「おはようございます!」
都内某所。撮影用の衣装に着替えてスタジオに入ったら、色素の薄い髪の後ろ姿が視界に入った。思わず挨拶の声が弾む。
「おはよう、陸。今日はよろしく」
「こっちこそ、天さん!」
いつもと変わらない落ち着いた声で、天にぃが俺の名前を呼んで笑う。オレもニコニコ笑いながら、早足で天にぃに歩み寄った。
人前では九条さん、七瀬さん、と堅苦しく呼び合っていた時期を経て、いまのオレたちの表向きの間柄は『仲の良い友人』だ。八乙女事務所への復帰を果たし、ふたたびメジャーシーンに返り咲いたTRIGGERと、オレたちIDOLiSH7が、プライベートでも交流が深いのは業界でも知られた話だ。同い年のセンター同士であるオレと天にぃが、仕事で顔を合わせる機会も多くなった。
今日の仕事もそのひとつで、写真グラビアつきの対談記事が来月発売の女性誌に掲載予定だ。雑誌名は……なんだったかな。よくコンビニとかで見るやつ。
「――九条さん、七瀬さん、お疲れさまでした!」
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました。記事、楽しみにしていますね」
対談も撮影もスムーズに進んで、予定時刻よりやや早めに終了が宣言される。やった、と声を上げて手を構えたら、仕方ないなって顔をした天にぃが、ぽんとタッチしてくれた。
「陸、このあとの予定は?」
「! 空いてる! ごはん行こう!」
オレから誘う気満々だったけど、珍しいことに天にぃから先にお誘いがあった。食い気味に応じたら「それ、ボクの台詞なんだけど」と天にぃが苦笑して、周りからもクスクス笑いが上がった。お二人は本当に仲が良いんですねえ、とインタビュアーさんが言うから、そうなんですよ~! とわざとらしく天にぃにくっついて笑う。さっきの対談でも、最近のプライベートの交流について話したばかりだ。
『本当の』仲の良さについては、口が裂けても言えないけれど。でも、昔よりずっと、オレと天にぃは『仲良し』だ。なんて幸せなんだろう。
いくら変装をしても、オレたちが揃って足を運べる店は限られている。繁華街を少し外れた立地にある、小さなビストロに天にぃを誘った。個室に落ち着いて注文を済ませ、食前酒のグラスに口を付けた天にぃが満足げに目を細める。
「良いとこ知ってるじゃない」
「一織がね」
「ああ。あの子、元気?」
「元気だよ。お小言も相変わらず絶好調。今期から報道番組のレギュラー増えたし、忙しそうだけど」
「そう。陸は?」
「え」
「陸はもう平気? 先週、久々に大きめの発作出たって聞いてるけど」
「あー…………」
思わず人差し指で頬を掻きながら、明後日の方に視線を逸らした。そんなに大ごとじゃなかったから伝わっていないと思っていたけど、とっくに耳に入ってたのか。珍しく誘ってくれたと思ったら、これが理由だったらしい。
成人してもう何年も経ち、持病と付き合いながらのアイドル活動も軌道に乗っているのに、天にぃは相変わらずオレの健康については心配性のままだ。
「ごめんね、心配掛けて。気をつけてたんだけど、急に暑くなったり冷えたり安定しなかったでしょ。ロケ中に雨に降られたり、リスケが重なったのもあって……でも次の日オフで、昼には病院から帰れたから、仕事に穴は空けてないよ」
「そう。仕事に影響なかったのはいいけど、気をつけなさい」
「ごめんなさい。一織にもめちゃくちゃ怒られた……」
「あの子も家にいたの?」
「発作起こしたときはオレ一人だったよ。一織も連日遅くてさ。吸入しても治まらなくて、あ、ヤバいな、ってとこでちょうど帰ってきたんだ。それで、すぐ車出してくれて、いつもの救急外来」
「ふうん……」
