恋でなければいいのに(オメガバース)

 コン、コン、コン。
 東堂はゆっくりと扉を叩いた。
 初めて触れる扉だった。周到に避けてきた。特にいまの東堂にとっては、なにをおいても遠ざかるべき場所だった、――こんな事態でなければ。
 箱根学園男子寮二階、廊下の突き当たりの角部屋、福富寿一の個室。その扉。
 昨夜、部屋のあるじが入室してから、ずっと開閉がないのだという。もう、二十時間ほどになる。
 夜間や早朝に動いてもいなかったとうけあったのは、隣室の新開隼人だった。
 オレも寝らんなくてさ、さらりと吐き出して、苦く笑う。
 インターハイからの帰宅だった。優勝しての凱旋に学園が沸くなか、迎えた新開をほとんど無視して個室に入った福富は、それから食事の誘いも一切無視し、閉じこもり続けているらしい。
 補欠兼サポートスタッフとしてインターハイメンバーに同行していた東堂は、今日は自室でゆっくりと過ごしていた。そして夕食を摂るために赴いた食堂で、新開につかまったというわけだ。
『オレ、推理小説とかよく読むんだ。それで、食堂来る前にさ』
 内開きの扉と端と壁とにまたがらせて、透明なテープを緩く貼りつけたのだ、と、新開は言った。悪戯っ子の表情をつくるのに失敗した顔だった。開閉が一度でもあればぺらりと剥がれて落ちるはずのそれは、いまだ東堂の眼前で、粘着面が拾った新開の指紋を見せている。
『帰ってきたとき、すげえ顔してたしさ……寿一が落車してリタイアとか、初めてだ。たぶん、すごいショックだったんじゃないか』
『……なぜそれを、俺に?』
『え?』
 きょとん、と、問われる理由がわからないとばかりに新開は首を傾げる。
『寿一のことで、オレが駄目なんだったら、尽八しかいないだろ?』
『――――』
 そこは荒北じゃないのか。東堂はそう言おうとしてやめた。藪蛇になる予感しかしない。
 わかった、声を掛けてみる。そう言うと新開は頷いて、じゃあオレしばらく靖友んとこ行ってるな、と、少しさみしそうに笑った。

   *   *

「フク」
 呼びかけに返答はなく、東堂はため息をつく。
「フク。……話を聞いた。ここを開けろ、フク」
 反応はやはりない。だが、気配が動くのが感じ取れた。福富はいる。おそらくは扉のすぐ内側で、東堂の声を聞いている。
 東堂にとって福富は、そんなものがわかってしまう相手なのだ、否応無しに。
 東堂は再度ため息をつくと、声を低くした。
「総北の巻島から連絡があったぞ。金城からおまえに、伝言を預かってきた」
 気配が動いた。ややあって、ガチャリと解錠の音が鳴る。握っていたノブをすかさず押すと、十センチほどの隙間から、俯いた福富の脱色した金色の頭が見えた。
「……東、堂」
「部屋に入れろ」
 きっぱりと命じて、東堂は福富の長身を見上げた。数十秒もためらってから、ようやく福富が身体をひく。できた空間に東堂は、まるで先行集団のわずかな隙間を見定めて抜き去るときのような滑らかさですべりこんだ。
 後ろ手に扉を閉め、鍵をかければ、そこはまた密室と化す。先ほどまでと違うのは、そこに東堂がいることだ。
 カーテンが引かれ、電気もつけていない室内は暗く、その中で福富の気配が、濃密にこごっていた。東堂は鼻の頭に皺を寄せる。
「……伝言、とは」
「悪いなフク。伝言はおまえに扉を開けさせるための方便だ」
「東堂!」
「すまんね。だが話を聞いたというのは事実だ。監督と、巻島からな」
 言いながら東堂は壁を叩いて、部屋の蛍光灯をつけた。
 しらじらとした安っぽい光の照らし出した福富は、ひどい有り様だった。着続けてよれた室内着、ボサボサの頭、うすくひろがる無精髭に、目元を縁取る色濃い隈。光に怯えたようにあとじさるその姿は、自信に満ち溢れたつねの福富のありようとはあまりに違う。
 荒北や新開が見れば心配して大騒ぎになるだろうその様子を、東堂はただ冷ややかな眼差しで見やる。
「――おまえが金城を故意に落車させた、と」
 ああ、と、福富が呻いた。

