約束のJune

 玄関をあけると、ふわりといい匂いが鼻をくすぐった。オレは唇を綻ばせながら家の奥へただいまの声を投げて、洗面所へ向かう。帰宅したら手を洗ってうがいをするのは、寮生活の頃からのオレたちの決まりごとだ。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい、陸さん。お疲れさまです」
 リビングの扉をあけると、キッチンから一織が笑いかけてくれた。おたまでかき混ぜている鍋が、いい匂いの正体だ。タクシーから帰宅時間を知らせたから、夕食を温め直してくれてたんだろう。
 一織と二人で暮らすようになってもう何年にもなるけど、一織のこういう細やかな優しさは変わらない。そういうふうに優しくしてくれるたび、オレの胸がぽわぽわとあったかくなるのも。
「いただきます!」
「はい、召し上がれ」
 夕方に現場で軽く食べたと伝えたから、一織が用意してくれたのは白米に汁物と小鉢の、軽めの夜食だった。手を合わせて食べ始めたオレの向かいの席に腰を下ろし、一織は手帳のページをめくる。
「今日はマネージャーと打ち合わせだっけ」
「ええ。先日話したロケの件、詳細決まりましたよ。それから、愛なNightの企画会議の日程が――」
 もぐもぐ口を動かしながら一織の説明を聞く。アイドル業とプロデューサー業、一織の二足のわらじは相変わらず順調だ。大学を卒業してからは仕事をセーブすることもなくなり、忙しさで倒れちゃうんじゃないかって心配したこともあるけど、年を経るにつれていい具合に肩の力を抜くのがうまくなってきたみたいだ。本人は、オレのストレス軽減のために仕方なく、なんて言ってるけどね。相変わらず素直じゃなくて、かわいい。
「あと、」
 食べ終えたオレに食後のお茶を淹れながら、少し改まった様子で一織が口を開いた。
「これはちょっと先の話なんですが、陸さんに相談したい案件があって」
「えっ、なになに? 相談って珍しいな」
 途端にわくわくと前のめりになるオレに湯飲みを差し出し、一織はとある雑誌の名前を挙げる。アラサーからアラフォー、つまりオレたちの年齢層あたりをメインターゲットにした、ややお固めの総合誌だ。
「紡さんが別の案件で編集部に行った際、雑談で出た話ということで、まだかなり先の、現状オフレコの話題なんですが……」
「前置き長くない?」
「これくらい言っておかないとあなたうっかりよそで喋るでしょ。来年6月発売の号で、結婚をテーマにした特集を企画中だそうです。その中で、アラフォーで未婚のアイドルを起用して、グラビアとインタビューをやりたいと。話題は当然結婚について、ということになりますが」
「が?」
「――特集の方向性として、異性カップルの法律婚以外にも目を向けたいと……事実婚や同性のパートナーシップ、夫婦別姓、自治体の制度や法改正に向けた取り組みなども、かなり踏み込んで扱うそうです。インタビューにもそうした話題は盛り込まれるでしょうね。それで、正式オファーが来たとすれば受ける気はあるか、受けるならNGラインをどう定めるか、先に確認しておきたいと紡さんが」
「あー……そっか。気にしてくれたんだ。マネージャー、優しいよね」
「ええ」
 笑顔で頷き合って、お茶に口を付けた。二十代の頃、メンバーも巻込んだすったもんだの末にオレたちが恋人という関係におさまってから、彼女はずっとオレたちの一番の味方でいてくれている。この件も、オレたちを傷つけまいと気遣ってくれてるんだろう。
 湯飲みを置き、うーんと思案する。アイドルという職業上、恋や結婚について、言えることと言えないことがあるのは当たり前だ。男女の関係が前提の質問なら、ある意味では楽でもある。そこにオレの求めるものはないし、女の子たちの夢の詰まった世界は華やかで素敵だ。憧れでコーティングした、ピュアな言葉を語ればいい。七瀬陸のパブリックイメージならそれがベストだと太鼓判を押したのは、目の前にいるオレのプロデューサーだ。