なんだろう、すごく物言いたげな顔だ。眉をきゅっと寄せたまま、天にぃはバッグからスマートフォンを取り出した。珍しいな。誰かと食事をしているときに、電話をいじる人じゃないのに。
手入れの行き届いた指先を何度か画面に滑らせて、それから天にぃは顔を上げ、オレの顔をじっと見た。
「天にぃ?」
「陸」
手の中でくるりと回転させたスマホを、こちらに差し出してくる。
「読みなさい」
「え」
「いいから」
表示されているのはラビチャの画面だった。他人のラビチャを覗き見ていいのかとためらうオレの背を、天にぃの声がぐっと押す。いつもより少し低くて鋭いそれは、『兄』としてオレの前に立つ時の天にぃの声音だ。
圧に押されるように椅子に背をつけて、ピンクシルバーのスマホを手に取る。画面は少しスクロールされていて、日付を見るとちょうどさっき話題にした、オレが発作を起こした夜のものだった。
『七瀬さん』
『七瀬さん』
『七瀬さん』
――なんだこれ。
見慣れた文字の羅列が目に飛び込んできて、あやうく声を上げるところだった。画面には、ただ名前を書いただけの短いメッセージが、いくつもいくつも連なっている。
遅ればせながら相手の名前とアイコンに目をやったけど、正直確認するまでもない。
一織だ。
一織が天にぃとのラビチャで、オレの名前を呼んでいる。何度も、何度も。
一体どういうことなんだろう。
上から下に指を動かして、オレは画面を過去に巻き戻す。
『七瀬さん』
『ごめんなさい』
『九条さん』
『こわい』
『ななせさん』
『いなくならないで』
『ななせさん』
『ごめんなさい』
画面を埋める吹き出しのほとんどには、ほんの数種類の、短い言葉だけが入力されていた。所々に意味をなさない記号が挟まれているのは、操作ミスだろうか。
いおり、と思わず呟いた声は、たぶん震えてたと思う。スマホを持つオレの手も。
その日付の会話の冒頭まで、ようやく遡った。一織らしい、簡潔で事務的な言葉が、その日の顛末を報告している。しばらく多忙だったこと、気温と気圧の変化、発作の様子、家で一織がしてくれた対応と、病院で受けた処置。天にぃがいくつか補足を求め、打てば響くような返答がある。そこまではオレの知っている、有能で冷静な和泉一織で――でも。
『状況は把握しました。ありがとう、キミもお疲れさま』
『あとはここ、好きに使って』
天にぃがそうメッセージを送って、それからだ。
オレの名前、天にぃの名前、謝罪と、怯え。数分おきのメッセージのタイムスタンプはどれも深夜、オレが病室で処置を受けていた頃だ。
小さなこどもみたいな、つたない語彙。無機質なデジタルの文字が、震えて滲んでるようにも見える。
天にぃからの返信はない。
雨だれのような吹き出しは2時間近く続き、ふつりと途切れて、翌日にはいつも通りの一織が、オレの帰宅を淡々と報告していた。天にぃはひとつスタンプを送るだけで、深夜の連投にはなにもコメントをしないままだ。
「天にぃ、これ……」
「人のプライバシーを晒す趣味はボクにはないのだけど、いい加減もどかしくて」
肩をすくめた天にぃが、グラスを置いて頬杖をつく。
「何年前だったかな。陸、ライブの千秋楽の楽屋で倒れたことがあったでしょう。ボクらも挨拶に行って居合わせた」
「あ、うん……」
全国ツアーの最終日だ。アンコールまで歌いきったら倒れてもいいやと全部絞り出して、その通りに楽屋で動けなくなった。ラストの曲は気合いだけで歌っていたから、未だにほとんど記憶が無くて、後日DVDを見たらものすごく一織とべたべたしていて笑ってしまった。たぶん、うまくそう見せているだけで、へろへろのオレを一織が支えてくれていたというのが本当のことだろうけど。
それでもお客さんを送り出すまで笑顔でいられて、上出来のペース配分だと誉められたくらいの、大成功のツアーだったはずだ。病院送りになって三日帰れなかったけど、オレがこの身体でセンターをやっていく以上、それくらいは仕方ない。
