夜を照らして

 目の奥が鈍く痛むのを自覚して、一織は浅くため息をついた。
 壁時計に目をやると、そろそろ日付が変わろうとしている。先程からPCに打ち込んでいた分析データにざっと目を通し、書きかけの一節を終わらせて素早く保存する。学校の課題はすでに終わらせ、机の端にまとめてあった。時間があれば先日欠席した授業の範囲を教科書でさらっておきたかったが、残念ながら今日はもうタイムリミットだ。
 明日は朝から登校だが、弁当の時間を待たずに早退の予定だった。一織単独のインタビューだから、環は午後の授業も参加するはずだ。あとでノートを見せて貰えればいいが――と一瞬だけ希望的観測を抱き、一織はすぐにその望みを打ち消した。過大な期待を抱いても仕方ない。環自身が寝ずにいて、プリント類を受け取ってくれれば御の字だ。
 ここのところ仕事が立て込んで、授業に出られない日が増えていた。元々芸能関係の生徒の多い学校だから、課題をこなせば進級に響くことはないが、前後の内容が抜けたまま授業に参加する落ちつかなさが一織は苦手だ。授業内容は基礎的なものだから、教科書を読めばおおむね事足りるが、最近ではその時間すら満足に取れなくなっている。
 仕事中の待機時間を充てることは可能だろうが、定期試験前でもないのに教科書を開く姿をメンバーに見られるのも、また別種の問題が発生しそうだった。仕事が忙しくて学業に苦労している――周囲にそう思わせてしまうことは本意ではない。ただでさえ学業優先を唱えられて仕事量をセーブされがちなのだ、これ以上負荷を減らされては、一織がセンターを務める意味がなくなってしまう。
 実際、一織の気持ちが落ち着かないというだけで、実害は何一つないのだ。学校側からも気遣われているようで、最近では授業中に指名を受けることも、ほぼない。放っておけば居眠りばかりの環はともかく、出席時は背筋を伸ばして授業を受けている一織に、教師陣もそれ以上の要求をする気はないようだった。
 仕事量がもっとのどかだった頃は、授業をスムーズに進めるための要員として、要所要所での回答を求められる機会も少なからずあった。そういう扱いは一織の自尊心を満足させるものではあったけれど、IDOLiSH7としての仕事に比べれば、ほんの些末事だ。
 仕事といえば、明日のインタビューの予習も、インタビュアーの直近の記事にざっと目を通しただけだった。これについては紡にも依頼してあるから、移動の車中で補完可能だろう。本来であれば雑誌や記者の傾向を読み込んで回答のバリエーションを用意しておきたかったが、どうしたって時間は有限だ。
 今日の行動と明日の予定をざっくり脳内で再確認し、一織は軽く伸びをする。暖房のスイッチを切り、ふかふかの室内履きと厚手の靴下、パジャマの上に重ねたフリースを脱いで、ロフトベッドに滑り込んだ。
 ベッドの枕元には、シーリングライトのリモコンがある。布団の中から照明のオンオフができる優れものだ。陸か環あたりが使ったら、一日で行方不明か、操作不能にしてしまいそうだけれど。
 ピッと小さな電子音を合図に、室内は睡眠の質を高める、優しい闇に包まれた。
 あらかじめ仕込んでおいた湯たんぽの働きで、布団の中はじんわりとした温もりを保っている。足をもぞもぞと動かして胸元まで運び上げた、フワフワとした手触りのよいカバーにくるまれたシリコン製の湯たんぽを、一織は腕の中に抱え込んだ。
 ぬいぐるみを抱えて眠る安心感に、その感触は少しだけ似ている。
 はふ、と一織は息をついて、身体の力を抜いた。一織の部屋は寮の一番端で、隙間風が入りやすいから、体調を整えるためにも温かく眠る工夫は重要だ――そんな言い訳めいたことを思い浮かべながら、睡魔に身を任せる。大丈夫、明日の朝に目を覚ませば、この疲労感も払拭されているはずだ。

 枕元のスマートフォンのバイブレーションを止めて、ゆっくりと目を開ける。
 厚い遮光カーテンを閉ざした室内はまだ夜の気配が色濃く、一織はしばし浅いまどろみにたゆたった。健康状態に問題はまったくないものの、低血圧体質の一織は冬の朝が苦手だ。身体が目を覚ますまで人より時間がかかるし、無理をすると貧血を起こす。
 とはいえ、それだけだ。起床時刻より早めにアラームを鳴らして、余裕を持って行動すればいい。体調管理とはそういう積み重ねだ。
 温かな布団にくるまったまま、一織はそっと耳を澄ます。壁を隔てた隣は陸の部屋だ。今朝は咳き込んでいないだろうか。最近の陸の体調は、深夜から明け方に悪化することが多い。先日、倒れた陸を救急外来に運び込んだのも、夜更けのことだった。
 あの夜以来、一織はずっと不安を抱えている。自分が眠っている時間に、取り返しのつかないことが起きてしまわないだろうか――。
 一晩中起きて、見守っていられたらと願いもする。だが一夜のことならともかく、学業と仕事に加えて毎夜の不寝番など無理な話だ。一織までもが体調を崩すわけにはいかない。それは今一織が担う、絶対の責務だ。
 センターを交代した分、いつもより少しだけ無理が利くと、紡にも伝えてある。だが「少しだけ」だ。高校生として学校へ通うこと、万全の体調で、最上のパフォーマンスを保つこと。その一線を踏み越えることは許されない。一織がセンターを担う意味がなくなってしまう。
 あんなに陸を傷つけて、彼の場所を奪っておいて、後先考えない全力疾走など、一織に許されるわけがない。
 わかっている。
 唇を噛みそうになり、一織は意識して力を抜いた。この顔とて大事な商品だ。気持ちの揺らぎで傷つけていいものじゃない。
 幸い、今朝の陸は静かに眠っているようだった。安堵の息をつき、一織はゆるゆると起き上がる。目眩なし。頭痛なし。視界良好。疲労感、ごく軽度。
「――よし」
 今日も大丈夫だ。頷いて、枕辺のリモコンを手に取る。夜と朝を切り替える音がして、室内が明るい光に満ちる。
 ロフトベッドの階段を降りて最初の行動は、カーテンを開け、外の光を取り入れることだ。身体の目覚めになにより有効なのは太陽光。隙間風が入る代わり、採光が良いところがこの部屋の取り柄だ。
 室内はたちまち溢れる光に満ちた。人工の灯りなど比較にもならない。
 よく晴れた、いい天気だった。春の訪れを思わせるあたたかな陽射しに、思わず唇が綻ぶ。陽光とは偉大なものだ。朝一番に浴びるだけで、前向きな気持ちを後押しする。
 まるで彼の歌のようだ。
 脳裏に歌声を鳴らしながら、洗顔の支度をし、クローゼットの内側の鏡に向き合う。いつも通りの、小生意気な澄まし顔が見つめ返してきた。肌荒れも隈もなし、笑われるような寝癖もなし。パーフェクト高校生和泉一織ここに在り、だ。
 深呼吸をして、ドアノブに手を掛ける。
 さあ、今日を始めよう。いつも通りに、パーフェクトに、人工の灯火みたいに安定した光量で。夜を照らす魔法を歌い、光のパレードを魅せよう。
 大丈夫。
 夜はいつか明ける。
 魔法の時間が終わったら、朝が来て、あの光が照らしてくれる。
 だからそれまで、けして倒れることなく、踊り続けるのだ。