水底のシェヘラザード

 幾度目かに意識を取り戻したシャイロックは、まぶたを下ろしたまま静かに周囲の気配を探った。
 魔力は相変わらず奪われたまま、海底の魔法陣に絡め取られた肉体の自由も効かない。だが未だに呼吸ができているのは、バルタザールがシャイロックの命を奪うよりも屈服させることに固執している証だった。
 シャイロックの唇がゆるりと笑みをつくる。
(――そう、それでいい。私を打ち負かしたと確信できない限り、あなたは私を殺せない。単純で愚かな北の魔法使い……)
「目が覚めたか、シャイロック」
 高圧的に呼ばれ、シャイロックはゆっくりと目を開いた。心持ち顎を引き、黒々とした睫毛越しに、西の国一番と讃えられた流し目を送ってやる。深海に映える真紅の瞳のきらめき、物言いたげにうすく開いた唇の、計算されつくしたわななきすら、この男と対峙するためのシャイロックの武器だ。
 堂々たる体躯を誇示するように眼前に立つバルタザールは、それが借り物の肉体であることを思えば滑稽なほどに矮小だった。レノックス本人の立ち姿はもっと自然で、かろやかだ。彼に縁の深いフィガロやファウストがどんな辛辣な論評を述べるか、想像するだけでも楽しくなれる。昔ほどの切れ味は見込めないけれど、ムルにも参加してもらおう。あるいはラスティカの無邪気で的確な批評が効果的だろうか。
「憔悴しているな。無様なことだ。私の慈悲で生かされていると身に沁みただろう」
「頼んでいませんよ。私を殺したければ、いつでもお好きになさって」
 愛する友人たちを思い浮かべながら、シャイロックはバルタザールの代わり映えのしない脅迫を受け流した。なんとかのひとつ覚え、とは前の賢者が教えてくれた言い回しだったろうか。不快げに歪められた表情はレノックスには不似合いで、その似合わなさがいっそ愉快なほどだった。あの実直な羊飼いがこんな表情を見せてくれる機会などないだろうから、堪能しておくことにする。
「きさま」
 額に青筋を浮かべたバルタザールにまた呼吸を奪われるかと身を固くしたが、不毛な繰り返しに北の魔法使いもようやく飽きたようだった。優位性をことさらに誇示する品のない笑い声のあと、
「《メア・プラエダ》」
 呪文とともに、クロエがこの日のために誂えてくれた美しい衣装が、胸の中央で上から下まですっぱりと裂けた。衣装の胸元がひらいて、なめらかな白い肌と、左胸の紋章が晒される。肌も浅く切られたのだろう、ちりりと痛みが走った。
「…………」
 腕は魔法の枷に拘束され、衣服をかき寄せることすらできない。無言で睨み据えてやると、バルタザールは愉悦に喉を鳴らした。
「《メア・プラエダ》」
 呪文のたびに衣装が裂かれ、身を包む用を為さなくなった布きれがゆらめきながら離れていく。幾度目かに髪の結い紐もぷつりと切れて、ゆたかな黒髪が海中に広がった。
 唇をひき結び、反抗的なまなざしを逸らさないまま、シャイロックはバルタザールの蛮行を受け止める。
「《メア・プラエダ》。――――」
 バルタザールの――肉体的にはレノックスのものである喉の隆起が、ふと不自然に上下した。シャイロックを見下ろすまなざしの奥、燃えさかる憎しみの炎に、少しずつ異なる色が加わっていく様子を、シャイロックは注意ぶかく見定める。
「……ふん、奴隷らしくなったな。きさまには似合いのざまだ」
 舐め回すようなねっとりとした視線が、シャイロックの全身を撫でた。
 すでに肌は半ば以上が露わになり、浅い切り傷も白い皮膚に幾筋か走っている。シャイロックはほんのわずか、長い睫毛を伏せかけた。下まぶたをぴくりと痙攣させ、我に返ったように、ふたたびバルタザールに視線を戻す。
 きりりとつり上げていた眉の角度は少しだけゆるみ、不服従を示してきつく結んだ唇も、落ちつかなげにひくついた。
 弱みを見つけたと言わんばかりに、バルタザールがにたりと笑った。腰回りを覆うスラックスの残骸が、なぶるような緩慢さで、じりじりと裂かれていく。
 シャイロックは呼吸を乱した。視線を彷徨わせ、自由にならない手で海底を掻く。
