Be happy, my lover

 ふっとまどろみから浮上すると、間近に兄の憂い顔があった。
「天にぃ」
 陸が微笑んで名を呼ぶと、天は安堵した風にふっと表情を綻ばせ、それからわざとらしく眉間に溝を刻む。
「お見舞い来てくれたんだ? 嬉しいな。忙しいでしょ」
 いかにもなお説教顔を陸はかろやかにスルーして、にこにこと続けた。寝起きで掠れた声に天の顔は一層険しくなるが、いちいち気にしないくらいには、陸も図太くなった。
「……移動の合間に寄っただけ。それより陸」
「はぁい、ごめんなさい」
「まだ何も言ってないでしょ」
「体調管理しなさいって怒る顔だもん。でもライブはやりきったし、今日は元々オフだよ。仕事に穴はあけてない」
「……そういうことを怒ってるんじゃない」
 天がながながとため息をついて、陸の乱れた赤毛を撫でた。顔ではまだ怒っているのに、その手つきはどこまでも優しい。
「仕事をやりきるのはアイドルとして正しいけど、それで無茶して倒れたらみんな心配するでしょう。……あの子の気持ちも考えてあげて。可哀想だよ」
「あの子って、一織?」
「申し訳ありませんってラビチャが来た。年下に謝らせてちゃダメでしょう」
 くふふ、と陸は思わず笑い声を漏らした。こら、と、天に咎められても、にやにや顔から戻らない。だって、あの天がだ。
「前にも思ったけど、天にぃが一織を心配してオレを叱るようになったんだなぁって、嬉しくて。昔は意地悪なお姑さんみたいに、オレのことで一織にお説教してた天にぃがさ」
「…………その比喩には前からものすごく異論があるんだけど」
「でもそうだったじゃん。心配してくれてありがと、天にぃ。大丈夫。一織はオレがいっぱい甘やかすから」
「……和泉一織はそれでいいわけ……?」
「うん」
 短く断言して、陸はへらりと笑う。天はしばし返答を探しあぐねたような顔をすると、再びため息をついて腰を上げた。
「もう行かなきゃ。お土産置いとくから、みんなで食べなさい」
「ありがとう。すごいね、たくさんある」
「楽と龍からも預かったから。お礼言っときなさい」
「ラビチャする! 明後日一緒の番組だよね。楽しみ」
「その顔色で来たら口きいてあげないから」
「わかってる。今日はありがと、天にぃ。お仕事頑張って」
「うん。バイバイ」
 時間ギリギリまでいてくれたのだろう、早足に出て行く天の背中を見送ると、陸はにやけた顔のままごろりと寝返りをした。
 身体はまだ少ししんどいけれど、良い気分だ。天が陸を飛び越して一織に苦言を呈するたびに、一人前と見なされていない悔しさと、最愛の兄の関心を奪われる不満で不機嫌になったものだけれど、最近はそのどちらもない。
 あいつにラビチャしてやろうかな、とスマートフォンに手を伸ばしかけて、陸は気を変えた。この事態を見越してオフをねじ込んでくれた紡や一織に応えるためにも、いまは休養が陸の仕事だった。
 お気に入りの枕に心地好く頭をあずけて、陸は目を閉じる。瞼の裏に、昨日見たばかりのあざやかな光景を思い浮かべた。きっと、いい夢が見られる。

