コポコポと、湯呑に日本茶を注ぐ。急須を傾けて最後の一滴まで出しきり、湯気をたてる寿司バー仕様の湯呑(漢字がたくさん書かれていてとてもクールだ)を両手で大事そうに持って、イワンはほてほてとリビングまで移動した。敷き詰められた毛足の長いじゅうたんが素足に心地良い。
膝を抱えるようにソファに座って、慎重な手つきでちびちびと茶をすする。着ているものはぶかぶかのTシャツ1枚だけなので、うっかりこぼしでもしたら大変だ。熱い思いをするのもそうだけれど、赤い跡が残ったらキースに怒られてしまう。
湯呑の中身が半分ほどに減ったところで、ぷつん、と音を立てて大きなテレビが勝手に起動した。ヒーローTVの放映があるとスイッチが入るように設定されているテレビからは、焦燥感を煽るようなおなじみのBGMと、聴き慣れたアナウンサーの決まり文句が流れてくる。
画面の右上から流星の如くフレームインしたスカイハイがカメラに向けて敬礼し、“FIRST TO ARRIVE”のポイントが加算された。よし、とイワンは小さく手を握る。続いてファイヤーエンブレム、ブルーローズ、タイガー&バーナビーと、次々と現場に到着するヒーローたちの名を、アナウンサーは高らかに呼んでいった。
「そして、本日も折紙サイクロンの姿はありませェーん!!!」
ここにいるもんね……と画面に向かって呟くイワンの首の下、長く垂れ下がった鎖が、しゃらりと音を立てた。
ソファの足元で丸くなっていたジョンが、ピクリと頭を上げた。のそりと起きあがって廊下に向かう大型犬に促されるように、イワンもまた立ち上がる。
ジョンとおそろいの首輪につけられた鎖の届く範囲は、リビングと廊下をつなぐ扉に、ぎりぎり触れることが出来ない位置までだ。イワンがその場所まで歩みを進めたのと同時に、
「ただいま! そしてただいま!」
玄関のドアが開く音と、高らかに帰宅を告げる声が聞こえてきた。
飼い犬の忠義を褒めながら大股に歩く足音、扉の前でせわしく靴を脱ぐ気配のあとで、ばーんと勢い良く扉が開いてキースが飛び込んでくる。
「イワンくん! ただいま!」
「おかえりな」
さい、とまで言わせてもらえずに、飛びつく勢いで唇がふさがれる。息継ぎも難しい濃厚なキスにイワンの頭がくらくらし始めたころ、やっと解放された。はふはふと息をつきながら、イワンはキースの胸元にぎゅっと抱きついた。
「おかえりなさい。お疲れさまです、キースさん」
「うん、ただいま。いい子にしてたかい?」
「はい。……今ちょうど、あなたのインタビューを見ていたんですよ」
指差した先の大型テレビでは、最多ポイントを獲得したスカイハイがヒーローインタビューに答えている。今日の午後の事件の録画放送だから、結果はキースからの連絡で知っていたが、画面で活躍するスカイハイの姿をイワンが見のがすはずはない。マスク内蔵のマイクを通し、さらに電波を通して届く快活なスカイハイの声と、イワンを抱き返すキースの低くて甘い声が重なって、イワンはぞくぞくと背筋をふるわせた。
「おや、本当だ。今日の私はどうだったかな?」
「とってもかっこよかったです! いつもですけど!」
顔を上気させて見上げるイワンに、キースはくふふとくすぐったそうに笑って、
「ありがとう! そして、ありがとう!」
『ありがとう! そして、ありがとう!』
いつものあいさつでインタビューを締める画面上のスカイハイに合わせて、手振りつきで答えてくれた。
そして、くすくすと笑うイワンをさらうように抱きあげて、頬にキスをする。懐から小さな鍵を取りだしながら、ふと眼を細めて問いかけた。
「今日も誰にも会っていないね?」
「もちろんです」
「電話や、メールも?」
「キースさんに送ったのだけです」
「外に出たりは……」
「してません」
ひとつひとつの質問に、にこにことイワンは即答する。小首を可愛らしく傾げれば、鎖がちゃらちゃらと音を立てた。
「……うん」
かみしめるように頷くキースの腕の中で伸びあがって、イワンは頬へのキスを返した。
「キースさんが飽きるまで、ずっとここにいます。約束、したでしょう?」
「……うん。うん、そうだね」
イワンを抱き上げたまま、首輪と鎖をつないでいる小さな南京錠をキースは外すと、鍵を放り投げる。キースの身体が青く発光し、投げられた鍵は風を受け、以前キースが天上にうがった穴をくぐって屋根裏に消えた。キースはいつも、そこに鍵を隠す。宝物を家のどこかにこっそり隠す小さな男の子みたいだと、イワンはいつも思う。
そんなに必死にならなくても、逃げたりなんかしないのに。
「イワンくん。イワンくんイワンくん」
ぎゅうぎゅうと痛いほどに抱きしめてくるキースの、鍛えられた太い首に、イワンはするりと両腕を回した。
「キースさん、だいすき」
「イワンくん……」
きみを愛しているんだ、と、キースは絞り出すような声で訴える。
はい、と、静かな声でイワンが応じる。
「僕も愛してます。……ね、キースさん」
チュッと唇にキスしてきたイワンに、ベッドいこ? と、甘くねだられて、キースは泣きだしそうな顔で頷いた。
月明かりの薄い闇の中で、ぱちりとイワンは目を見開く。