 だけどどうやら、今回は少し毛色が違う。
「アラフォーで未婚、って絞るあたり、だいぶリアル寄りの話だよね」
「そうでしょうね。アイドルの恋愛や結婚、という方向の掘り下げも狙ってはいそうです。ゴシップ誌ではないので、プライベートを詮索してくることはないと思いますが」
「そっか。オレはこの仕事、来たら嬉しいし、できればなるべく正直な話をしたいな。全部が無理なのはわかるけど……。一織的にはアウト?」
「いえ……。私としては、そうですね、この機に……というわけでもないんですが、新機軸の提案があって」
 妙に歯切れ悪く言いながら、一織は折りたたんだ紙束をオレに差し出した。長いこと畳まれていたのか、やけに折り癖のついた紙を広げ、中にある文字に目を通して――
「えぇ!?」
「出しましょうか。それ」
「――いや、おまえ、出しましょうかって、その前に言うことあるだろ!?」
「アイドルのファンって複雑ですからね。若いうちの匂わせやスキャンダルは御法度ですが、品行方正なまま一定年齢を越えると、パートナーがいないことを心配する声が増えてくる。あなたか私のどちらかが女性なら、とっくに公表している頃合いですよ。もちろん嘆くファンも当然いますしいてくれないと困りますが、全体的には祝福される誠実なゴールインです。恋愛期間があまり遅いと公表時に責められることすら」
「そういう話じゃなくて! ……っ、だっておまえ、オレのプロポーズ6回断ったじゃん!」
「数えてるんですか? 執念深いな……」
「一途って言うとこだろ!?」
 ギャンギャンとわめくオレを一織は余裕たっぷりの顔で眺めて、目を細める。あ、これ、「かわいい」の顔だ。こいつ……。
 一織が寄越したのは、都のパートナーシップ宣誓の申請手引きをプリントしたものだった。中身に見覚えがありすぎるのは、これはかつて、オレが一織に渡したものだからだ。オレと一織はこの国の法律じゃ結婚できない。だったらせめて代わりのなにかがほしい。そう言ってねだるオレを拒絶し続けてきたのは一織のほうだ。
「そういう話ですよ。最初から、そういう話に過ぎないんです、私には。書類上の関係をあなたと結んでも、その権利を堂々と行使できないのなら意味がない。アイドルのままあなたと生きていく約束なら、事務所の契約のほうがよほど拘束力が強い――そう考えていましたから。でも」
「でも?」
「……だんだん腹が立ってきて……」
 言いながら思い出し怒りがこみ上げたのか、眉間にきゅうっと皺を刻むのが面白くて、オレは思わずふはっと笑ってしまう。クールだなんだと言ってはいるけど、こいつだって表情は豊かなのだ。
「ここ数年で、同世代どころか年下からも結婚報告を聞くようになったじゃないですか。荒れるファンや離れるファンも当然いて、それでもアイドル生命が終わるわけじゃない。交際期間なんて私達の方がよっぽど長いのに、男女の法律婚とパートナーシップ制度が並べて語られる時代になっているのに、私はいつまで独身の理由をもっともらしく語らなければいけないんだろうと。――極めつけはあなたのお兄さん」
「天にぃ?」
 オレはもう一週回っていっそワクワクしながら、一織の演説に相槌を打つ。
「昨年、あなたと九条さんの関係を公表したじゃないですか。そのこと自体は良かったと思っていますけど、……もし今後、万が一、あなたの身に何かがあって、それが報道されてしまったら。望む望まざるに関わらず、マスコミがカメラとマイクを突きつける相手は九条さんです。その覚悟を、あの人はを示した。私がこのポジションに甘んじているあいだに。……そういうことが、少しずつ、だんだん、嫌になってきてしまって」
「そっか。……そっかぁ」
 オレは席を立つと、一織の隣に座り直した。肩を抱いて引き寄せる。オレに素直に体重を預けた一織の、頭の重みが心地良い。
 歌い続けること、一織がいること、みんながいて、天にぃがいること。オレの望みは突き詰めればそれだけのシンプルさだけど、頭のいい一織はもっとたくさんのことを考えてしまう。もっと気持ちに素直になってほしいと願うこともあるけど、でもそれがオレの好きな一織だ。