「金城の怪我は肋骨の骨折だそうだ。それでも二日目のゴールまで走り通したのだから、見上げた男だな。
 ――ああ、先に言っておくが、おまえがなにをしたか、うちでは俺しか知らんよ。どうやら俺は来年の幹部候補のようだし、巻島と個人的な繋がりもあるからな、変なふうに漏れるより知らせたほうがいいという判断らしい。迷惑な話だ。監督にも口止めをされたが、言われずとも口外などするものか。おまえが勝手にしたことで、先輩がたの栄光に泥を塗るなどごめんだ」
「巻島は――なんと、」
「それはおまえに話すことではないな。俺と巻島のあいだのことだ」
「そう、か、ああ、そうだな……その通りだ……、」
 チッ、と東堂はらしからぬ舌打ちをした。
「無様だな。福富寿一」
 底光りのする瞳が、福富を睨みすえる。
 福富はのろのろと顔を上げ、その視線を受け止めた。
「無様だ。この上なく」
 一切の手加減なく侮蔑にみちた言葉を、かたちの良い唇が吐き出す。
 福富は目をそらさなかった。言い訳もせず、その言葉を聴く。肯定するようにわずかに項垂れる様子に、東堂がまた舌打ちをした。
「まったく親切なことだよ俺も。おまえいま、喜んでいるだろう。ああようやく責めてもらえたと、安堵しているだろう。ふざけんなよ、くそ、なんで俺が、――こんな、男を」
 最後は独り言のように小さくこぼすと、くそ、とまた吐き捨てて東堂は片手で額を押さえた。男のものにしては長い髪が揺れて垂れ下がり、その顔を隠す。
 沈黙が落ちた。
 長くふるえる息を、東堂が吐き出す。
「……それほどに重かったか、フク。おまえの負う、それは。ひとりで勝つと決めるほど。負けるのが、どうしても、許せないほど」
 問いに、福富は顔をこわばらせた。
「なにを、言っても、言い訳にもなるまいが、――」
 とつとつと絞り出す言葉を、東堂がじっと聞いているのがわかった。
「…………重い。ずっと、とても、重かった」
 あからさまな言葉はなく、だが、ふたりのあいだではそれで伝わる。
 アルファとして生まれた、重さ。
 優越者であることを当然とされる、そうであることしか許されない、途方もない重さだ。
「そうか、……ああ。そうだろうな……」
 額を抑えたまま、東堂は頷いた。
 部員のそれぞれの第二の性がどの分類に属するのか、部内でつまびらかにされたことはない。だがおそらく、現在の箱根学園自転車競技部において、アルファ性は福富ひとり、オメガ性は東堂ひとりだ。たかだか数十人のグループにアルファとオメガが各々ひとりというのは、人口比で考えるならそれでも相当に多い。人によっては身近に接することなく一生を終えることもあるほどに、希少な存在なのだ。
 ふたりは正反対で、だが、異端者であるという一点において、誰よりもわかりあえる存在でもあるのかもしれなかった。
「かわいそうになぁ」
 ぽろり、と。
 東堂がこぼしたのは、両手一杯に抱え込んだ思いが溢れてとうとうこぼれ落ちたような、そんな言葉だった。
「おまえが、かわいそうだ、フク」
「東堂――」
 顔を上げた東堂が、苦しげにほほえんだ。
 すきとおるような東堂の瞳から、はらはらと涙がこぼれて、床に落ちていく。
 のろのろと東堂は手を上げて、ゆるく曲げた人差し指を福富の目尻に当てた。泣いているのは東堂なのに、まるで福富の涙を拭うように、まぶたのきわに指の関節を触れさせる。
 その指がひどく熱くて、福富は目を見張った。
 改めて見つめ直した東堂のまとう違和感に、福富はようやく気づく。不自然に上気した頬、いつもより早い呼吸。なによりも気配が違う。大輪の百合が咲いたような濃密で甘いそれ。
 ――ヒート。オメガの発情。
 息を呑む福富に、東堂はまた涙をこぼして笑う。
「すまんね、フク。おまえを抱きしめてやりたいのに、いまの俺にはそれができない。ここでこうしているだけで精一杯だ」
「東堂」