焦点の合わないくらい近くに、すうすうと静かな寝息をたてるキースの顔があった。目を閉じて表情をなくした彫りの深い顔に影が落ちて、起きているときよりもいっそう男性的な印象を受ける。どれだけ見ても見慣れることのないその顔を、イワンはうっとりと見つめた。
逞しい両腕はイワンの身体をしっかりと抱きしめている。眠るあいだも手放せないのだと言葉より雄弁に訴えてくるその力強さは、少し苦しくて、けれども素晴らしく甘美だ。
指先をイワンは自分の首もとに伸ばした。いま身につけている唯一のもの、外すことをキースが決して許さないもの、――明るい空色の、革の首輪。
ゆうべのキースも、何度も何度も確かめるようにこの首輪に触れていた。あなたのものです、僕はあなただけのもの、どこにも行かない、だいすき、あいしてる。数え切れないくらいに繰り返しながら、キースの熱を受け止めて泣いて啼いて、たぶんもう声はすっかり枯れている。
キースの様子がおかしくなりはじめたのは、一ヶ月ほど前からだった。
最初は、イワンが他の誰かと出かけるのを嫌うようになった。二人きりでなくても、ヒーロー仲間と連れだって食事に行くのすら嫌がった。それから、イワンがキース以外と会話を交わすことにも耐えられないと言い始めた。はじめは拗ねる程度だった反応も少しずつエスカレートして、露骨な妨害をしてきたり、自宅に連れ帰られて乱暴に抱かれることもあった。
一週間前にもそんな夜を過ごして、気を失うように眠ったイワンが目覚めたときには、この首輪とそれにつながる鎖をつけられていた。
驚くイワンに、これでもうどこにも行けないね、と微笑んだキースの顔が、次の瞬間くしゃりと歪んだ。
『どこにも行かないでくれ』
すがるように抱きしめてくる腕が震えていた。
涙を流さないまま、キースは泣いていた。
『怖いんだ……君を失うのが怖い。君のその目に誰かが映るのが怖い。……君は、私だけ見てればいいんだ、私だけ……』
イワンくん、イワンくんすまない、でもいやだ、いやなんだ。
かすれた声が告げる恐ろしいほどの執着に、イワンが感じたのはかつてない幸福感だった。
『あなたの好きにして』
見えない涙をぬぐうようにキースの頬を優しく撫でて、イワンはそっと微笑む。
『どんなあなたでも、僕は愛してます』
約束のくちづけを交わして、――そしてイワンのすべてはキースのものになった。
しばらくその姿勢のままでキースの寝息を確認すると、イワンは身体を光らせた。一時的に小動物に擬態して、キースの腕の中からするりと抜けだす。最近のキースは、深い眠りに落ち込むと少しのことでは目を覚まさない。肉体の疲れ以上の精神的な負担がそうさせているのかもしれなかった。
音をたてないように歩いて、リビングに向かう。
イワンの携帯電話も、片時も外さなかったPDAすらも、キースが取り上げて隠してしまった。だがキース自身の携帯電話は、上着のポケットに無造作に入れられている。それを取り出したイワンは、迷わずとある番号に電話をかけた。コール2回、深夜にもかかわらず、待ちかまえていたような早さで通話がつながる。
「僕です」
『……先輩』
押し殺した声の名乗りに、電話の向こうで応じたのはバーナビーだ。ほっとしたような溜息が聞こえて、イワンの胸を罪悪感がちくりと小さく刺した。
「約束、守ってくれてますね?」
『ええ。――ですが先輩、いつまでもこのままじゃ』
「それ以上言ったら僕自殺します。遺言にバーナビーさんの名前書いておきますから」
一息に言えば、今度は悲しげな溜息をバーナビーはついた。
『どうしてこんなことに……』
「前も言いましたよね。僕は今すごく幸せなんです。ヒーローやるより、大事です」
おやすみなさい、と一方的に告げて電話を切る。
通話履歴を削除した携帯電話を元通り上着に戻すと、イワンはベッドルームへ戻った。キースを起こさないようまた擬態を利用して腕の中にすべりこみ、裸の胸にぴたりと寄りそう。
イワンがバーナビーを通じて関係各所に連絡を取ったのは、キースに閉じ込められた次の日のことだった。仲間と自社に対しては自分の命を盾に、それ以外に対しては人気ヒーロースカイハイと折紙サイクロンのスキャンダルを盾にした捨て身のやりかたで、定時連絡を欠かさない代わりにキースに一切手出ししないことを約束させた。唯一の連絡窓口に指名されたバーナビーからは何度も説得され、しまいには泣かれてしまったが、イワンが意志を曲げることはなかった。
――キースさんは僕が守ります。
とても監禁されている被害者の言葉ではないことをきっぱりと宣言したイワンに、バーナビーはしばらく絶句して、あなたには負けましたと呟いたものだった。
触れあったところから響いてくるキースの鼓動に、イワンは静かに耳を傾ける。
キースが目を覚ませば、またリビングまで抱いていかれて、鎖を付けられるのだろう。
イワンをつなぎとめるためにと用意されたそれが、擬態の能力を持つイワンには何の意味も為さないことを、たぶんキースだってわかっている。これはただ、キースの願いの象徴で、そしてイワンがそれを受け入れ続けることの証拠だった。
「愛してます、キースさん」
そっと囁いて、イワンはキースの首筋に唇を寄せる。きつく吸いついてつけた所有のしるしを、いとおしげに優しく舐めた。
「あなたは、僕のものだ」
檻の中に閉じ込めて、キースはイワンを手に入れた。
そしてイワンも、キースを手に入れたのだった。
