信じた通りの光景だった。
ミュージカル『ゼロ』の、悲しみに満ちたラストシーン。失踪したゼロは、観客に背を向けたまま歌っていた。重苦しく静まりかえり、こらえきれないすすり泣きだけが小さく聞こえるばかりだった観客席が、ある瞬間、確かにどよめいた。
鏡の中から出てきた、仮面のゼロ――七瀬さんが歌い始める。
『Incomplete Ruler』。ゼロが歌詞を書き、桜春樹が遺作とした曲――ゼロのための曲でありながら、ゼロが一人で歌いきることは不可能な、美しく難解なデュエット。
その旋律のワンコーラスを歌った七瀬さんの後を、ふたたび九条さんが引き継ぐ。声質も、歌い方も、こうして聴くと本当によく似ていて――けれど、間違いなく異なるふたつの声、ふたつの音が、絡み合ってひとつの曲を織り上げる。
透明で寂しげな九条さんの歌声。
甘く柔らかい七瀬さんの歌声。
舞台に背を向けたままの「ゼロ」――九条さんの脇をするりと抜け、一歩前に出た「鏡の中のゼロ」――七瀬さんが、九条さんの声を追いかけるように歌いながら、客席に向かって両手を広げた。
舞台袖に立って、私は息を詰めた。ここだ。ここですべてが決まる。七瀬さんの歌は完璧に美しく九条さんに寄り添うけれど、それだけではダメなのだ。
舞台上の、鏡像のゼロが歌うだけでは、この物語はハッピーエンドには辿り着かない。
やはり客席にいるべきだったかと、一瞬思った。観客としての私がいち早く彼に応え、コールアンドレスポンスの呼び水になりさえすれば、きっと簡単だ。優しい彼らはきっと私を一人にはしないだろう。
でも……。
首を振って、その考えを振り払う。そうしないと決めて、私はこの場所で、あの人を送り出した。言葉を交わす時間すらなかったけれど、七瀬さんは出る直前、確かに私を振り返って笑った。
あなたを信じている。
あなたをスーパースターにすると約束した。この舞台が成功したとしても、七瀬陸の名は巷に轟きはしない。彼が果たす役割は九条天の黒子だ。それでも、あの人は確かに、いまここで、伝説のスターになるのだ。
『歌って』
七瀬さんの歌声が圧力を帯びる。その声を、その力を、誰よりもよく知っている。
『歌ってよ』
顔を見せず、名も示さず、それでもなお、舞台上の怪物が観客の心を鷲掴み、揺さぶる。
『僕を呼んで――』
舞台袖から私は観客席に目を凝らした。悲しみに俯き、涙をこぼす人はもういない。誰もが食い入るように舞台を見つめていた。いまにも爆発しそうな感情のうねり。もうあとほんのわずかのひと押しで、その衝動は雪崩を打って押し寄せるだろう。
だが、曲は短い。成功のチャンスはあとわずか。
知らずこぶしを強く握りしめていた。
『ゼロを呼んで……！』
曲がサビにさしかかる。七瀬さんが客席へ両手をさしのべる。
――歌声！
九条さんの声でも、七瀬さんの声でもない。もちろん、十さんでも、八乙女さんでも。
その声の主に私が思い当たるよりほんの少し早く、歌声は数倍に、数十倍にふくれ上がっていった。私の耳が声の主を聞き分けられたのはわずかな時間で、あっという間に客席全体を歌声が包み込んでいた。
客席に背を向けたゼロ――九条さんの背中が震える。肩が揺れる。人々の歌は一層熱を帯びて、ゼロを呼ぶ。
仮面の下で晴れやかに微笑んだ七瀬さんが、数歩後退り、ごく自然に身を翻した。スポットライトの輪から外れた鏡像のゼロを、追いかける視線はもうない。誰もが舞台中央に佇む「ゼロ」を振り向かせようと、必死に声を張り上げている。
数秒後か数十秒後か。かすかな足音が耳に届いて、私は舞台上から視線を外した。ゼロの衣装のまま、仮面だけを外した七瀬さんが、私の横に立っていた。
七瀬さんは私にちらりと視線を寄越すと、汗だくの顔でふわりと笑った。私も微笑みを返し、揃って舞台上へと視線を戻す。
歌声に悲鳴のような泣き声のような歓声が混じった。背を向けていたゼロが、とうとう客席を振り返ったのだ。
八乙女さんが演じる九条鷹匡と、十さんが演じる桜春樹が、九条さんの、ゼロのもとに歩み寄り、微笑みを交わす。明るく晴れやかな声で、ゼロが最後のフレーズを歌い上げる。
一瞬の静寂ののち、万雷の拍手と、建物を揺るがすような喝采が、場内を満たした。
舞台袖の、暗い場所から、私は客席を見つめた。涙、そして笑顔。爆発するような歓喜と、身を絞るような哀惜。ゼロを呼ぶ、いくつもの声。
これは、存在しなかった奇跡の物語だ。誰もが心から望んだ、美しく感動的な、アイドルの終焉。
「……幸せな景色だね」
七瀬さんが小さく呟いた。
「そうですね」
私もそっと答えて、明るい舞台を見つめる。
七瀬さんの手が、私の腕に優しく触れた。数日前、私が彼にそうしたように。
七瀬さんがいま、何を想っているかは知らない。
けれど、パラシュートの用意があると伝えたら、彼は驚いて、それから嬉しそうに笑ったのだ。
終わりはいつか来るのだと、私だって本当は知っている。その終わりが幸せなものであればと、願うのはきっと自然なことなのだろう。
それでも。
それでも私は、この光景を望みはしないだろう。
優しい愛に満ちた歌声に許されて、満ち足りた顔で歩みを止めたりなど、けしてするものか。IDOLiSH7を終わらせはしない。私がいる限り、永遠に。
幕ならば、いずれ誰かが引くだろう。今夜、ゼロの幕を下ろしたように。
七瀬さん。あなたをゼロにはしない。ゼロが辿り着けなかった荒野の果てを、私はあなたと見てみたい。
きっとそこには、美しい虹がかかっているから。