「ライブは最後まで最高のパフォーマンスだったよ。キミが倒れたあとの、メンバーやスタッフの対応も的確だった。特に和泉一織には満点をあげていい。アイドルとしても、裏方としてもね。ボクが当事者だったとしても、咄嗟にあれほどの対応はできないかもしれない。――でも、それがおかしい。あの子が本当に平気なはずがない。キミはあの子の恋人でしょう」
「天にぃ……」
「ボクは、いつも、ちっとも平気じゃなかった。あの子はボクより情が深くて、脆いよ。なのに苦しむキミを目にしながら平然と采配していた。……スタッフどころか、メンバーの前でさえ泣けないんでしょう。キミの無茶を誰より許してしまうのがあの子だから、周りに優しくされる資格がないって思ってる」
「一織が、そう言ってた……?」
「まさか。それが自分から言える子なら、そもそもボクが首を突っ込んでない。ボクは推測しただけ。あの日はトイレの個室に連れ込んで無理矢理泣かせるくらいが関の山だったよ」
「待って待ってオレがいないあいだに一織になにやってるの天にぃ!?」
「キミが勝手に退場するのが悪いんでしょう。あの子を一人で泣かせておくほうが良かった?」
「う……」
反論を封じられて、オレは項垂れる。天にぃはグラスをくいっと傾けて、アルコール色のため息をついた。
「残念ながら、ボクの前で泣くのも不本意そうだった。泣いてスッキリしたのと、見られた自己嫌悪と、半々ってところかな。だから、ラビチャなら貸してあげるけどって言ったんだよ。弱音でも愚痴でも好きに送ればいい、見てないことにしてあげるからって。そのときは頷かなかったけど――それから三ヶ月後くらいかな。『どうか無視してください』って前置きして、一行だけ送ってきた」
「……なんて?」
「『七瀬さんがいなくなってしまいそうで、怖い』、って」
「――――」
「ボクは返事しなかった。それが良かったんだろうね。キミになにかがあると、ときどきそうやって送ってくる」
オレは言葉を探しあぐねて、ノンアルコールのカクテルをちびりと舐める。
「IDOLiSH7の和泉一織としてキミを支える立ち位置と、キミの恋人としてキミに向ける感情とを、あの子はたぶん、未だにうまく整頓できていない。――ボクが、キミの兄であるボクと、キミのライバルであるボクを折り合わせきれないのと同じ。それこそ、昔あの子に指摘されたことだけどね。兄としての感情で、アイドルとしてのキミを否定している、って」
天にぃはオレがテーブルの隅に置いていたスマホを取り上げて、ひらひらと振る。画面はとっくにロックがかかっていたけど、その中に閉じ込められた一織の言葉がくるくるかき混ぜられて、溶けていく想像をオレはした。
「あの子がボクにならこれを送れるのも、それが理由だろうね。ボクは誰よりもあの子の苦痛を理解できるし、同時に、誰よりもあの子を責める権利を持ってる――少なくともあの子にそう思われてるんでしょう。誰にも言えないで抱えてるままよりはマシかなと思ってたけど、自傷行為の片棒を担ぐみたいで不本意だし、少なくとも張本人のキミは知っておくべきだと思って」
ノックの音がして、天にぃがはいと応えた。ドアが開いて、料理が運ばれてくる。シェフさんには申し訳ないけど、前菜もメインも一度にまとめてのサーブをお願いしてあった。そういうリクエストがしやすいのも、この店を気に入っている理由のひとつだ。
テーブルに置かれていく皿を眺めながら、天にぃの言葉を咀嚼していたら、この店に初めて来た日の記憶が蘇った。ああ、そうだ、なんて偶然だろう。
一礼したウェイターさんが音もなくドアを閉じて、二人きりの空間が戻ってくる。一織がいちばん気に入っていたオードブルを、オレは口に運んだ。可愛らしいハート型にくりぬかれたテリーヌが、口の中でほろりととろける。
