の中に閉じ込めて、その胴をきつく抱いた。
椅子に座ったままの福富と中途半端に立ち上がった東堂の姿勢の違いから、腹に抱きつくような不恰好極まりない抱擁になったが、構わなかった。絞り込んだクライマーの細い胴、固く鍛えられた腹筋、理想的な曲線をえがく背。東堂尽八のうつくしさが腕の中にある。それは震えるほどの歓喜だった。
「……痛いぞフク」
「好きだ」
「痛いと言うに」
「好きだ、東堂」
天井へ向け、仕方ないと言わんばかりのため息が吐き出されたのが聞こえ、福富の脱色を繰り返した硬い髪に、しなやかな指が絡められた。
「……俺もだぞ、フク」
つんつんと髪を引っ張る手に促されて、福富は顔を上に向ける。
さらりとした髪が頬に落ちかかる。東堂の固い掌が福富の前髪を押さえ、露わになった額に、ちゅ、と唇が落とされた。
「……!!」
言葉もなく目を見張る福富の額を、鉄仮面も形無しだ、と東堂はいたずらっぽくつつく。
「この先は、引退してからな」
思わず力の緩んだ腕の中からかろやかに抜け出し、福富寿一の美しい想いびとは、これまで見たことのないほどに美しく、ほほえんだ。
