きみの謎解き

 七瀬さん。
 オレの名を呼ぶ聞き慣れた声に、オレは口許を隠すように抱え込んでいたマグカップをゆっくり下ろした。
「ため息が多いようですけど、なにかありましたか」
 隣でクッションにもたれていた一織が、居住まいを正してオレに向き直る。
「うわ、オレ、そんなについてた?」
「はい」
 こくりと頷きながら、一織は注意深く観察するような目をオレに向けた。たぶん最近のスケジュールを思い返しているんだろう。最近は個人の仕事がかなり増えているけど、オレたち専属の敏腕プロデューサーでもある一織は全員の仕事内容をほとんど把握している。一織自身の仕事も増えてるのに、負担になるんじゃないかと心配してたこともあるけど、知らない方がストレスが溜まるらしいし、そもそも内緒でやってたときもマネージャーから聞いていたとのことで、最近はみんな積極的に一織に報告するようになった。おかげで仕事がすごくスムーズだって社長が褒めてたっけ。
「あ、仕事は大丈夫。今日は撮影とインタビューと打ち合わせだけだったし、いい感じだったと思うよ」
「相変わらずふわっとしてますね……。まあ了解です、そちらの話はのちほど。『仕事は』ということは、仕事以外のことで心当たりがあるんですか」
「んー、うん、たぶん……?」
「ずいぶん歯切れが悪いですね。なんでもいいですよ、話してみて」
 オレを安心させるように小さく微笑んだ一織の、頬にかかる髪がさらりと揺れる。高校を卒業したあと、一織は少し髪を切って、前より輪郭をすっきり出すようになった。もともと大人っぽい顔立ちだけど、前よりもキリッとした印象が強くなってて、格好いいなと顔を見るたび思う。
 オフの時間のラフな姿にすらそう思うんだから、アイドル和泉一織をやってるときの顔なんて、なおさらだ。
 そう考えたところで、思い出す。
「えっとさ。ドラマの制作発表あったじゃん、今日」
「それは先週……ああ、七瀬さんのではなくて、私のですか」
「うん。動画上がってたから、休憩中に見たんだ。えっと……」
 スマホに手を伸ばしたら、それより先に一織が自分のスマホを出してぱぱっといじった。これですか? と示されて、画面を覗き込む。
 小さな画面の中で、ネイビーのスーツを着こなした一織がにこやかに名乗った。この冬放送の2時間ミステリで、一織が演じるのは主人公の前に現れる謎の青年役だ。オレとW主演したドラマの狼少年役で人気が出たせいか、最近の一織はこういう、秘密の香りのする役が多い。
 ダイジェスト映像の中でゆっくりと振り返る一織は、格好良くて、しなやかで、どこか色っぽい。
「そうそう。これ思い出してた、さっき。一織格好良いなーって」
「はぁ、ありがとうございます……?」
 要領を得ない、という顔をしながら一織は律儀に礼を言う。
「で、それでどうしてあんなため息になるんですか」
「そんなについてた?」
「ついてました」
「うーん……? わかった、ちょっと再現してみる」
「はぁ」
 一織にスマホを返して、見たばかりの映像を頭の中に呼び起こす。自己紹介して、質問に答えて、隣の女優さんと笑い合って……。
「ほら」
「あ」
 一織に指摘されたとおり、オレの鼻と口からはふうっと勢いよく空気が出て行くところだった。胸の内側には、モヤモヤとした名状しがたい感情がわだかまってる。
 なるほど、確かにこれ、ため息だ。
「ほんとだ。……なんでだろ?」
「七瀬さん本人にわからないものが、なぜ私にわかると思うんです」
「プロデューサーだから?」
「困ったらプロデューサーだからで丸投げするのやめてくれませんか。アイドルの頭の中身まで見えませんよ。見えたら便利でしょうけど」
「なー、見えたら便利なのにな」
「…………」
 うんうんと頷いたら、一織はなんだかおかしな顔をした。自分で言ったのに変なやつ、と思いながら、モヤモヤの正体を探るべく脳内映像を巻き戻す。
 スーツ姿の一織。格好いい。うん。
 スーツ姿の一織が、隣を見て微笑む。格好いいな。やだな。――あれ。
 なんだろう。
 なんか……。
 きゅっと眉間に力を入れながら、オレは両手をずいっと一織のほうにつきだした。心得顔の一織が手のひらを上にして、オレの手を受け止めてくれる。ゆるく包まれた手、オレより少し低い一織の体温。
「コントロールして」
「――はい」
 合言葉みたいなやりとり。未来への不安に身が竦んだときも、明日が待ちきれなくて眠れないときも、過去の失敗に囚われそうなときも、オレは一織に手を預けて、深呼吸をひとつする。
 一織がオレに結んだパラシュートの紐は、今日もほどけていない。大丈夫。
 大丈夫……、のはず、なのに。
 オレは一体どうしちゃったんだろう。
「落ち着きました?」
「全然だめ。全然落ち着かない」
「……言葉にしてみて」
「わかった」
 自分の気持ちが迷子になったときは、支離滅裂でいいから言葉にしてと、以前言ってくれたのも一織だった。バラバラで要領を得ないオレの言葉を一織は拾い集めて、理路整然と組み立ててくれる。