「おまえが好きだよ。友人の、おまえが、とても好きだ。おまえを慰めてやればいいのかな。おまえとセックスして、おまえに抱かれて。映画とかで、よくあるだろう、そういうの。俺のはそういうふうにできている身体で、俺たちはそういう巡り合わせなんだものな。――でも、いやなんだ。フク、おまえと、そうなるのは」
「ああ、……わかっている」
「ののしって、傷つけて、――そばにいるしかできないよ、フク、すまんね、フク」
「……充分だ」
 福富は目を伏せる。睫毛が、東堂の指をかすめた。
 いかなる精神力でそこに東堂が立っているのか、福富には推し量ることしかできない。
 気づいてしまえばもう、声も、吐息も、わずかな視線のゆらぎすらも、東堂のすべてが福富にとっては男を誘う雌の媚態だ。これほど肉体的精神的に疲弊していても――あるいは弱っているからこそ、アルファの本能が種を残せと命じるのか。友と思う意識が上書きされる。東堂の、福富の意思にかかわらず、ふたりの身体に流れる血か命じる。
 ――これはおまえの雌だ、貪れ。
 ――これはおまえの雄だ、咥えこめ。
 誇り高い東堂に、それはどれほどの屈辱だろう。
 震えを隠そうとする唇に食らいつきたかった。その肢体を押し倒し、衣服を剥ぎ取り、うつくしくととのった顔を涙と唾液に汚し、からだを暴いてふかく貫いて、快楽によがり狂わせ、誰のためにある肉体なのかを、思い知らせてやりたかった。
 東堂はどんな声で、啼くのだろう。
 暴力的な衝動に、福富は全身全霊で抗う。
 できないと言いながら、東堂はおそらく、半ば覚悟を持ってここに来たのだろう。ここで福富が東堂を蹂躙したとしても、現在の法において罪に問われることはない。むしろ責められるのは、発情期のオメガでありながら精神のバランスを欠いたアルファの男の前に立つという東堂の不用意さだろう。インターハイで福富が犯した罪よりもよほど軽微なあつかいだ。
 だがそうしてしまえば福富は、かけがけのない友を、永久に喪うことになる。
 やさしい男なのだ。
 東堂の言ったとおりだった。福富は責められたかった。罵られたかった。犯した罪は隠蔽され、謝ることすら許されない。チームの勝利に拍手を送り、落車の不運を慰める言葉と、鳴り物入りの男もこんなものかという嘲りの目に晒されて、叫び出してしまいたかった。土下座して額を地にこすりつけ、おうおうと声を上げて泣きたかった。
 そうすることで、許されたかった。
 叶わなかった願いのかわりに責めてくれた東堂を、喪いたくはない。肥大したいびつなプライドに無様に負けた自分だからこそ、ここでもう一度負けたくはなかった。
「おまえは、――弱いな、フク。皆と、なにも変わらない。ただの、十六歳の、子供だ」
「ああ――おまえの、言うとおりだ」
 まっすぐに、福富は東堂を見た。
 そうだ、弱い。弱いからこそ、強くならなければいけないのだ。
 東堂の指が離れてゆく。
 一瞬震えてから、それはぴんと伸びた見慣れたかたちをつくって、昨夜整えたままの寝台を示した。
「ベッドへ行け。眠れ。おまえに足りないのはそれだ。そのあとで食事だ」
「東堂」
「ここにいてやる。おまえが眠るまで、見ていてやろう」
「東堂。……すまない」
「違うぞフク。こういうときはな」
 首のひと振りで頬の涙を散らし、傲然と顎をあげ、その指を福富の心臓につきつけて、福富のよく知る顔をして東堂は笑う。
「『ありがとう』と言えばいいんだ!」
 福富も表情筋をどうにか動かして、笑みのようなものを浮かべた。
「そうだな。――ありがとう、東堂」
 うんと頷いた東堂の、まなざしの示すとおりに、福富はベッドに横たわった。枕に頭を乗せ、タオルケットを腹にかけると、いままでどうあってもつかまえられなかった睡魔が急激に襲ってくる。
「おやすみ、東堂……」
 呟いて、福富は目を閉じた。
 ふふと笑う声が、やわらかく鼓膜をくすぐる。
「ああ。……おやすみ、フク」
 それを最後に、福富の意識はやさしい闇に引きずり落とされた。

