ハロー、運命の音

 コンコンコン。リズミカルなノック音が来訪者を告げる。
「はい。どうぞ」
「一織、いまヒマ?」
 くるりと椅子を回して振り返ると、半分ほど開いた扉の向こうから陸が覗き込んでいた。
「勉強してます」
「宿題のやつ? 趣味のやつ?」
「宿題……ではないので、どちらかといえば、趣味寄りですかね……」
「じゃあ本持ってくるからここで読んでていい?」
「……暖かい格好で」
「わかってる!」
 にかっと笑った陸が、軽い足取りで去っていく。一織はむずむずする口元を引き締めながら、立ち上がって加湿器とエアコンの設定をいじった。二階の端に位置する一織の部屋は、日当たりは良いが、少し隙間風が入るのが難点だ。
「ただいま! 取ってきた」
「はい、いらっしゃい」
 一織がふたたび椅子に腰を下ろしたのとほぼ同時に、ぱたぱたと隣の部屋から陸が戻ってきた。肩にカーディガンを掛け、読みかけらしい文庫本のほかに、お気に入りのクッションとブランケットを抱えて、なかなかの大荷物だ。
 陸のためのクッションくらい、部屋に用意してやればいいのかもしれないけれど、どうにも気恥ずかしくて踏み切れない。陸から注文をつけられたら、それを口実にもできるのだけれど、陸はそういうところはお行儀が良くて、一織の私室に陸のためのものは増えないままだ。
 隣同士の距離なのだから、それでいいと言ってしまえば、それまでなのだけれど。
 ラグの上の定位置にクッションをいそいそとセッティングする陸を横目で見ながら、一織もデスクに向き直った。
「オレ勝手にしてるから、一織は好きに勉強してて」
「わかってます」
 シャープペンシルを手に取り、問題集の続きに視線を戻す。集中を取り戻していく意識の端に、ぺらりと紙をめくる音がかすかに届いて、一織は唇にほのかな笑みを浮かべた。
 一織にとって、勉強は生活の一部だ。学生としての義務というだけでなく、知らないことを学び、己の一部にしていくのは楽しい。時間が許すならば、いつまででも没頭していたいくらいだ。
 それが、あまり一般的でない感覚だとは知っている。ただ好きなことをしているのに、偉いとか立派とか、そんな言葉で賞賛されてしまうのが、昔から煩わしかった。言葉づらだけで褒めながら疎外されるのも、とうに慣れっこではあるけれど、愉快なわけではない。放課後や空き時間にゲームを楽しむ環と同様に、若者らしいと微笑ましげに笑ってくれれは、それでいいのに。
 だから陸が、一織の勉強を趣味と呼んで、気がすむまで放っておいてくれることが、一織には不思議にむずがゆくて、無性に嬉しいことだった。彼が「すごいね」と賞賛するのは一織の知識や技能そのものに対してで、持ち上げながら敬遠するような、あの名状しがたい居心地の悪さを押しつけて来ることもない。――好奇心旺盛な彼が、ときどき無遠慮に覗き込んでくることだけは、面倒といえば面倒なのだけれど。
 一織の思考のリソースのほとんどは目の前の問題に捧げられていて、心地好い集中のなかで脳がよく働いている。その外側にある、薄ぼんやりとした知覚だけが、陸の存在をふんわりと認識していた。ふふふ、と、控えめな笑い声。読んでいる本に、面白い場面でもあっただろうか。
 一段落したらホットミルクを用意して、本の感想を聞こう。
 彼のために温度と湿度を整えた部屋は暖かくて、息がしやすくて、たぶん、こういうのを幸福というのだ。

 淀みなく解答を書き綴る一織は、いつのまにか自分が小さく鼻歌を歌っていることに、全く気づいていなかった。
 ページをめくる手をふと止めた陸が、幸せそうに目を細めて、その鼻歌に耳を傾けていることにも。

〝なにしたって 君の細胞にはなれないけれど
 だから
 だからこそか――〟

 見つけた運命の音は、たとえばこんなふうに、当たり前みたいに。