「……っ、ふはは! さっきまでの威勢はどうした!」
 バルタザールが高らかに哄笑した。海水がごうと唸って渦を巻き、美しい海と上等のワインの色をした衣装が――それであったものの残骸が、シャイロックの身体から剥ぎ取られていく。
「今度こそ私にひれ伏させてやる――シャイロック」
 嫌悪と羞恥の朱を絶妙な加減でまなじりに上らせつつ、シャイロックも胸の内でひそやかに笑った。どれほど強大な力を操ろうとも、北の男はかわいらしいほどに愚かでうぶだ。享楽に生きる西の魔法使いにとって、羞恥も屈辱も快楽のスパイスにすぎない。涎を垂らした犬の下卑た視線に嬲られる、スリリングでいけない遊戯の愉悦など、見当もつかないことだろう。
 無骨な指がシャイロックの顎にかかり、無理矢理に引きずり上げた。自由を奪われたままの肢体はだらりと水中で縦に伸び、隠すもののない素肌を男の眼前に晒す。
 不快さがない、わけではない。均整の取れた長い手足も、夜の色の長い髪も、白い肌に控えめに散らばる[[rb:黒子 > ほくろ]]のひとつひとつすら、誰に恥じるところのないシャイロックのお気に入りだけれど、こんな男の目を楽しませるためのものではない。借り物のそれとはいえ、雄々しい体躯によく似合う衣装を着込んだ美丈夫の前で、自分ばかりが裸に剥かれているのも業腹だ。酷く屈辱的で――だからこそ、たまらなく興奮する。
 命懸けの、これは遊びだ。
「どこを見ている、シャイロック」
「…………っ」
 苛立ちもあらわに、バルタザールが手に力を込めた。顎の骨が軋む痛みにシャイロックは顔を歪める。久々に聞かせた苦悶の呻きがよほど気に入ったのか、バルタザールは下卑た舌なめずりをした。
「身に染みただろう。私に従わないというなら、お前に耐え難い恥辱を与えてやる」
「ふふ……、相変わらず、無粋なひと……」
「なに?」
「西の魔法使いシャイロックが肌を許した相手など、この数百年、数えるほどしかおりませんよ。手に入れようとするものの価値も知らず、無邪気に踏みにじるばかりでは、昔のあなたと何も変わらない」
「……価値だと」
「そう――西は欲望と享楽の国。北の国は強さがすべてですが、西では……」
 拘束する手のわずかな緩みに乗じて、シャイロックは小さく首をめぐらせた。てのひらに頬をすり寄せたようにも、触れてくる手を拒んだようにも見えただろう。
 ほとんど自由にならない身体をくねらせ、長い睫毛を蝶の羽のように[[rb:瞬 > しばたた]]いて、つやめいた唇で芸術的な弧をえがく。
 一瞬、バルタザールの顔が無防備に[[rb:呆 > ほう]]けた。
 シャイロックには見慣れた表情だ。
 短くない人生の中で、波の数ほど見てきた。女も、男も、老人も、若者も、魔法使いも、人間も、どちらでもない存在すらも。恋を知るものも、恋を知らないものも。
 シャイロック自身が、かけらも望んでいなくとも。
 あのときあなたに心を奪われなければ、と、幾度言われただろう。ある者は幸福そうに、ある者は苦悶の果てに、ある者は狂乱しながら、またある者は……。
 西の魔王の魅了。それが魔法などではないのだと、知るものはごくわずかだ。
「北の殿方には少々刺激の強い遊びも、この国では至極ありふれた戯れにすぎません。真の快楽とは、より深遠で、濃密で、数世紀を過ごした美酒のように豊潤なもの……。知りたくはありませんか? 神酒の歓楽街の店主たる私が、私のお気に入りのみなさんを、どのような高みに導いてさしあげるのか――」
 揺らぐまなざしを絡め取り、煮詰めた蜜のように甘く甘く、囁きかける。
(哀れなバルタザール。あのまま石になっていれば、二度も道化になることはなかったろうに……)
「気に入りだと……! お前は昔もそんなことを言って、私を破滅させたではないか」
「そしてあなたはこの暗い水底で、執念深く復讐の機会を待っていた。望みは叶いましたか?」
「っ、うるさい!」
 バルザックが癇癪を起こし、刃のように硬化された水がシャイロックの頬を鋭く裂いた。水中にぱっと赤い血の花が咲く。
