3番ゼッケンのゆくえ

 最後の部員がゴールに辿り着き、箱根学園自転車競技部の追い出しファンライドは無事終わりを告げた。汗をぬぐい、三々五々クールダウンに散る部員らを横目に、本気のチームレースの結果としてかなり前に走り終えていた東堂ら主力勢は駐車場の片隅でのんびりと談笑をしている。
「真波、このあとは集合写真だぞ。それはもう剥がせよ」
 このファンライドのために泉田がわざわざ作ってきたというシングルゼッケンは、シール用紙にパソコンで番号を印刷しただけの簡単なもので、汗まみれのジャージのうえでくしゃくしゃと皺が寄ってしまっている。そもそもゼッケンの本来の場所は、さきほど福富が葦木場のものを貼り直してやったように、背中側、腰の上だ。東堂が指をさして言うと、真波はえへらと笑って3とプリントされたそれを手で押さえた。
「なんか、剥がすのもったいなくて」
 ハンドルを握り続けて先の硬くなった真波の指が、惜しむようにその番号をなぞる。
「だって、東堂さんの番号でしょ、これ」
 1番はエース、2番はエースアシスト、そして3番はエースクライマー。この夏のインターハイ、前年優勝者のあかしであるシングルゼッケンは、慣例の通りにレギュラー陣に割り振られた。エーススプリンターを示す4番を渡された新開、年功序列で5番となった泉田らと、昨年のレギュラー名をあげて語らいつつ、己の射止めた3番ゼッケンを誇らしげにジャージに止めつけたあの高揚は、いまも東堂の中に確かな記憶としてある。
 あのとき、6番ゼッケンを手渡された真波は、どこか冷めたまなざしで、あっさりと自分のジャージにそれをつけていた。適当にやるものだから曲がってついていて、それを叱って直させた記憶すらある。箱根学園自転車競技部の長い歴史を辿っても例のない1年生レギュラーがこんなにも緊張感がなくていいものかと、呆れる気持ち半分、それくらい気負いがないほうがいいかと納得する気持ち半分だったように思う。
 その真波の口から、こんな台詞を聞こうとは。
 感慨は、いまだ少し苦い。
「……欲しかったか?」
「え」
「来年の3番」
 あえてストレートに問えば、真波は眉を下げた。
「東堂さん容赦ないよね……」
「はっは。今更だな!」
「……欲しかった、んだなって、さっき、思いました。これ貼ってもらって、東堂さんの番号だ! って、嬉しかったけど、でも本物じゃないから……」
 真波の手のしたで、紙のゼッケンがくしゃりと小さく音を立てる。
「けど。負けちゃったの、オレですから」
 口元に小さく浮かんだ笑みは、あの灼熱の夏、涙がたくさん出たのでと言って笑った彼のそれに、よく似ていた。
 ああ、戻ったな――東堂は胸中に呟く。
 あのとき、真波はうまく敗北を受け止めていたように見えた。福富の言葉に応えたときの、らしからぬ険しい表情は少し気にかかりはしたが、三年生の前で涙を流すことも出来たし、これをも糧に進んでいけるだろうと、楽観視していたのだ。
 だが、総北の小野田がボトルを返却しにきたとき、対応した真波の表情の硬さは東堂にも予想外だった。
 後日それとなくゴールで待機していた部員に聞いたところ、決着の直後の真波は死力を尽くして競いあえたことに満足している様子で、小野田とも健闘を讃えあっていたらしい。負けたくせにのんきな奴って思ったくらいで、と、言葉尻を濁したくだんの部員も、それからの真波の様子がおかしいことを気にかけてはいたようだ。
 だが、表彰式のあと、真波に競り勝って総合優勝した小野田がインターハイでと約束していたボトルを返しに来たこと、その事実を東堂が知ったということが、箱根学園の敗北は全て自分の責任だったと真波が思い詰める原因のひとつになってしまったのだろう。
 メガネくんもタイミングの悪い、と嘆息する気分もなくはない。だが、勝者は傲慢であるべきだというのが東堂の信条とするところだ。勝利を全力で喜び誇ることこそが勝者の権利であり義務である。それを理解できぬものは勝負の世界から去るべきだ。
 競い合える他校のライバルの存在がどれほど得難いものかは、東堂が誰よりもよく知っている。巻島が遠く異国に旅立ち、その実感はますます強い。インターハイ以降に参加したヒルクライム大会で、東堂は優勝をひとつも譲らなかった。県内の小規模な大会が中心だったとはいえ、調子を落としエントリーすらしないことの多かった真波はもちろん、部内で東堂に次いで優秀なクライマーである黒田すら全く寄せつけない、圧倒的な結果だった。あまりに早く独走態勢に入ってしまって、モチベーションの維持が難しかったほどだ。葦木場を送り込んだ千葉の峰ヶ山ヒルクライム大会での優勝者は小野田だったが、おそらく東堂がエントリーしていれば優勝していたことだろう。コースレコードは昨年の巻島が記録したもので、巻島が今年もエントリーしていたなら確実に更新していたはずだし、東堂が出ていても同じだ。そう断言できるほど、切磋琢磨の一年間だった。
