あなたは知らない

「ベッド~!」
 パジャマ姿のムルが、空中でとんぼを切って寝台に飛び込んだ。上等のスプリングに身体を弾ませて、うにゃうにゃと満足げに羽根布団を抱え込む。
「確かにベッドですけど、あなたのベッドではありませんよ」
「ベッド持ってない! でも今日はベッドの気分! ゆらゆらは海でたくさんしたからー!」
 ぱたぱたと泳ぐように手足を動かすムルを見下ろし、シャイロックは肩をすくめた。
 魔法舎のムルの部屋にはベッドがない。代わりに設置されたハンモックが、ムルのお気に入りの寝床だ。と言っても大人しくハンモックにおさまっているのは魔法舎で過ごす夜のせいぜい三分の一ほどで、それ以外の夜は床に丸くなって眠るか、夜通し月を見上げているか、眠らぬ街でギャンブルに興じているか――あとはこうして、シャイロックの寝台に潜り込むかだった。
「お好きになさればいいですけど、そこ少し空けてくださいな」
「はぁい。ごろん!」
「おや、良いお返事」
 ムルに譲られた寝台の端のスペースに腰を下ろすと、シャイロックは魔法で香油の瓶を取り出し、洗い上がりの長い髪にすりこんでいく。くん、とムルが鼻をうごめかし、嬉しげに破顔した。
「ばらとりんご! シャイロックのにおいだ」
「少々慌ただしいお出かけでしたからね。今夜はバーもお休みにしましたし、くつろぐなら馴染んだ香りがいいでしょう?」
「死んだはずの魔法使いに攫われたり、海の中でドラゴンと戦ったり、また島が沈みかけたりしたのって、慌ただしいで片付けちゃっていいやつ?」
「物足りないのでしたら、壮大な叙事詩にまとめてくださって構いませんよ」
「うーん、また今度!」
 くすくすと笑いながら寝台の上を転がって、ムルはシャイロックの腰にじゃれつく。こら、と口先ばかり叱りながら、シャイロックは蓋を閉めた瓶を戸棚へ押しやった。瓶はふわふわと空中を漂って、あるべき場所に行儀良くおさまる。指先を踊らせて部屋の灯りを淡い間接照明だけに落とし、シャイロックはつややかに仕上げた黒髪を揺らして、ムルの顔を覗き込んだ。
「今夜はずいぶんと甘えっ子さんだこと。海の中では、あんなに凜々しくていらしたのに」
「んー?」
 しなやかな白い手が、ムルの切り揃えた毛先をくしゃりと握り込む。少しばかり残ったヘアオイルがムルの髪に移って、ほのかに甘く香った。マーキングめいた仕草にムルは目を細めると、お返しのようにシャイロックの腿に頬をすりよせる。
「かっこよかった?」
「そうですね……」
 長い睫毛をしっとりと伏せて、シャイロックは甘やかな響きを声に乗せた。
「アーサー殿下はまだ十代でいらっしゃるのに、魔力の制御が巧みで、突破力がありますね。オズ様の薫陶がよろしいのでしょう。少々やんちゃが過ぎますけれど、青い果実の瑞々しさは格別なものです」
「むー! かみついちゃう!」
 わかりやすくぷくりと頬を膨らませたムルが、シャイロックの手を掴んで中指の先にガブリと歯を立てた。八重歯が爪に当たって、硬質な音がする。
「こら。おいたしない」
「ひゃいろっふはほへえふえあい!」
「なにを仰ってるのかわかりませんよ。爪が荒れてしまいますから、およしになって」
 シャイロックの薬指が、猫の子をくすぐるようにムルの顎を撫でた。うにゃにゃにゃ、と何度か鳴いてから、ムルはシャイロックの指を解放する。自分で歯型をつけたくせに、いたわるようにちろりと舌先で舐める仕草まで、猫らしさは満点だ。
「今度、猫に変化して賢者様にしてさしあげたら。きっとお喜びになりますよ。でも、噛むのはもう少し優しいほうがいいですね」
「シャイロックは?」
「私はこちらの姿のほうが好みです」
「いたかった? 優しいのがいい?」
「…………」
 シャイロックの指が、ムルの鼻をきゅっとつまむ。
「ふがっ」
「あなたもご存知でしょうけど、我慢強いんです、私。でも次はちゃんと数えさせてくださいね。不意打ちをされるのは性に合いません」
「知ってる!」
「もう……」
 悩ましげにため息をついたシャイロックの膝の上に、ムルは小作りなまるい頭をごろりと乗せた。物足りなさと期待と催促をたっぷりまぶした、煌めくネオングリーンがシャイロックを見上げる。
「…………」
 未だに海の底にとらわれて、ふたりきり、ゆらゆらと揺れている。
 そんな心地があった。
 シャイロックは降参するように眉を下げて笑う。
「とても素敵でしたよ、海でのあなた。――助けて下さって、ありがとうございます」
「シャイロック、もう泣かない?」
「――――」
