レインボーシティのオープニングイベントは、それはもう大々大成功だった。百さんがラジオで言った通り、人類の歴史に残るくらいハッピーで、笑顔に溢れた、最高の一日。
関係者一同での大きな打ち上げと、オレたち十六人とマネージャーたちだけでの二次会があり、アイドル棟にある宿泊施設のベッドに入ったころには深夜をすぎていた。贅沢なことに、次の日はまるまるオフ。好きなだけ朝寝坊していいと言われていたんだけれど、ライブの興奮がまだ続いていたのか、目が覚めたのはずいぶんと早い時刻だった。高級そうな遮光カーテンの端を少しずらして覗いた窓の外には、ようやく白み始めた空が見えている。
さすがに起きるには早いかなと、もう一度まぶたを下ろしてみたけど、睡魔はすっかりどこかへ行ってしまったらしい。諦めて身を起こし、隣のベッドに目をやって、あれ、とオレは首を傾げた。
ベッドの上がぺたんこだ。
いつも通り、ツインルームの同室は一織だ。寝る前にちゃんと歯磨きをして、パジャマに着替えて、おやすみなさいを言い合った記憶は確かにある。掛け布団はきれいに整えられていて、ちょっとトイレとか、水を飲むとか、そういう感じでもなさそうだ。
一織は朝に弱いほうだから、オフの日の朝なら、まだゆっくり寝ているはずの時間なんだけど……。
一体、どこにいるんだろう。
カーテンを開けて、薄闇の部屋を見渡す。目当てのものはすぐに見つかった。備え付けのメモパッドの一番上に、見慣れた几帳面な筆跡。『少し、外を歩いています。朝食までには戻ります。』だって。
自分の口元がほころぶのがわかった。なんてことのない連絡事項だけど、一織らしさがたくさん詰まっている。オレを心配させない明瞭なメッセージ、着信音を鳴らさないためだろう直筆のメモ、明かりをつけずに書いたからか、少しだけ斜めに傾いだ文字列。
そういえば昨日の朝は、先に起きて海を眺めていたオレを一織が追いかけてきたんだっけ。かわたれどきの海辺で、まるであたりまえの顔をしてオレを呼んだ、昨日の一織を思い出す。
いつだってそうだ。
いつだって、一織がオレを見つけてくれる。
じゃあ、オレは?
着替えをして、靴を履く。一織のメモを小さく畳んで、お守りみたいにポケットに入れた。
この部屋で大人しく待っていれば、一織は必ずオレのところに帰ってくる。わかってるし、信じてる。それでも、今朝はオレが、一織を見つけに行きたかった。
真っ先に向かったビーチに人影はなく、波の音だけが小さく響いていた。顔を出したばかりの太陽の光が、水面できらきらと弾けるように輝いている。
朝虹のかかった昨日の海は、息を呑むほどきれいだった。めったに見られない、特別な美しいものに出会えた興奮と幸福があった。だけど、水平線の朝日と海の組み合わせっていう、天気さえよければいつでも見られる光景も、目が離せないくらいにきれいで、魅力的だ。
この光景を、一織もどこかで見ているだろうか。
足元で、砂がさくりと鳴った。このビーチエリアのために厳選され、運び込まれた、きれいな白い砂が、オレの靴の形に浅く沈んでいる。
次に向かう場所を思い付いて、オレは海に背を向けた。
――見つけた。
街の玄関口にあたる噴水広場に向かってすぐ、その姿が目に飛び込んできた。海からの風にさらさらとなびく黒髪と、朝の光を浴びる横顔の輪郭だけで、間違いなく一織だってわかる。
一織は広場の真ん中にしゃがみこんで、地面を見つめているようだった。駆け寄りたくなる気持ちを抑えて、オレは一歩一歩を踏みしめるように一織に近づいた。
あそこに、何があるか知っている。
この街にオレたちが確かに残した軌跡。終点でもあり、出発点でもあり、道の途中でもある、素足の一歩の記録。
一織の手は地面を優しく辿っていた。あのとき、並んで足型をつけたのは一織と三月。それから、オレと天にぃだ。そのうちのどれに一織の指が触れているのか、知りたいような、まだ知りたくないような、不思議な心地だった。
朝の光のつくる、淡くて長いオレの影が、一織の視界に入ったのだろう。一織はこちらを見上げて、眩しげに目を細めた。
「おはよ、一織」
「七瀬さん。すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん。なんか、目が覚めちゃった。昨日すっごく楽しかったから、まだドキドキしてるのかも」
立ち上がろうとする一織を制しながら、オレは残りの数歩の距離を足早に詰めて、一織の隣にしゃがんだ。
一織の目の前にあったのは、オレの足型だった。
その隣、オレの前には、一織の。
それだけで――たったそれだけのことで、わあっと叫び出したいような気持ちになる。
「……私もです。いや、違うかな。なんだか眠れなくて。まだ、信じられないような……夢を見ているみたいな感覚なんです」