   *

 次に目を開けたとき、陸の耳に届いたのはカリカリとシャーペンをノートに走らせる小さな音だった。そうっと顔を横に向けると、床に正座した一織が、ローテーブルに広げたノートになにかを書き込んでいる。大学の課題か、プロデュースの仕事絡みだろうか。陸は目を細めて、その姿勢の良い横顔をしばらく眺めた。口角が自然とつり上がる。人の気配が好きな陸のために、テーブルを持ち込んでまで同じ空間にいてくれる一織のことが、とても好きだなと思う。
「……盗み見は趣味が悪いですよ」
「勝手に入ってきたの、一織のほうじゃん」
 いくらもしないうちに、横顔を見せたまま一織が口を開いた。衣擦れの音で気づいていたのだろう。お互い、軽い憎まれ口はおはようの挨拶みたいなものだ。作業が一段落したのか、一織はシャーペンを置いてベッドににじり寄った。
 手のひらで陸の額に触れ、ひとつ頷く。
「熱はなさそうですね。調子は?」
「もうほとんどいいよ。明日の仕事は大丈夫。寝るの飽きてきたしおなかすいた」
「夕飯、兄さんが作っておいてくれてますよ。持ってきますか?」
「んー……」
 ベッドの中でもぞもぞと身を起こすと、一織がすっと背中を支えてくれる。高校生の頃より頼もしくなって、けれどもやっぱりすんなりと細い身体に、陸は両腕を絡ませて引き寄せた。わ、こら、と焦った声に叱られるけれど、どこ吹く風だ。本気で嫌がっている声じゃないのくらい知っている。
「おなかもすいてるけど、先に一織補給したいなぁ」
「ちょっと。危ないでしょ」
「だめ?」
「……だめじゃないですけど、ちゃんと座って」
「はぁい」
 素直に腕を解き、尻の位置をずらすと、呆れたように息をついた一織が掛け布団を少しめくって、寄り添う位置に腰を下ろした。
「えへへ」
 ぎゅうと抱きつくと、一織からも腕をまわしてくれる。白い首筋に頬をすり寄せて、陸は目を閉じた。
「天にぃに叱られちゃった。一織の気持ちも考えてあげなさいって」
「……前も思いましたけど、あの人、なぜ今になって私を子供扱いしてるんですかね?」
「オレが頼もしくなったからじゃない?」
「ハイハイそうですねー」
「心がこもってなぁい」
 くっついたまま他愛なく会話をかわす。そうしているうちに、腕の中でふっと肩の力を緩めた一織が、安心したような細い息をつくのがわかって、陸の鼻の奥がツンと痛んだ。泣きたいような感情で、本日何度目かに、好きだなあと思う。
「昨日のオレ、どうだった?」
「最高のスーパースターでしたよ。五万人があなたの虜でした。七瀬さんの歌声は世界一です。一晩中聞いていたかったくらい」
「うん。すっごく楽しかったぁ……」
「私もです。いいライブでしたね」
「うん」
「……明日も、最高の歌、期待してます。ライブで初披露した新曲、来られなかったお客さんも楽しみにしてますよ」
「うん……」
 静かだけれど力強い言葉も、背に回されたあたたかい手も、一織がいつも変わらずに陸にくれるものだ。
 代えがたい幸福感が胸に満ちる。
 わずかに身体を引いて、近距離から陸は一織の顔を覗き込んだ。応えるように一織が顔を上げて、陸の視線を受け止める。照れ屋のくせにこういうときに目を逸らさないところも好きだ。理知的な濃い色の瞳は、夜空に似ている。陸の降らせる流れ星をいっとう輝かせてくれる、深い夜。
 鼻をすりあわせるように顔を寄せたら、一織はそっとまぶたを下ろした。しっとりとなめらかな一織の唇に静かに口づける。陸の唇は寝起きで少しかさついていて、あとで一織に怒られるかもしれない。
 重ねた幾度めかに深いキス、唇の粘膜のうちがわまで触れあわせて、うすく開いた歯列のあいまから舌先が接して、それだけでもう体温が上がる。頭の芯がびりびりと痺れて、目頭がじんと熱を孕んだ。勝手に上がる息を陸は懸命に抑え込む。いまこのときだけは、一織の優しさに制止されたくない。
 陸が目覚めてからずっと平静を保っていた一織の、呼吸が乱れるのがいつもよりずっと早くて、シャツを握り込む指の力もつよくて、歯列を割って侵入した陸の舌を迎えるうごきすら、縋りつくみたいに必死で、陸はまた泣きたくなる。分厚い鎧がポロポロと剥がれて、一織が気丈に隠し通したがる不安や苦悩や遣る瀬なさが、どうしたって伝わってしまう。
 天に言われるまでもない。酷いことを、ずっとしている。陸の脆弱な心身のコントロールを委ねるというのは、陸がどこまで苦痛を背負うかの線引きを、一織に決断させることだ。
 苦しめている。知っている。でも。
 全部全部見ないふり、ただ恋人とのキスに夢中になっている男のふりを、陸はする。ふりだけど、それだって真実だ。
 ななせさん、と、キスの合間に甘い声音で一織が呼んだ。ちゅ、と一度リップ音を立ててからキスを中断して、陸は首を傾げて問いかける。
「なぁに、一織」
「…………」
 まばたきで涙を散らした一織が、ばつが悪そうな笑みを浮かべた。陸の顔にも、似たような表情が浮かんだだろう。こういう関係になってから、お互いに隠し事が下手になった。
 ばれてるなぁ。
 そんな笑みだ。
 くくっと喉を鳴らす。強がりも、大人のふりも、結局できないままだ。それでいいのかもしれない。置いていかないし、置いていかせないのが、約束だから。
 潤んだ瞳で陸を見つめて、一織がもう一度、七瀬さん、と呼ぶ。
「あなたは歌って。歌ってください。明日も、その先も、ずっと。あなたの歌を、世界中に届けて。……私が、あなたを、歌えるようにしますから」
「ずっと?」
「ええ、ずっと」
 永遠を夢見るロマンチストと、運命に抗う挑戦者のないまぜになった瞳で、一織が微笑む。
 うん、と頷いて、陸は恋人を腕に抱きしめた。
「歌うよ。怖くないよ。一織がオレを歌わせてくれるって、知ってるから。前人未到の空を、お前と飛んでくよ」
 一織がきつく抱き返してくれる。ぐっと外部の圧力がかかった陸の胃が、きゅるると情けない音を鳴らしたのがそのときだった。
 顔を見合わせて吹き出す。
「……っ、ふふふふ……。食事、温めて持ってきますね」
「はぁーい……。あっ、一織」
 立ち上がって身なりをささっと整える一織を、陸は慌てて呼び止めた。
「はい?」
「言い忘れてた。おかえり!」
「すごく今更ですけど……はい。ただいま帰りました」
 にこりと笑った一織が、今度こそドアの向こうに消える。陸は枕元のキャビネットに畳まれていたカーディガンを羽織ると、掛け布団を直して、あらためてベッドの中で座り直した。床に降りて座るのも、なんならダイニングまで行くのだってもう平気だが、ベッドにいる方が一織が安心するだろう。
 手持ち無沙汰の時間を、祈るような気持ちで待つ。
 今頃キッチンで手際よく働いているだろうあの子が、どうかあまり泣きませんように。どうしたって何度も泣かせてしまうのは自分に他ならないのだけど、それでも。
 数年前の大晦日の夜。初優勝の歓喜の中で、私のほうこそ、と陸に応えた、ふるえる涙声をいまも鮮明に覚えている。信じて委ねられる喜びと誇らしさ、一織が陸の両手いっぱいにくれるそれを、いつも同じだけ返していたい。
 相棒で、親友で、恋人の、世界でたったひとり見つけた大切な相手に届くように、陸は歌を口ずさみ始めた。安静に、と怒られてしまうだろうから、小さな声で。陸の歌声を誰より愛してくれている彼が、扉を開けるより前に、自然と笑顔になれるように。
 ――幸せになろう、と歌うオレたちが、きっと、ずっと、いつかの最後まで、幸せでいられるように。