「……退院したあと、一織がこのお店に連れてきてくれたんだ。快気祝いと打ち上げだって、オレの好物ばっかりの特別コースで、一織がたくさん誉めてくれて……、心配と迷惑かけてごめんって言ったんだけど、いいパフォーマンスだったしあの程度の無茶なら予想の範囲内だって笑って、ライブのあとの仕事もちゃんと、オレの入院が長引いても大丈夫なように調整してあって、」
「そう」
「いつも、一織が……、一織だけは、歌える限り歌えって、言ってくれるんだ。オレの歌が好きだって、最高だって……オレの歌が、みんなを幸せにできるからって」
「うん」
「小言めちゃくちゃ多いし、お説教長いし、プレッシャー掛けてくるしさ……、でも、嬉しいんだ。一織に期待されて、望まれて、まだできる、オレはこんなもんじゃないって、全力振り絞っていいんだって……苦しいけど、苦しくても、生きてて良かったって、オレがここにいる意味があるって、思える」
天にぃはオレをじっと見つめ、小さく頷いて目を伏せた。何気ない様子でサラダに手を伸ばす天にぃの表情に、少しだけ胸の奥が痛む。過去の天にぃを責める表現になったと、気づかないほどさすがに子供じゃない。それでもこれがオレの、紛れもない本心だ。
料理の皿がずらりと並べられたテーブルを見渡す。こんな風に好きなものを好きなだけ食べることすら、幼いオレにはできなかった。そんなひ弱なオレを目の当たりにしていた天にぃの、真綿にくるむような過保護も、オレを捨てて出て行ったことすらも、オレへの愛情からだとわかってる。
それでもオレは、そんな風に愛されるだけじゃ足りなかった。オレが選んだ、オレの人生を生きてみたかったんだ。
あの頃、一織だけがオレのその願いを受け止めてくれた。酷な要求をする人だと苦笑しながら。
「オレ、一織に酷いことしてるよね。わかってるんだ。……でも……」
サラダを平らげた天にぃが再び顔をあげた。憂いげだった表情が、オレを見て、なんだか変なふうに歪む。ものすごく複雑そうというか、不本意そうというか、あるいは困惑しているような、やけにややこしい顔になっている。
「……どうしたの、天にぃ。オレなにか変なことした?」
「いやちょっと……、ここでその顔はボクにも予想外だったというか……」
「顔?」
「顔」
オウム返しに言った天にぃはグラスをくっと呷ると、大きなため息をついた。
「陸。いま、自分がどんな顔してるか自覚はある?」
顔かぁ。
「うん。ある」
「……あるんだ……」
天にぃはじっとりと半眼になって、ナイフとフォークを取り上げると、大きめに切り分けたチキンソテーにかぶりつく。
オレはどうしても口角の上がってしまう顔をごまかすように撫でて、結局ごまかしきれずにへらりと笑った。
「だって、オレって一織にすっごくすっごくすっごく愛されてるんだなーってあらためて実感したらさ、嬉しくなっちゃって」
「……血を分けた双子の弟の本性がサディストだとは知りたくなかったかな……。和泉一織に同情する」
「天にぃ、ひどくない?」
オレは唇を尖らせながら、レタスにフォークを突き刺した。
「オレのこと好きな人ほど、オレのせいで辛い思いをしてるって、わからないほど鈍感じゃないよ、オレも」
「……陸、」
「生まれてからの二十何年で、父さんにも母さんにも天にぃにも、IDOLiSH7のみんなにもマネージャーにも、散々心配させて、辛い思いをさせてきただろ。代われるなら代わってあげたいって、優しい人たちに何度も言われてきた。一織だけ例外だなんて、オレのことで傷ついてないなんて、さすがに思えるわけない」
「…………」
