きみを助けに

「――シャイロック!」
 クロエの絶叫が聞こえた。
 彼らが何をしに、どこにいるか。今、この船が、何をしようとしているか。数秒後に何が起きるか。暴走する魔法科学装置の分析に捧げていた思考の渦を突っ切り、いくつかの事実がバチバチと火花を立ててシナプスを繋いだ。物を言うことも、箒を取り出すのも後回しに、ムルの足が甲板を蹴る。重力に魔力を掛け合わせて加速し、予測される砲撃の光跡を追う。発射まであと二秒。到達するまでは。攻撃が届く時間を優秀な頭脳は瞬時に弾き出す。間に合わない。速度を上げる。生身には過ぎる速度に肉体がミシミシときしむ。砲撃に並んだ。もう一段階。心臓が痛む。燃えるときの痛みとは違うだろうか。光を追い抜いて、更に加速。魔法科学特有の、思考も感情もない純粋な魔力の巨大な塊をすぐそばに感じ、本能的な恐怖心に肌が粟立つ。
 わずかに軌道を曲げて、目指した空中の一点、胸を押さえて蹲る彼に体当たりをするようにかっさらう。耳元で彼が息を呑んだのを聴いたような気がした。直後にすさまじい光と爆発音が海面で弾けて、自分たちの名を呼ぶ声が上空から降ってくる。
 勢いのまま空中でくるくると回りながら、自分の身がほどけていく感覚をゆっくりと味わう。心臓が早鐘を打つ音が拍手喝采のようだ。生きている。まだ生きている。自分も、自分の腕の中で身を固くしている彼も。
 シャイロックが身じろいで、快哉の声をあげたムルの名を、怯えるような声音で呼んだ。彼の胸で燃えていた炎はすっかり消えてしまったようだ。少し惜しい。格好つけの美しい彼が背を丸め、傷の痛みに呻く姿は、数百年にわたる親交を経ても見慣れぬ新鮮さがあって、目にするたびに言い知れぬ高揚があった。
 ――昔のあなたなら助けたりしなかった。
 そう口にして、シャイロックは唇を震わせる。酷く青ざめた、いまにも泣き出しそうな顔だった。危機一髪で助かった者の表情としてはそうおかしなものではないけれど、彼の恐怖の対象は、すぐそこまで迫っていた自身の死ではないのだと、ムルも知っている。

 殺されてしまいたかったの。
 あのまま死んでしまうほうがよかった?

 問いを口にはしない。その答えも、知っているからだ。シャイロックとやり合うなら、もっと心躍る問答がいい。彼の頑固な一途さをからかっても、彼がぴしゃりと強気にやり返してくれるのでなければ楽しくはない。
 知っている。友の死の瞬間を目に焼き付けようと見つめる薄情な自分と、その自分が焦がれる月につけられた忌々しい傷を恨んで、なすすべなく砕けて散るのは、彼にとってひとつの、納得のいく結末なのだ。死を望むわけではない。満足もしないだろう。けれどシャイロックがシャイロックとして生き、ムルが彼の思うムルとして生きた旅路の果てならば仕方ない。その呆気なさもまた、ひとの生というもの。そんな風に考えるひとだ。
 ここにいる自分をムルと呼びながら、ずっとほかの誰かを見ている彼が、おそれ、目を背けたがっている未来に、ふたりで辿り着いてしまうくらいなら。ひと思いになにもかも失ってしまうほうが、シャイロックには楽なのだろう。
 それでいて、楽になりたがる自分を意識するたび、己を嗤い、嫌悪し、苛立ち――その波立つ感情を愉しんでもいる。
 あんなにも長く生きながら、繊細に傷つき、その傷を愛おしむ、不思議なひと。ややこしくて、興味深くて、心地よい、甘ったるくて、ひどく苦い、唯一無二の、シャイロック・ベネット。
 彼が石になる瞬間を観察するのもこの上なく面白いだろう。けれどもその対価が彼のいない日々では見合わない。生きて葛藤する彼を観察するほうが、きっと何倍も愉しい。
 だからきみを失う選択肢など、最初から持ったことはないのだと――そう伝えたら、彼はなんと言うだろう。嘘おっしゃいと顔をしかめる? あなたらしいと苦笑する? それとも今日のように震えるだろうか。
 くるくると空中で回りながら、楽しみなことのメモに新しく書き入れて、ムルは笑った。
 この都合のいい頭は、それだってまた、すぐに忘れてしまうのだろうけれど。

(きみは、星にならないで)
(俺を置いていったら、だめ)

 どこかで、野良猫がにゃあんと鳴いた。