 一年。そう、東堂が巻島と競えたのは、たったの一年と少しだ。いまの真波の年齢のとき、東堂は巻島に出会っていない。ただ己の能力を過信するばかりの子供だった。同学年に己と伍するクライマーなどいまいと無邪気に信じ、上の学年の実力者を追い抜くことばかり考えていた。
 同い年の、おそらく同じほどの才能と熱意を持ったライバルと全力でぶつかり、敗北したことは、間違いなく真波のこれからの財産になるだろう。今日真波と山を登りながら告げた羨ましいという言葉は、まごうかたなき東堂の本心だ。
 ――かなうならば、ただの真波山岳と小野田坂道の勝負として、他者の誇りも願いも責任も関係ない場所で、競わせてやれたなら良かったとは思う。東堂が恵まれた、あの巻島とのラストクライムのように。
 だがそれは言っても詮ないことだ。競うことすらできなかった可能性もあったことを考えれば、よほどいい。
「そうだな」
 東堂は相槌をうつと、手を伸ばして真波の頭を撫でた。持ち主の性格を示すようにひよひよと好き勝手に跳ねる髪を、梳いてまとめるように手を動かしかけ、気を変えてぐしゃぐしゃとかき乱した。東堂には珍しいやりように疑問符を浮遊させつつも、真波は猫の仔のように目を細めて、その手を受け入れる。
 人の手を嫌うわけではないのに、集団に馴染みきらない真波は、本当に猫のようだ。
 おそらく真波にとって不幸と言えるのは、小野田との勝負の舞台がインターハイであったこと以上に、彼が一年生の中であまりにも突出しすぎていたことなのだろう。それに真波自身のマイペースさ――規律を旨とする部にとっては不真面目さと同義だ――が拍車を掛け、正当なレースの結果とはいえレギュラーを射止めたことが決定打となって、一年生の中で真波は完全に浮き上がった存在だった。東堂の見るところ、同学年に真波と伍する能力の持ち主といえば銅橋ぐらいのものだが、あれはあれで問題児すぎる。ひとつ上の二年生は、人望のある黒田が真波にレギュラーの座を奪われた経緯から、どうしても真波に対して遠巻きだ。黒田本人がもっとも屈託なく真波に近づいているようだが、インターハイ後の真波の心理を思えば、黒田にうちとけるのは難しかったろう。
 東堂と学年を同じくする荒北も福富も新開も、下級生の時分、それぞれに問題を抱えたことがあった。そのとき支えになったのは己を含めた同学年の、実力で並び立つ面々だ。総北などではまた違う様相があるのだろうが、部員数が多く実力差の激しい箱学の自転車競技部では、実力がかけ離れてしまえば心情を共有するのがひどく難しい。
 一年でレギュラー入りしたくせに最後の勝負に負け、伝統ある部の名に泥を塗った最大の戦犯――。
 少なくない部員、そして部外の生徒までが真波にそうした眼差しを向けている。レギュラーの手前公言するものこそいないが、真波自身がそう受け止めてしまっているのだから、周囲のそうした意識を払拭することは難しいだろう。
 巻島というライバルを得ることのなかった己など考えたくもないが、そんな可能性は己の持てる全てをもって叩き潰す所存だが、それとはまったく別な話として、真波と同じ学年、あるいはせめて一つ違いであってやれたらよかったのにと、東堂はたまに思う。そうであれば、もっと屈託なく、真波に寄り添ってやれたろう。
 真波がひどく調子を崩していると知ってはいた。同じレギュラー、同じクライマーである己こそが、真波に声をかけてやるべきかと考えもした。だが、東堂はもはや副主将を退き、春には卒業する身だ。東堂から真波に手を差し伸べ、それで真波が立ち直ったとしても、根本的な解決には至らなかったろう。
 ゆえに東堂は待った。幸いなことに待った甲斐はあった。
『お願いします』
 揃って頭を下げた、泉田と黒田のつむじを思い出す。右と左、それぞれ反対方向にくるりと巻いたそれが、東堂のまえに並んで差し出されていた。
 数日まえのことだ。三年生の教室まで訪ねて来た泉田と黒田は、真波をなんとかしてやってほしいと東堂に請うた。