「きっぱり断るばっかりだったから、一織的には全然なしかなって思ってた。たくさん考えてくれてたんだ。ありがとな。でも、それならそれで教えてくれたっていいのにさ」
「そんな隙を見せたらあなた、ここぞとばかりに攻め込んでくるでしょ。押し切られるじゃないですか。あなたのそういう顔に弱いんだから」
「……へへ。知ってる」
 年齢を重ねて昔より少しだけ艶を失った、さらさらの黒髪を撫でる。例えこの髪がすっかり真っ白になっても、オレたちはこうして隣り合って座るだろう。
 それが一番大事で、それだけでもきっと幸せでいられる。
 でも、欲しいものがもっとあるのも、本当だ。
「できれば法改正を待ちたかった。より理論武装がしやすいですから。でもいつになるやら……。それに考えてみれば、あなたと九条さんの件もそうですし、六弥さんの出自を明かしたときも、逢坂さんのご実家の件でも、四葉さんと理さんが関係を公表したときも、二階堂さんと千葉さんのことが知られたときも、どんな声を浴びせられたって、IDOLiSH7はおしまいにならなかった。もちろん無風ではなかったし、ひどい嵐も何度もありましたけど、パラシュートを使う場面もないまま、私達は相変わらず、前人未到の空を飛び続けている」
「あはは、そうやって並べると、オレたちって告白が多いグループだよね」
「本当ですよ。……ですから、もうひとつくらい足したって、きっと」
 淡々と紡がれる言葉。裏腹に冷えて震える指先を、オレはそうっと包み込む。
 大丈夫。こわくないよ。
 こわいことがあったって、大丈夫。
「……ね。ちょっと待ってて」
 一織の手の甲をぽんと叩いて、オレはぱっと立ち上がった。私室に駆け込んで、ベッドサイドの引き出しをあける。何度拒まれたって捨てられなかったケースを手にリビングに駆け戻ったら、一織は呆れたように笑った。
「埃が立ちますよ、ドタバタしないで」
 お小言にはぁいと答えてから、オレは表情を引きしめて、一織の足元に片膝をつく。パカリと開けたベルベットのケースの中には、シンプルなプラチナリングが二つ仲良く並んでいる。
「あらためて言うよ。和泉一織さん、オレと結婚して」
「……っ、『結婚』ではないんですよ」
「うん」
「私の分析が間違いで、あなたのアイドル生命を奪ってしまうかもしれない」
「そのときはパラシュート使って着地して、また始めればいいよ。ほら、言い出したの一織だろ? いい加減観念しろって」
「…………」
 俯いてふーっと長いため息をついた一織は、顔を上げるとオレをじっと見つめた。夜空の色の瞳。オレがステージで降らせる流れ星のみなもと。
 一織はようやく、ふわりと微笑んだ。
「七瀬陸さん。私と一生をともにして下さい。行き先が天国でも、地獄でも、一緒に」
「っ、うん……!」
 差し出された一織の左薬指に、リングを嵌める。手つきはちっともスマートじゃなくて、二人で笑った。それから一織がケースからリングを取り出し、オレを立たせ、オレよりずっとスムーズな手つきでオレの左薬指に嵌めてくれた。
「明日マネージャーに話しに行こ。これからも、末永くよろしくな」
「……こちらこそ」
 どちらからともなく、おごそかにハグをする。
 オレの肩の上で、一織が小さく笑い声を立てた。
「嬉しいな。本当は、ずっと夢だったんです。やっと言える。皆さんの前で、『この世界で私が一番、七瀬さんが好きです』って」
「……っ、泣かすなよ、もー……!」
「ふふ」
 祈るみたいに、誓うみたいに。その夜オレたちは抱きしめ合って眠った。少しだけ泣いた目元が腫れないように丁寧にケアをしてから。
 オレたちはきっとこの先も、そんな風に生きていく。誰かの笑顔のために、自分たちの欲しい未来のために、歌って、踊って、笑うのだ。
 願うよ。オレに、あなたに、明日もいいことがありますように。
 優しい未来が訪れますように――