「前に一織が言ってた。一織に傷つかないで、一織に支えられてくれる誰か、一織を信頼して、一織の手で成功に導ける誰かを、ずっと探してたって。オレも欲しかった。オレに傷つかないで、オレに夢を見てくれて、オレに期待してくれる誰か」
レタスをしゃくしゃく噛みながら、思い出し笑いをこぼす。一織はいつも、オレに出会えたことを人生で一番の奇跡みたいに言う。でもオレに言わせれば、一織の棘なんてかわいいものだ。一織の運命になれる相手がオレだけだったなんて保証はどこにもない。
オレにとっての一織こそ、奇跡みたいなたった一人だ。
「一織は優しいから。オレの願いを叶えるために、オレに傷つかないふりを、ずっとしてくれてる。どんなに不安でも、しんどくても……、オレに歌わせる一織でいてくれてる。そんなの……っ、愛されてるのほかに、どう受け取ればいい?」
喉を締めつけられるような息苦しさを感じて、オレは胸元に手を当てた。オレの名を呼ぶ落ち着いた響きを脳内に呼び起こして、息を整える。大丈夫。大丈夫だ。
いまにも椅子を蹴りそうな天にぃを手で制し、オレは今度は意図的に口角をきゅっと上げた。
「――だからね、天にぃ。だから……だからオレだけは、オレが一織を傷つけてるって、悲しんだり、後悔したらだめなんだよ」
そう言ってから、何年か前に出演したドラマで、似たようなセリフがあったなと思い出す。彼の想いは、オレには想像しやすかった。でも同時に、ドラマで演じたからこそ、人の心はそんな風に割り切れやしないことも、この言葉を聞かされる人のもどかしさもわかる。
わかってるよ。
それでも、もう、決めてるんだ。
「オレは、一織がオレにくれるものに応えなきゃ。……ううん。オレが応えたいんだ。あいつにふさわしいオレでいたい。そうすることで、一織を傷つけ続けるとしても」
オレと一織がおなじ夢を見続ける限り、オレたちはお互いの姿に傷つき続け、そうさせる自分に苦しみ続けるんだろう。恋人という関係を手放さないままなら、なおさらだ。それでも、欲張りなオレたちは、この道以外を選ばないと決めた。
「心配してくれてありがとう、天にぃ。オレたちは大丈夫だよ。大丈夫だけど……できたら、これからも一織の避難所になってあげて」
「…………」
カトラリーを置き、ぺこりと頭を下げたオレを、天にぃはしかめっつらでずいぶん長いこと睨みつけた。
「……不本意だって言ったでしょ」
「ねえ天にぃ、お願い。天にぃが言ったとおり、たぶん天にぃじゃなきゃだめなんだ。悔しいけど、それだけはオレじゃ代われないから」
ここぞとばかりに弟の顔でおねだりをする。天にぃはさらに長々とオレを睨んでいたけど、しまいには深いため息をついた。根負けしたように眉尻を下げて笑うのは、『兄さん』の顔だ。
「……なにそれ、独占欲? 知らなかった、ボクの弟ってずいぶん愛が重いんだね」
「オレは重いよ? 天にぃの弟だもん」
「ちょっと、失礼すぎない?」
「舞台上で殺されるかもってときすら自分の身の危険よりオレのメンタル心配してた人に言われたくないなー」
「――――」
ぐ、と天にぃが口を噤んで、オレはけらけらと笑った。天にぃは拗ねたようにソテーの最後の一切れを頬張る。いつもの天にぃよりちょっぴりお行儀の悪い食べ方は、気を許されているみたいでなんだか嬉しい。
ごくんと喉を上下させ、ナプキンで口を拭った天にぃが、どこか吹っ切れたみたいな顔で言った。
「ほんと、困った子たち……。まあ、しかたないか。陸のバートナーなら、あの子だってもうボクの弟みたいなもんだしね。ブラコンのお兄ちゃんが面倒見てあげる」
「わ、一織が聞いたらすごい顔しそう!」
「『はあ? 私の兄さんは兄さんだけです』くらい言うね」
「あはは、言う言う!」
「ふふ。――ねえ、陸、本当に。悲しませない……は無理なんだろうけど、大事にしてあげなよ」
「うん。大事にする」
居住まいを正し、決意をこめて頷く。