「夢みたい?」
「だって、ずっと、夢でしたから。ずっと、永遠を願いたかった。終わらないものでいたかった。終わらないものでいたいと願うことを、終わらせたりしないと誓うことを、許されていたかった。ないものねだりとわかっていて、それでも、どうしても、悪魔に魂を捧げてでも。……それを願うのが、世界でたった一人、私だけだったとしても」
「……一人じゃないよ。一人じゃなくなった」
「ええ」
一織の指先が、愛おしげにオレの足型をなぞる。
「本当に、信じられない。私だけじゃなくなった。終わらないことを願っていい。呆れられても、見放されても、私たちを愛する人が誰もいなくなっても、それでも私たちからはここを去らない――昨日のライブで、私たちは世界に向かって約束した。そうでしょう?」
「うん」
頷いて、オレも一織の足型に手を重ねた。足のサイズはオレと同じなのに、形はオレとはずいぶん違って、大きさの違う三月のほうに似ている、一織の足。
「……オレ、終わらないものはないって思ってた。だから、いつかその日が来たときは、上手にお別れをしようって。けど、高いところから落っこちても、パラシュートを開いて着地して、また歩き出せるなら、それが終わらないでいるってことなんだよな。いまは、そんな風に思うよ」
「パラシュートくらい、いくつでも出します。あなたが望む限り」
「あはは。手品師みたい。格好いいな一織」
「完璧ですから」
一織は幸せそうに微笑むと、すっと立ち上がった。差し伸べられた手を借りて、オレも立つ。一織の手は、少し冷えていて、少し震えていた。叶うならまだ、この手を離したくない――オレのその願いが胸の内で言葉になるよりも早く、震えたままの一織の手が、オレの手を強く握っていた。
「いお――」
「七瀬さん」
朝日に照らされた、一織のフォグブルーの瞳が、夜明けの海みたいにきらきら輝きながら、オレを映している。
「――あなたが好き」
泣き出しそうな顔で、一織が笑う。
「……え、」
「あなたが好きです。七瀬さん」
「一織、……一織、一織、それって…………」
「はい」
震えているのは、いまはオレの手だった。
だって。
だって、それって。
それってさ。
「……間に合い、ませんか? もう手遅れ?」
「そんなことない!」
被せ気味に言いながら、一織の手を両手で掴んで引き留める。
「全然そんなことない、でも、……だって、おまえ、」
言葉がうまく出てこない。代わりに、一織の手を握った。つながった場所から、全部、全部、伝わるように。一織の紡ぐ言葉を、ひとかけらだって取りこぼさないように。
「……わからなかったんです。本当に。あなたは私の夢そのものだから。この気持ちが、あなたがくれるのと同じ、あなたが欲しがる特別と同じなのか、わからなかった。私の夢のための、私のエゴでしかないのかもしれない。でも……」
一織が好きだ。
仲間で、親友で、相棒で、オレのプロデューサーで、でもそれだけじゃ足りない。そういう、特別の”好き”に、いつのまにかなっていた。思っているだけじゃ足りなくて、一織からも同じだけの特別の”好き”が欲しくなった。一織にそう伝えて、にべもなく振られたのは、たしかにずいぶん前のことだけれど。
手遅れになんて、なるもんか。
「永遠を、願っていいなら。アイドルのあなたの隣で、一生、あなたを支えていたいと願う私のままでいいなら、――あなたの隣は、私がいいです。ほかの誰にも、あなたのお兄さんにも、どんな素敵な女性にも、譲りたくない。あの朝虹も、私たちがこれから見るどんな素晴らしいものも、あなたの隣で、あなたと見たい。私の特別の”好き”は、私があなたにあげられる”好き”は、きっと、この形しかない」
「うん、……うん」
「……っ、勝手に、どこかに行かないで。私がいいって、――私でなければだめだって、言って」
「一織がいい。一織じゃなきゃ嫌だよ」
「私も。……私も、あなたがいい」
ぽたりと水滴が、手の甲に落ちてきた。
「あなたがいいです……」
「うん」
「あなたが好き……」
「……っ、オレも、好き、好きだよ、一織、大好き……っ」
美しい瞳に涙を浮かべた一織が、安心したみたいに、幸せそうに笑う。
きっとオレは一織のこの、夢見る子どもみたいな瞳に恋をした。
一織。
ねえ、一織。
おまえに永遠をあげる。
虹に祝福されたこの街で、オレたちが、できない約束をしようと決めたみたいに、お前に永遠をあげるって誓うよ。
恋なんて、本当はいちばん、永遠から遠い。オレの恋は、いつかおまえに消えない傷をつけるのかもしれない。おまえのくれる特別が、いつか、オレの息の根を止めるのかもしれない。それでも。
――それでも。
それでもだよ。
「あなたと、」
おまえと歩いて行くんだ。この足で。
