夢を描くひと

 たそがれ一座の飛行艇は、公演を知らせるビラを降らせながら、街の中央にある広場にさしかかりました。街の人たちは大騒ぎをしながら空を見上げ、飛行艇を指差します。建物の窓からも、たくさんの人々が飛行艇をひと目見ようと身を乗り出していました。
 ビラを手に甲板に立ったクラウンは、微笑みながらその光景を眺め渡します。クラウンの特別製の目には、一座の到来に沸き立つ街の人ひとりひとりの表情までも、くっきりと見えていました。街外れから走って追いかけてきた少年は、広場の隅で息を切らしています。箱馬車の窓からそっと盗み見る、可愛らしいご令嬢の、好奇心に輝くひとみ。揚げ芋の屋台の男は、よそ見のせいでお釣りを数え間違いそうです。レースのカーテンの向こう、夜のお仕事だろうご婦人のしどけない寝起き姿は、いささか刺激的……。
 向こうの建物の屋根裏部屋の窓からは、赤毛の青年が船を見上げていました。みすぼらしい衣服についた色とりどりの汚れからすると、売れない絵描きといったところでしょうか。まんまるの目には空のいろが映り込んで、それ自体が絵のようです。
 絵描きの青年は空を舞うビラに手を伸ばし、その弾みにバランスを崩して窓の外に落っこちかけました。どうやら、なかなかの粗忽者のようです。今回のショーの舞台はこの広場を予定していますから、かれの部屋からも様子が見えるでしょう。夢中になるあまりに本当に落っこちてしまわなければいいのだけれど。ポヨンと弾むトランポリンを、あの窓の下に置いておこうかしら。クラウンはなんだか愉快な気持ちで、くるりと身を翻しました。踊るような足取りで甲板を歩くクラウンを、彼を慕う団員たちがたちまち取り巻きます。口々に話しかけるかれらに応えながら、クラウンはにっこり笑いました。
 ショーの開幕をひかえ、準備に浮き立つ飛行艇を、音楽家の奏でる楽器たちが、賑やかに盛り上げています。
 さて、この街では、どんなお宝が見つかるでしょう。

 ショーの開幕を告げる口上を滔々と述べながら、クラウンは視界の端にあの赤毛の絵描きのすがたを見つけました。胸にはスケッチブックを抱いています。沈む前の大陽のような瞳が、ショーの灯りを反射して色とりどりにきらめいていました。
 ステージを見つめるきらきらの瞳は、クラウンがもっとも愛するもののひとつです。貧しいものにも、富めるものにも、幸せなものにも、不幸せなものにも、ひとしく一夜の夢を見せてやるのが、クラウンの仕事です。クラウンがこの世に存在する理由だと言ってもいいでしょう。クラウンは心を浮き立たせながら、くるりと回っておじぎをしました。暮れかけの空には花火がいくつも上がり、高らかにファンファーレが鳴り響いて、人々の歓声は空を揺らさんばかり。さあ、夢の時間の始まりです。
 クラウンと入れ替わりに、人形使いがステージに躍り出ました。夜のまだ浅い時間の演目は、こどもたちが一番のお客様。まるで生き物のようにステージを動き回り、さまざまな声音でお喋りをする人形たちに、きゃあきゃあと可愛らしい笑い声が上がります。
 人形たちの歌と踊りをたっぷりお楽しみいただいたあとは、美しいナイフ投げのショータイム。異国風の衣装の袖をひらめかせ、銀色にきらめく刃を自在に操って的に当てていくスリリングな出し物に、お客様はすっかり夢中で、魅入られたようなため息が場内を満たします。クライマックスではクラウンが頭上に乗せたリンゴにナイフが見事命中し、拍手喝采が上がりました。優雅に一礼するナイフ使いに、ご婦人方がうっとりと見とれるのもいつも通りです。
 退場するナイフ投げを見送ったクラウンのもとに続いてやって来たのは、山ほどの楽器を担いだ音楽家。ことばを使わず、身振り手振りでふたりは語らいます。きみの手は二本しかないのに、そんなにたくさんの楽器をどうするの? やあ団長いいところに、ちょっとその手を貸しておくれよ。このバチで太鼓を……こう? いや、いや、そうじゃない。こうかな? ちがうったら! もうあんたクビ! 仕方ねえなあ、誰か手伝ってくれるやつはいるかい? なにしろ手が二本しかない!
 音楽家はステージに次々とお客様を呼び込み、即席の大合奏会が始まりました。太鼓係を首になったクラウンは、おどけた身振りで観客を笑わせながら、袖へ引っ込みます。
 それから、それから……。たそがれ一座のショーはまだまだ終わりません。クラウンは満場の客席を見渡して、おや、と首を傾げました。赤毛の絵描きが、そうっと出て行くところでした。
 出口近くで絵描きはちらりとステージを振り返り、汚れた袖でぐいと目元をぬぐうと、逃げるように去って行きました。胸に抱かれたスケッチブックは、一度も開かれることのないままでした。

 まあるい月が西の空に傾くころ、ショーの初日は幕を下ろしました。クラウンは街の上空に浮かんだ飛行艇から、家路につく観客を見送ります。一座が見せた夢の名残をふわふわと纏って、人々の足取りは軽やかです。明日また訪れる人も、そうでない人もいるでしょう。明日の楽しみを、あるいは明日を乗り切る糧を、クラウンはショーを見に来る人々に贈るのです。
 残念ながら今夜は、そうでない人もいたようですが……。甲板でひとり夜風に吹かれながら、クラウンは少しずつ静寂を取り戻していく広場を眺めて、ひとつため息をつきました。長く一座を率いてきたクラウンにだって、こんな夜はあるのです。
 すこし未練がましく、クラウンは赤毛の絵描きの住む部屋の窓に目をやりました。そして、ぱちりと瞬きをしました。開け放たれた窓の向こう、いっしんにイーゼルに向かうのはあの絵描きでした。天井からぶら下がる、たよりない灯りが、ほのかにその顔を照らしています。
 絵描きの赤い瞳は、まるで炎のようでした。睨むように、挑むように、まだ空白の多いキャンバスを――そのむこうにある何かを、じっと見据えています。
 クラウンは手すりに頬杖をついて、ほうっと息をつきました。今度のため息は、さきほどのそれとは、まるで違う温度です。
 いつしかクラウンの口元には微笑みが浮かんでおりました。夜色の瞳が、星明かりの下できらきらと輝いています。
 クラウンは知りませんでしたが、それは、たそがれ一座のショーに夢中になる人々の瞳と、そっくりおなじ輝きなのでした。