「ム」
書類を数えて、東堂は顔をしかめた。
インターハイの終了から二日が経っていた。部内の反省会とOBや保護者会・後援会への報告等で昨日は終わり、本日は部としては休養日となっている。
主将である福富と副主将である東堂は役職者として、レースの報告書を作成していた。とはいえレースの全貌についての詳細な分析は、録画や数値データの提出を受けてからとなる。だが印象の新鮮ないまのうちに簡単にでもまとめておいた方がいいという意見が両名で一致したので、朝食後に福富の部屋に一式を持ち込んで作業をしているところだった。
福富は自分のデスクに向かい、東堂は座布団に正座をして、ローテーブルを使っている。部室や寮の学習室を使わないのは、ひとつには冷房の存在、もうひとつは率直な意見交換のために余人の耳のない場所が望ましいからだった。福富の部屋は角部屋で、隣の部屋の住人は夏休みに入って早々に帰省をしているので、少々大きな声を出しても誰かに聞かれる気遣いはない。
昨夜のうちに自分の分担の報告書を書き上げた新開と荒北は、今日は連れ立って出かけていた。今日に限らず、福富と東堂に主将・副主将としての仕事があるとき、ふたりは必要以上には踏み込んでこない。彼らの手や意見が必要であればそう言っているし、求められないなら気遣いは無用だと理解してくれていた。ふたりとも書類仕事に関しては苦手にしているということも、寄りついてこない理由のうちであるだろうが。
苦手といっても彼らが今朝一番で出して行った報告書はきちんと書かれていて、さすがは箱根学園のレギュラーをつとめた三年生である。二年生の泉田も、優等生の彼らしく、きちんとした字で書かれた報告書を、わざわざ朝食時に待ち構えて手渡してきた。内容がいささか自罰的にすぎるのは少々気になるところだが、しかたのないことだろう。後悔の念は、行き過ぎなければ先へ進む糧になる。
問題は真波だ。内容うんぬん以前の話で、要するに提出していない。
「真波から連絡はあったか? フク」
「いや」
「こちらにもないな……午前中には出せと言ったんだが」
「真波は自宅生だったな」
「ウム。小田原だ」
見上げた壁掛け時計は14時過ぎを指している。真波はレギュラーのなかで唯一寮生ではなく、自宅から自転車で通っている。部の休養日に書類提出のためだけに山の上の学校に来いとは、恒例の手順とはいえ、いささか気の毒な指示だったかもしれなかった。特に、今年の結果を考えてみれば。
白紙の報告書を真波に手渡しながらその指示をした東堂にしてみれば、だからこそ来いという気持ちもあったのだが、そのときの生返事といい、真波にはまた別の思うところがあったのだろう。
一応かけてみる、と東堂が取り出した携帯電話も、虚しい呼び出し音を響かせるばかりだった。念のためメールを送ってはみたが、真波の性質からして、今日中に確認すればいいほうだろう。
「どうする」
「夜にでもかけるさ。明日あたり俺から訪ねてもいい」
「わかった」
福富の頷きを得て、東堂は手の中にある書類をとんとんと揃えた。
「おおむねまとまったぞ。そっちはどうだ、フク」
「これだけ書けば終わりだが、おまえの意見が欲しい」
「おお、見せてみろ」
立ち上がった東堂は福富の肩越しにデスクの上を覗き込む。いくつかの言葉をかわし、頷いた福富が書き込んでいった。男らしく大振りで角ばった、筆圧の高い字は、福富の性質によく似ている。
「――フム。そんなところか?」
「ああ、そうだな。ありがとう、東堂」
「これも副主将の仕事だ、礼には及ばんよ。お疲れ、フク」
「東堂も。冷蔵庫に茶がある、良ければどうだ」
「おお、もらおう。開けるぞ」
デスク周りを福富が片付けているあいだに、東堂は部屋の隅の冷蔵庫をあけた。箱根学園寮は、火の出るものを除いて原則的に家電の類いの持ち込みは自由だ。たいていの生徒が、ひとり暮らし用の小ぶりの冷蔵庫を持ち込んでおり、福富もその例に漏れない。
冷蔵庫のドアポケットに入っていたのは1リットルパックの麦茶だった。東堂は小さくくすりと笑ってそれを取り、冷蔵庫の上に置かれた盆に伏せられたプラスチックコップのうちのふたつを、くるりくるりと裏返した。
「フクも飲むんだろう」
「ああ」
パックを冷蔵庫に戻し、東堂は麦茶を注いだコップを両手に持つと、ひとつをデスク前の椅子をくるりと回した福富に渡し、もうひとつを手にベッドに腰を下ろした。乾杯、と笑ってかざせば、福富も生真面目な顔のままで応じる。
冷房があるとはいえ最近流行のエコとやらで室温はぬるく、冷えた麦茶は胃の腑に沁みた。ひと息に飲み干したのは東堂も福富も同じで、手を伸ばしてきた福富に東堂はコップを手渡した。
使ったままのコップを福富は無造作に冷蔵庫の上に並べて置く。洗いに行く様子がないのは、まだ使うつもりがあるからだろう。そのあたりは福富も東堂も、それほど潔癖なたちではない。
「ときにフク」
東堂はふと笑って、友人の愛称を呼んだ。東堂だけが使うその愛称で呼ぶようになった理由は、もはや東堂本人にも定かではない。
「青少年保護育成条例というものを知っているか」
唐突な問いに福富は首を傾げた。
「名称から考えて、青少年を保護し育成するための条例なのだろう。おおむねの想像はつくが」
「ウム、その通りだ。ちなみにここでいう青少年とは、『満18歳に達するまでの者』だな。結婚をすると18歳未満でも成年扱いになるんだが、まあそれは措こう。この条例の第31条にだな、こういう条文がある。『何人も、青少年に対し、みだらな性行為又はわいせつな行為をしてはならない』」
「……東堂?」
「まあ待て。この『みだらな性行為』の定義だが『健全な常識を有する一般社会人からみて、結婚を前提としない単に欲望を満たすためにのみ行う性交』だな。そしてこの定めを破った場合の罰則だが、31条の場合は『2年以下の懲役又は100万円以下の罰金』、なかなか重いな。実際の判例だと罰金刑や執行猶予が多いようなんだがまあ、送検されれば前科者になるのは確実と」
楽しげに手を広げ、東堂は滔々と語る。反応に困った福富だったが、突っ立って聞いているのも具合が悪く、少し悩んで元いたデスク前の椅子に腰を下ろした。少しキャスターを滑らせれば、ベッドの上の東堂に膝がぶつかる距離だ。
東堂は笑って続けた。
「ちなみにな。罰則については条例の8章、54条と55条で定めているんだが、56条にこうある。『この条例に違反した者が、青少年であるときは、この条例の罰則は、青少年に対しては適用しない』。
――さて、フク、問題だ、しあさっての八月八日はなんの日だ?」
「……おまえの誕生日だ」
「誕生日が来たら、俺はいくつになる?」
「十八だな」
「おまえが十八になるのは?」
「来年の三月三日」
「ウム。そして卒業式は三月一日だな」
うんうんと頷いた東堂が、かがみ込んで両手を伸ばし、福富の膝をガッと掴んで引き寄せる。椅子のキャスターが床を滑って、福富の身体ごと東堂の前に運んだ。
「なあフク」
息がかかるほど顔を寄せて、東堂は、箱根学園自転車競技部副主将で、チームメイトで、同級生で、――福富の恋人である男は。
「俺が十八になってしまう前に、『みだらな性行為』とやらを経験しておく気はないか?」
そう言って、それはそれは美しく蠱惑的に、微笑んだ。
