シャイロックが石になった日、俺もそこにいたよ。
俺が訪ねていった頃にはもう、お店はほとんど閉めていて、シャイロックは丘の上の小さな家で暮らしてた。古い貴族の別荘を買い取って、修繕したんだって言ってた。シャイロックによく似合う家だったよ。静かで、居心地がよくて、品がいいんだ。庭にはばらの花が咲いていて、ほかに小さな温室と、葡萄の樹もあった。地下にはワインセラー。海が近くて、眠るときには波音が聞こえた。
昔、魔法舎でみんなで暮らしたときみたいに、俺たちはシャイロックと一緒にいたよ。毎日おしゃべりして、お茶会をして、ファッションショーをして、ダンスをして、お酒を飲んで、歌劇を演じて、パジャマパーティをした。話すことはいっぱいあって、飽きることなんてなかった。思い出話も、秘密の告白も、恋バナも、未来の話もしたよ。
俺たち、たくさん、たくさん笑った。
泣くのだって我慢しなかったけど、それよりたくさん笑ってたよ。
どれだけ一緒にいたって、最期はひとりで、つめたい石になり果てる。それが魔法使いの死。そういうものだって、俺だってもう知ってた。知ってたけど――知ってたから、その日まで一緒にいたかった。シャイロックが大好きだったから。
でも、本当のことを言うとね。このまま俺がこの家にいていいのかな、って、何度か思ったよ。あの家を探してきて、シャイロックに贈ったのはムルなんだ。二人きりで過ごさせてあげたほうがいいんじゃないかなあって悩んだよ。――だけどさ、シャイロックが、俺の手を握って言ったんだ。私の知らないうちに帰ってしまわないでくださいね、クロエ、って。
私は、もう、あなたを迎えには行けないから……、って。
…………。
……ごめん、うん、それでね。シャイロックのきれいな手は昔のままだったけど、爪が少しだけくすんでた。俺はそれが悲しくなっちゃって、シャイロックの爪をぴかぴかにして、香料をすり込んで、きれいな色で染めてあげた。羽や宝石を飾ったり、細かい模様を描いたり……髪だって、毎日違うふうに結ったよ。シャイロックの髪はつやつやのさらさらだから、結い紐をほどいたらストンと落ちて、背中で跳ねるのが好きだったな。
あの頃のムルは……これまで俺が出逢ったどのムルにも似てたし、どのムルにも似てないムルだった。不思議な感じだったな。猫みたいにシャイロックに甘えてるときも、気取った口調で議論しているときも、ごっこ遊びに興じているときも、静かに二人で過ごしてるだけのときもあったよ。
いつだったかな。シャイロックが珍しくソファでうたた寝してて、ムルがその隣に座ってた。俺が部屋に入って来たのに気づいて、しいって指を立てて、ウィンクをひとつ。
ムルはシャイロックの髪をゆっくり撫でていた。びっくりするくらい優しい手つきだったな。俺はなんだか照れちゃって、すぐに部屋を出たけど……。昔、シャイロックがあんなふうに、眠ってるムルを撫でていたことがあったよ。その日のムルも、昔のシャイロックも、おんなじ目をしてた。愛おしくてたまらないって顔。
半年くらい、そうやって過ごしたかな。
新種のばらが咲いたよ! 朝から温室にこもってたムルが、そう言って飛び込んできた。すっかり夜が更けて、そろそろ寝ようかって頃だった。ムルが前から温室でばらを育てていたのは知ってたよ。ムルははしゃいでふわふわ浮きながら、シャイロックの手を引いて、温室に連れて行った。クロエも! って言われて、俺も追いかけたよ。
夜空の下を歩いて、温室の扉をあけた。天井のガラス越しに、まんまるな月がぼんやり見えていたっけ。
温室のいっとういい場所に置かれていた、つぼみばかりだった鉢に、ひとつだけ花が開いていた。
何百年も熟成させたワインみたいに深みのある紅色の、溜息が出るほど美しい、大輪のばらだった。花弁は最高級のびろうどよりしっとりとなめらかで、ひとつひとつのカーブが、とっておきのワイングラスみたいに優美でさ。花芯の巻き具合が絶妙で、凜としているのに蠱惑的なんだ。香りは芳醇でいて媚びがなくて、酔わされそうな甘くて危険な魅力があって……。
月明かりの下で、輝くように咲いていた、一輪の紅いばら。
誰が見たって、きっと同じことを思ったよ。