「えっと……。一織が笑ってるのに、見てるのがオレじゃないのが、やだ」
「え」
「ムカつく」
「ええと」
「なんかちっとも落ち着かない。腹立ってきた。ちゃんとコントロールして。オレのプロデューサーだろ」
「いや、あの、……」
「はーやーく、いーおーりー」
 だというのに今日のオレの胸のモヤモヤは、しぼむどころかイライラにふくれあがり、そのイライラに追い立てられるようにオレは一織の両手を揺らした。イライラするしチリチリするしモヤモヤするし、わけがわからなくて腹が立つ。
「一織ってばぁ」
「……あの、七瀬さん」
「なに」
「あの……、………………」
 いつもちょっと冷たいくらいにクールな一織が、俯いてなにやらごにょごにょ呟いてる。どうしちゃったんだろう。オレのモヤモヤが伝染したんだろうか。
 どうしてオレのこと見ないんだろう。オレはこんなに一織に預けてるのに。
「一織」
「ひゃ、」
「オレのことみて」
 ねだった声は、思ったよりずいぶん強い響きになった。一織がびっくりしたみたいに肩を揺らして、それから、そろそろと顔を上げる。
 そんな風に怯えたようにされたいわけじゃない。そう思うけど、でも顔が見たい。オレを見てほしい。
 息が少しだけ苦しくなる。早くオレをコントロールしてよ、一織。
 オレがこんなに切望しているのに、今日の一織はどういうわけか、ひどく鈍感になってしまったようだった。のろのろ、長い時間をかけて、ようやく顔が上がる。
 一織が、オレを見た。
 顔が真っ赤だ。どうしてだろう、格好いい一織はどこかに行ってしまって、泣き出しそうな顔をしてる。
 その瞬間、喉が詰まった。
「――っ、は……、――」
 一織の瞳孔がきゅうっと小さくなる。預けたままのオレの手を、一織の手が包み込んだ。さっきまでの緩慢な動作が嘘みたいな力強さで、オレの震えを止めてくれる。
「っ、七瀬さん、息を――」
「……ふ、あ、……っ」
「息をして。ゆっくり。吐いて。……吸って。大丈夫。大丈夫です、七瀬さん。大丈夫だから……」
 囁くような低音が、オレの名前を呼んで、あやすように語りかける。
 ずっとオレの隣でオレを支えてくれた、大好きな声。
「ふー…………。ありがと、大丈夫。落ち着いた……」
「……そうですか」
 ほっとしたように、一織がため息をこぼす。オレのため息の話をしてたはずなのに、今度は一織だ。そう思うと、なんだかおかしい。
 笑ったら肩の力が抜けて、ついでに視界もスッキリして、そうしたら、オレのため息の正体も、突然息が苦しくなった理由もわかっちゃった。
 一織があんなにまごまごしてた理由も、たぶん。
「あー、びっくりした……今日の一織、オレのコントロール下手すぎじゃない?」
「さすがに無茶ぶりが過ぎませんか!? それに、ちゃんと落ち着かせましたよね!?」
「じゃあそういうことにしていいよ。――あのさ、一織」
「だめですよ」
「……まだ何も言ってない」
「あなたがこの場面で言い出すことくらいわかります。でもだめです。言わないで」
「好きだよ一織」
「言うなって言いましたよね今!? この馬鹿!!」
「かわいくないなー」
 ヘラヘラ笑いながらオレはブチ切れてる一織にすり寄って、首筋に額をぐりぐり押しつける。嘘だよかわいいよ、ぷりぷり怒ってるのにオレの手を離さないしオレを突き飛ばしもしないとことか。
 オレの感情の正体に気づいたのはたぶん、オレより少しだけ一織のほうが先だった。だけど、それは私への恋愛感情ですよだとか、七瀬さんは私が好きなんですよとか、照れ屋の一織が言えるわけない。
 言えるわけなくて困り果てた一織の、真っ赤な顔とうるうる潤んだ瞳を差し出されて、無意識に一織に恋してたオレはノックアウトされちゃった。
 オレのことが大好きでオレの恋にもオレより先に気づいてしまって、言わせたくなくてでも嬉しくて、どうしようどうしようってパニックしてる一織が、いじらしくて切なくて可愛くて好きすぎてどうにかなっちゃいそうで――で、発作。うーん、我ながらだいぶ恥ずかしい。
 言わないでって一織が言う理由も、不本意だけどわかっちゃう。恋心が発作の原因とか、だいぶいたたまれないよね。でもわかったからって納得は別だから、諦めて受け入れてほしい。
「大好き、一織。オレのことコントロールしてよ。天才プロデューサーだろ?」
「だから丸投げはやめてって……!」
 きゃんきゃん吠える一織だけど、なあ、気づいてる? 縋りつくみたいにオレの両手をぎゅうっと握ったまんまのお前の手。平熱はオレより低いのに、ほかほかにあったかくなってる体温。
 オレのことが好きだって全身で言ってるのに、逃がしてなんかやれるもんか。
 格好良くて、可愛くて、泣き虫な、オレのプロデューサー。なあ、ずっとオレのこと見ててよ。天国だって地獄だって、ずっと一緒に行くんだからさ。