 ムルが手を伸ばして、シャイロックの目の下をそっと撫でた。
「俺がシャイロックを助けても、もう泣かない?」
「ムル、…………」
「それとも、シャイロックはやっぱり、助けにいかないムルのほうが好き?」
 シャイロックのかたちの良い唇がひらきかけて、物言わぬまま、あえかな吐息だけをこぼす。
 ムルはするりと身を起こしながら、シャイロックの頬にかかる長い髪をすくって、耳の後ろにかけた。壊れやすい宝石を扱うときのような、丁寧な手つきだった。その手にシャイロックの頬をつつみ、同じ視線の高さから、シャイロックの紅い瞳を見つめる。
 ムルはもう笑っていなかった。ふたつの鮮やかな緑が、わずかな手がかりから真実を解き明かす探求者のように、シャイロックを映し出す。
 動きを止める魔法にかかったように、長いことそうして見つめ合って――先にその魔法を解いたのはシャイロックのほうだった。
 ゆっくりと持ち上げた手が、ムルの手に重なる。甘やかに目を細め、身を乗り出すとふれるだけの口づけをムルの唇に落として、シャイロックはせつなく微笑んだ。
 ムル、と、囁く声で呼ぶ。
「あなたが来てくださって、とても嬉しかったんです、私。あなたが私のために怒ってくださったのも。それが、私があなたを変えてしまったせいだとしても――嬉しかった。前は、あんなに悲しかったのに」
 ムルがきゅうっと口角を上げた。うれしい、の感情を全身から迸らせて飛びついてこようとするムルの唇に指を添えて制止し、ムル、ともう一度、シャイロックは呼びかける。
 不思議そうに首を傾げて、ムルはベッドの上に居住まいを正した。
「ムル。……ムル、私ね、あなたは私の気持ちなんて、すべてお見通しなんだと思っていたんです。あなたに見透かされるのが厭だったから、煙に巻いたり、はぐらかして……でも、悔しいけれど、そうやって意地を張る私の胸のうちも、あなたにはすっかり知られているんだって。わからないふりで、私をいい気にさせて、弄んで――その実あなたはただ、私との言葉遊びを、楽しんでいるだけなのだと。……ですけど」
 呟くように言葉をこぼしながら、シャイロックはムルの手に、あどけなく頬ずりをする。
「ムル。あなたは――少なくとも、ここにいる、このあなたは、私をすっかり知ってなんか、いないんですね。そうでしょう?」
「ずっと」
 まばたきもせずにシャイロックを見つめて、ムルはぽつりと言う。
「ずっとそう言ってたよ」
「……ええ」
「俺にはきみがわからない。だから、きみが知りたい。教えて、シャイロック」
 ムルの手がシャイロックの顔を引き寄せる。逆らわずにまぶたを閉じたシャイロックに、今度はムルのほうからキスを贈った。
 シャイロックのそれよりも、ほんの少しだけ、切実な衝動をつたえるキスだ。
 月光の下で咲く花のように、シャイロックは笑う。
「教えません」
「――――」
「知りたいのなら、私があなたに教えたくてたまらなくなるくらい、夢中にさせて」
 ムルがぱちぱちとまばたきをして、堪えきれないように表情を崩した。笑うのと拗ねるのと半々の顔で、今度こそシャイロックに飛びかかる。
 背中からベッドに倒れ込んだシャイロックが、少女のように楽しげな笑い声を上げた。その顔中にキスの雨を降らせながら、ムルも笑う。
「俺に首ったけなんじゃなかったっけ、シャイロック」
「あなたこそ、んっ、私に心酔してらっしゃる、って、ふふ……、四百年も前から、噂されてたんですよ」
「昔の俺だもん、ノーカンにして」
「……ん、あなたが仰ったのも、あなたが砕ける前の評判です、けど」
「首ったけだった?」
「内緒です」
「いまの俺には?」
「…………」
 艶やかに笑うと、シャイロックはムルの首に両腕を絡ませた。引き寄せて、かみつくように唇を奪う。ムルが体重をかけてのしかかり、仕掛けた倍の烈しさで責め立てた。角度を変えて重ねるたびに甘い声がこぼれ、飲み込みきれない唾液がシャイロックの口の周りを汚した。お伽噺のような初々しさも、小鳥の戯れのような軽やかさもない。みだらで、下品で、荒々しい、誘惑と情欲のキスだった。
 初めて、ムルと、そんなキスをしている。
 二人のほかには誰も知らない真実だ。
 ――あるいは、シャイロックだけが。

 きみを教えて。

 初めて知る熱を宿した愛しい相手を見上げ、血潮珊瑚の瞳が揺れてきらめく。
 深く青い海の底に眠る宝石。
 ほんとうは、まだ、あの海の底でまどろんでいるのかもしれない。

 灯りを落とした室内に、ひとすじだけ、月の光が差し込んでいた。