 なおもシャイロックは笑った。
「私を殺したければ、どうぞご勝手に。あなたはなにも知らないまま、なにも手に入れないまま、この寂しい王国で、私だった石を抱いてお眠りなさい」
「黙れ、シャイロック……!」
 バルタザールの感情をあらわすように、海水が激しく波立つ。シャイロックの長い髪が意思を持つ生き物のようにうねり、白い首に絡みついた。
「軽佻浮薄な毒蜘蛛めが、楽に殺してなどやるものか」
 ぎりぎりと喉が締めつけられ、呼吸が奪われる。
「……ッ、く……う、…………はっ、けほ……っ」
 気が遠くなる寸前で締め付けが緩み、シャイロックは咳き込んだ。ぜいぜいと息を吸う半ばでまた、首が絞まる。思わず引き剥がそうとした両手が意思の通りに動き、目を見開いたのも束の間、髪が首からしゅるしゅると外れて、今度は両手首に絡みついた。
 手首をひとまとめに頭上に括り上げ、なおもきりきりと巻き付く髪に引っ張られて、シャイロックはあらがえず喉を反らす。
 レノックスの顔には不似合いな嗜虐の愉悦を色濃く浮かべながら、バルタザールはシャイロックの片足を掴んで掬い上げた。水の浮力は働かず、シャイロックの身体は石造りの床に叩きつけられる。
「っ!」
 押し殺しきれない悲鳴を満足げに聞きながら、バルタザールは身にまとう午餐会の礼装を片手でさっと撫でつけ、下衣だけを残して剥ぎ取った。
 シャイロックの膝を割り開き、逞しい半身を晒した巨躯がのしかかる。
「虜囚の身を思い出したか、雌猫にも劣るあばずれが。刺激だと? 美酒だと? いいだろう、私に差し出してみるがいい。寵を請うよりほかに能のない、脆弱な西の魔法使いよ」
「く……ふふふ、あはは」
「――なにがおかしい!」
「高慢なお口ばかり達者になって。バルタザールぼうや、誰に教えて貰ったんです? かわいらしいこと」
「きさま!」
「穴で棒をこすって出すだけでいいなら、ご存分に。殺されるのも、犯されるのも、たいした違いはありません。[[rb:陸 > おか]]に上がって武勇伝を語ってごらんなさいな、シャイロックを物にしたと。西の魔法使いは皆、あなたを笑いものにするでしょうけど」
「うるさい、うるさい!!」
「……っ、」
 平手で殴りつけられ、目の奥に火花が飛ぶ。
 それでもシャイロックは己を組み敷いた男を気丈に見上げ、慈しむように微笑んでやった。
「かわいそうな人……。四百年を無為に過ごして、自分の本当に欲しいものすら、まだご存じない」
「……シャイロック……」
「私はあなたに寵を請うたりしません。でも、優しくされるのは好き。愉しいことも、奇妙なことも、少しのスリルも、……私の愛を求めて、いじらしく一途にかき口説かれるのも」
 拘束の外れた白い足を、シャイロックは戯れるようにバルタザールの腰に絡ませかけ、焦らすように半ばで止める。
「私が欲しいのなら、私に欲しがられて。愛を求めるなら、あなたの愛を教えて。私は西の魔法使いシャイロック。愛ならば誰より得意です」
「――――」
 じゃらりと、どこかで何かが鳴った。ずっと昔に聞いた音だ。
 レノックスの肉体に、陽炎のように別のシルエットが重なる。
 じゃらり。
 無数に連なった紅い珊瑚が、シャイロックの眼前に現れては消え、消えては現れ、執着と未練を示して揺れる。
 深海の珊瑚よりもなお紅い瞳を甘やかに細めて、シャイロックは唇をすぼめた。
 ぽう……と吐いた空気の輪が、ゆらゆらと水に浮いて、バルタザールの頬でぱちりと弾ける。
「請うてごらんなさい。バルタザール。北の服従ではなく、西の愛と欲望を。教えて差し上げます。宝石よりも美しく、汚物よりも穢れて、魔獣よりも荒々しく、雪のように静かな――愛について」
「……北の地に静かな雪などない」
「おや、ふふ……そうでしたね」
 歯列の奥から絞り出された、抗うような呻きに、シャイロックはころころと喉を慣らすと、黒々と濃い睫毛をゆっくりと下ろした。
「それでは、まず、そのお話から…………」