あれは、シャイロックのための――シャイロックのためだけにつくられたばらだった。シャイロックを花にしたらこうだと、これほどに美しく咲くものはないと、世界中に自慢するみたいな、そんな、ばらだった。
シャイロックは、ゆっくりばらに近寄って、香りを確かめるように息を吸い込んで……。
ムルのことを振り返って、笑った。
あんなにきれいに、あんなに悲しく微笑むひとを、俺はいまもシャイロックのほかに知らない。
「ひどいひと」
シャイロックは、そう言った。甘い、甘い声だった。それから、ムルを抱きしめて、やさしくキスをした。
「あなたなんて、だいきらい」
ムルの頬を撫でて、囁いたそれが、シャイロックの最後の言葉だった。
きれいな白い顔がぴしぴしとひび割れて、あっという間に崩れていった。温室の床に、かしゃん、かしゃんと砕けた石が落ちた。着ていた服は中身をなくして、ムルの腕の上にくにゃりと垂れ下がった。
俺は悲鳴をあげたと思う。よくは覚えてないんだ。覚悟なんていつも足りない。
でも、自分のことより覚えてることもある。
ムルが泣いていた。
シャイロックの石のそばにへたり込んで、シャイロックの着ていた服を抱きしめて、あーん、あーんって、まるきりちいさな子どもみたいに。
シャイロック、いやだ、シャイロック、行かないで。シャイロック、シャイロック――。
そのとき不思議なものを見たんだ。
ムルのつくった紅いばらの樹が、いっせいに花を咲かせた。開ききったばらの、葡萄酒色の花びらが、泣いているムルの上に、はらはらと降り注いだ。
雨みたいに、涙みたいに、……シャイロックのやさしい手のように。
花びらにまみれて、ムルはずっと泣いていた。
俺はそうっと温室をあとにして、ベッドにもぐりこんで、ひとりで泣いた。すごく悲しくて、さみしかったけど、でも、……なんて言ったらいいかな。
ここにいられて、よかったなって。そんなふうに思った。
起きたのは昼ごろだった。生きていたらお腹がすく。いつでも食べられることが大事だって、昔教えてくれたのはネロだった。しんと静かな食堂で、ひとりで食事をしていたら、ムルがやってきた。
星空を閉じ込めたマントと帽子、チャコールブラウンのクラシックなスリーピース。
俺の知らないムルだった。
大人の顔の彼は俺にそっとハグをして、ありがとう、クロエ、ごめんねと、少し笑った。
彼ときたら、最期まで、本当に……。そこまで言って、ムルは声を詰まらせて俯いた。あんなに賢くて、言葉の達者なひとがね。
ねえ、何か俺にしてほしいことはある? 白い手袋に包まれた手を取って、俺がそう聞いたら、ムルは少し考えて、ひとつだけ、と言った。
「シャイロックのことを、覚えていてくれるかい」
「忘れないよ。約束する」
ひと呼吸もためらわず、俺はそう言った。ムルはちょっと目を瞠って、それから、嬉しそうに笑ってくれた。
このときの話は、それでおしまい。
それから何十年か経って、俺はもう一度、あの家に行ってみた。誰もいない、がらんどうの家だった。目くらましと封印の魔法がかけられていたけれど、俺には効果がなかった。
屋敷の中は、何もかもあの頃のままだったけれど、シャイロックがこっそり教えてくれた隠し部屋の様子だけが違ってた。
棚に整然と並んでいたはずの小瓶が床に散らばっていて、中身はどれも空っぽだった。
あの中にあったはずの、パープルサファイヤの欠片がどこに行ったのか、俺は知らない。
ムルが今、どこにいて、なにをしているのかも……。
屋敷の庭を、紅いばらが埋め尽くしていた。あのばらだよ。ムルのばら。シャイロックのばら。そう、これ。あんたに見せたくて、少し貰ってきた。二人ともきっと、俺がそうするのを知ってるから。
あんたが一緒だったら、きっとあの庭でチェンバロを弾いてくれたね。月光と、波音との合奏だ。聴きたかったな。それだけ残念。
ほら、花が開いてきた。夜になると咲くんだよ。きれいだろ。こんなばら、世界のどこにもない。市場に出たら、目の玉が飛び出るくらいの高値がつくだろうね。
でもその日は来ないんだ。
あんたの演奏をもう誰も聴けないのと同じ。
シャイロックはもういない。
丘の上のあの家で、波の歌を聴きながら、月光にゆれるばらのことを、あの悲しい美しさのことを……、俺のほかには、きっともう、誰も知らない。