『追い出しライド、ヒルクライムは真波を出します。なんか言ってやってください。アイツ、ここんとこずっとおかしいんス。真面目に練習出てんのはいいんすけど、らしくねえツラで、フォームもめちゃくちゃで……。まだインハイ引きずってんだと思います』
『ボクからもお願いします。ボクらの言葉では、たぶん真波には届かない。恥ずかしながら、力不足です』
 ふむ、と腕を組み、東堂はひとつ確認をした。
『黒田は、それで良いのだな?』
『はい。東堂さんとの勝負も、スゲーしたいすけど……、オレは葦木場アシストするんで』
 きっぱりと言い切る顔は頼もしい。脚質はクライマーであり、目標は東堂と言う黒田だが、対抗心は昔から荒北に向いている。アシスト対決も得るものがあるだろう。
『うむ』
 頷き、東堂は晴れやかに笑う。
『確かに引き受けたぞ! オレも真波の様子は気になっていたからな』
 よろしくお願いします、と異口同音に再度頭を下げる、その複雑な心情を飲み込みつつほっとした顔に、東堂こそ安堵した。皮肉ながら、真波が敗戦の責任を抱え込んで調子を落としたことこそが、彼と部の人間の距離を縮めるいいきっかけになったのだろう。
 そう、だから、真波はきっと大丈夫だ。
 東堂がいなくなっても。
「……東堂さーん?」
 ひとの髪をいじりながら回想に耽った東堂を、真波が軽く抗議する口ぶりで呼んだ。ふっと意識を浮上させ、東堂はにまりと笑む。
「ときに真波よ。夏にお前が勝っていたとしても、3番はつけられんぞ?」
「え」
「インターハイ総合優勝者が次年度も出場する場合、1番をつけるのが慣例だからな」
「え。ええー?」
「………………お前いま、メガネくんとフクを重ねて『似合わない!』って思っただろ」
「東堂さんってエスパー!?」
「わからいでか」
 ぽすり、と拳を軽く真波の胸元に当てる。
「さっきも言ったがな真波。おまえは自由に走れよ。楽しんでこい。坂が多いといいな。メガネくんと競えるといいな。他校の1年生にも坂バカがいるかもしれん。楽しみだな」
 あたまのてっぺんで触覚のように跳ねた真波の髪が、持ち主の頭の動きに従ってぴょいんと跳ねる。
「全力を絞れ。結果はついてくる。そうしたら次は3番をつければいい。三年生の大会で3番、オレと同じだな? ――というわけでこれは、それまでオレが預かっておく」
 ぺりりと紙のゼッケンを、東堂は真波の胸から引き剥がした。あー、と残念がる顔には構わず、己の腰、夏にその番号をつけた場所に、ぺたりと貼り付ける。
 シワが寄り、適当に貼ったから斜めになったゼッケンは、東堂を飾るには美しくもないが、集合写真で見える場所でもないからいいだろう。
「今日もオレが勝ったからな! お前にはまだこの番号は早いということだよ、真波」
 びしりと指を差してやれば、ぽかんとゼッケンの行方を見つめていた真波が、噛みしめるようにもう一度、頷いた。
「ああ、再来年はむろん1番でもいいぞ? 似合わんと指を差して笑ってやろう」
「ええ~」
「いやなら似合うようになれ。まあどんなゼッケンであれ、このスリーピングビューティ以上に似合う男がいるはずもないがな!」
 ワハハと笑っていると、なんだなんだと仲間たちが寄って来た。これまで少し遠巻きにしている様子だったのが、ひと段落ついたと判断したのだろう。東堂の腰に移動したゼッケンを新開がめざとく指差してからかう。お前たちだらしないぞ、オレは勝ったからなと、東堂も笑う。
 一気に賑やかになった輪の中で、真波が東堂のジャージの背を引っ張った。
 振り向き、伸びるぞと東堂は眉をしかめてみせる。今日を限りに、袖を通すことがなくなるジャージだ。多少伸びたとて実のところ構わないが、それでも東堂は小言を言うのだ。それが東堂尽八という男である。
「東堂さん! オレ、オレね、走ります、このジャージ着て、来年も、再来年も、だから」
 さらりと小言をスルーし、真波は山を登るときにも似た顔を東堂に向けた。キラキラとギラギラとワクワクとガツガツの混じり合ったような、東堂がいっとう好きな彼の表情を。
 気紛れな猫のくせに、今頃懐きおって! 内心で東堂は嘆息した。まったく、名残が惜しくなって困る。
「だから見に来て! 東堂さん」
 てめレギュラー確約されてるつもりかこんにゃろうと、黒田や荒北が真波をどつく。わぁわぁと逃げながら、真波は言質を取ろうとするように,東堂から目を離さない。
「――ああ!」
 表情筋のコントロールを振り捨てて、東堂は満開に笑った。
「楽しみにしているぞ!」

 結局のところこの、山の申し子のような自由なクライマーが、その走りが、東堂はたまらなく好きなのだ。