天にぃはふわりと、少しだけ寂しそうに笑った。
天にぃと別れて乗ったタクシーに自宅の住所を告げて、窓の外に流れる、夜の街の光景をぼんやりと眺めた。街のあちこちにオレたちの姿があって、あちこちでオレたちの曲がかかっている。ビル壁面に設置された大型ディスプレイに、IDOLiSH7の新曲MVが流れ始めるところだった。街を歩く人がディスプレイを見上げる様子が視界の隅に入って、流れていく。あの人たちが笑顔だったらいいなと願う。
素顔を晒して街を歩けた頃からは、オレたちはずいぶん遠くに来てしまった。地に足の着かないような感覚が怖くないと言ったら嘘だけど、誇らしさも本物だ。オレが生きていることが、オレが歌っていることが、誰かを笑顔にして、誰かの今日を支えて、誰かの明日の希望になる。そう信じられるのは、なんて幸福なんだろう。
手の中のスマホが振動して、視線を手元に落とした。ディスプレイは一織からのメッセージをぽこぽこと通知する。タクシーに乗る前にラビチャして、解散を伝えておいたから、その返事だ。あっちはまだ仕事のはずだけど、休憩時間に送ってきたんだろう。
『楽しかったならなによりです』
『まっすぐ帰って下さいね。私を待たないで寝ていて』
『明日は8時にマネージャーが迎えに来てくれますから』
『スマホの充電をお忘れなく』
オレが天にぃと会う日の一織のメッセージは、いつもよりほんのわずか饒舌で、お小言が多くなる。そういういじらしい可愛げも好きだから気にしていなかったけれど、もしかしたら、天にぃに弱音を吐いていることをいつか暴露されないかと心配していたのかもしれない。実際今日されちゃったわけだし。
ほんと、馬鹿なやつ。
おまえは信じないかもしれないけど、オレだってけっこう、知らんぷりは得意なんだからな。
前人未到の空をオレと飛ぶ、オレのプロデューサーでオレの相棒でオレの恋人。ヤマアラシのジレンマみたいに、オレたちは近づくほどに互いを傷つける。それでも、この手を離してなんてやるもんか。
オレの願いを誰より知ってるお前となら、どんな未来だって目指せる。
画面に並んだメッセージを愛おしく撫でて、オレは了解の返事と、かわいいウサギのスタンプを送った。
窓の外に流れる都会の夜は、満天の星空みたいにきらめいている。
* * *
マンションの分厚い扉をそっと閉めて、外界の空気を遮断する。防音と断熱と空調設備とセキュリティを重視して選んだ私たちのささやかな城の、清浄で穏やかな空気は、私をいつもほっとさせてくれた。
玄関に立ったまま耳をそばだて、気になる物音がないことを確認する。靴を揃えて脱ぐと洗面所で手洗いうがいを済ませ、寝室のドアをそうっと開けた。エアコンと空気清浄機の稼働音に混じって、七瀬さんの規則正しい呼吸音が聞こえてくる。安心してドアを閉めると、荷物を置きに私室に向かった。七瀬さんより遅く帰宅する日の私のルーティンワークだ。
手早くシャワーと着替えを済ませ、髪と肌のケアをして部屋に戻る。明日以降の仕事の資料に目を通し、スケジュールを確認していたら、あっという間に就寝時間になってしまった。机の上を片付けて、ふたたび寝室へ向かう。
私たちの職業上、生活時間のすれ違いは頻繁に生じる。睡眠の質を高めるためには寝室を分けるべきなのだろう。でも、七瀬さんは私と同じベッドで眠りたがったし、私は七瀬さんの体調の変化がすぐにわかる距離にいたかった。そんなわけで互いの要望が噛み合い、私たちが毎夜眠るのは寝室にしつらえたキングサイズのベッドだ。反対されると思っていたのか、私が提案に頷いたとき、七瀬さんは拍子抜けの顔をしていたけれど。
思い出すと少しばかり面白くなかった。あなたはもう少し、私の執着の重さを思い知った方がいい。
スプリングをなるべく揺らさないように寝具に滑り込む。すぴょすぴょと能天気な寝息が近くで聞こえて、それだけで一日の疲れが癒える気がした。九条さんとの食事会が楽しかったのだろう、暗闇の中にほのかに見える寝顔は満足げだ。
九条さんは、七瀬さんに見せたのだろうか。最近の九条さんの物言いたげな表情は気になっていた。できれば秘密にしておいてほしかった。でも、九条さん相手に弱音を吐いてしまった時点で、どこかで諦めてもいる。九条さんはもともと情が深くて、年下にやたらと甘い人だ。七瀬さんとの長年のわだかまりが解けたせいか、最近は私を気遣って七瀬さんを叱るような、昔とは真逆の態度を見せることもあった。正直いたたまれないから、程々にして欲しいけれど。
七瀬さん。
声に出さないようにそっと名を呼んで、胸元にすり寄る。規則正しい寝息を立てたまま、七瀬さんの腕が私の身体を慣れた仕草で引き寄せた。お気に入りの毛布を見つけた子供のように、寝息はいっそう安定して深くなる。
七瀬さん。
あなたがいくら鈍いからって、私の痛みをあなたが知らないままだなんて、思ったことはない。それでもあなたは、私だけはと求めてくれる。私なら耐えられると、あなたの隣に立ち続けられると信じてくれる。そんなとてつもない信頼を寄せられて、歓喜以外のなにを感じればいいだろう。
いつだって私に酷な要求を突きつけて、そういう自分に傷ついて、それでも命を燃やさずにいられない、私の愛しいモンスター。あなたの願いを叶えるためなら、悪魔に魂を売ったっていい。
七瀬さん。
パジャマ越しに伝わる、私より高めの体温が心地いい。ゆらゆらと襲いかかる睡魔に身を任せて、私はうっとりと目を閉じた。
あなたは優しいから、たとえ九条さんが私の弱音を明かしても、知らんぷりを続けるんだろう。私も同じだ。互いの棘がつける傷も、そこから流れ続ける赤い血も、ないことにして、まるで共犯者みたいにこの世界を生きていく。
天国へも、地獄へも、ともに行くと約束したのだ。
「ん……、……いおり……」
七瀬さんが寝言で私を呼んで、いっそう強く抱き寄せた。寝言ではないのかもしれないけれど、もう眠っていなければいけない時刻だから、寝言だということにする。
「……ななせさん……」
私も寝言のふりで彼を呼んだ。本当はさっきからずっと、声に出して呼びたかったから。目を閉じたままほんの少しあおのいた私の額と頬に、優しいキスが落ちて来る。思わずくふふと笑ってしまうと、こらぁ、と眠そうな声が文句をつけて、鼻をつままれた。だめですよ、私たち、眠っているんだから。
唇をついばむキスの幾度目かに、私から追いかけて舌を絡めた。水音の立つ、深い口づけ。彼としかしないとは言えないのが私たちの商売の因果なところだけれど、だからこそ、心から愛しい人とかわすそれの、痺れるような甘さを知っている。
どちらともなく唇は離れて、代わりに互いの身体に腕をまわし、ぴったりと寄り添う。私たちの身体に物理的な棘がなくてよかった。抱き合ってもちっとも痛くなくて、きもちがいい。睡魔に半分侵された脳は、おかしな感慨を連れてくる。
七瀬さんの親指が私の目尻を優しく拭ってくれた。私か、七瀬さんの夢の中の私か、どちらかが泣いていたらしい。どちらなのかよくわからないくらいには、私の思考もとろけている。
一織、だいすき。
はちみつみたいに甘い声で、むにゃむにゃと七瀬さんが呟いた。
……わたしも。
囁きかえした声は、七瀬さんに届いただろうか。
嬉しくて、幸せで、こわくて、また泣きたくなる。
七瀬さん。七瀬さん。私の見つけたお星様。
どうか、私の前からいなくならないで。
あなたの炎に炙られたって平気だから、ずっとその手で、私を捕まえていて。
そうしたら私は、あなたを世界の天辺にだって、宇宙の彼方にだって、連れて行ってみせるから。