   *   *

 すうすうと寝息を立てる福富の、憔悴の濃い顔を、東堂は注意深く見つめる。
 深い眠りを確信して、大きく息をつき、――東堂はその場に崩れた。両腕できつく、震える自分の身体を抱きしめる。懸命に呼吸をしても、肺に取り込めるのは濃密な福富の気配ばかりで、むしろ身体の熱を上げていくだけだ。
 じくじくと身体の奥が疼く。抑制剤は服用しているが、東堂が処方を受けているものはロードに支障をきたさないために副作用の弱いもので、当然ながら効き目もそれほどきつくない。その差分をこれまでは精神力で補ってきたが、さすがにいまの福富とこの距離で対峙するのはきつい。いやだという口とは裏腹に、目の前の逞しい肉体に縋りついてしまいたいという衝動が全身を苛んで、立っているのがやっとだった。
 福富が意識を失ってようやく和らいだが、いまも耳鳴りと目眩がひどい。
 よくまあこんな状態で耐えたものだと、東堂は自分と、それから福富の精神力に感心した。つい先刻、東堂自身が散々に弱さをなじった男の、それでもそれは間違いのない強さだ。
 馬鹿なことをしたと思う。結局は今日のこれだって、福富に強くあれと押しつける行為だ。もし衝動に負けて身体を重ねることになったとしても、東堂はそれを咎める言葉を持たない。そうして福富はさらに深く己を責めただろう。
 それでも来てやりたかった。
 新開に頼まれたからなんて、言い訳だ。
 たったひとり孤独に運命に立ち向かい、己の限界を超えて強くあろうとして、とうとうぽきりと折れた男を、どうにかしてやりたかったのだ。
 静かに寝息を立てる福富を見やる。たった数日でひどく憔悴したその顔から、それでもいまは、深く刻まれていた眉間の皺が消えていた。
 ありがとうと言って眠った男の助けに、自分はなってやれただろうか。
「フク」
 ひそやかに、東堂はその名を呼ぶ。
 それだけで浅ましい身体が、男を求めてどくりと心臓を鳴らした。
 ――運命のつがい。
 生涯探さないと決めた相手が目の前の男だと、頭でなく、血のざわめきで知っている。
 そんなものはいらないと決めた、その気持ちにいまも変わりはない。
 けれど目の前にいるこの男を憎むことも、東堂にはもうできない。
「フク……」
 そんなふうに縮めて呼ぶほどに、一年をかけて親しんだ。まるで共犯者のように、アルファもオメガもなく、ただ友人の顔をして。
「おまえが、好きだよ」
 ああ、どうか、これが恋ではありませんように。
 東堂は祈る。
 神も仏もないと、かつて知った。それでも、なにかに祈らずにいられなかった。

 立ち上がる。
 一歩一歩を踏みしめて、東堂は扉の前に辿り着いた。トレードマークのカチューシャを一旦外し、ふるりと頭を一度振る。そうして様々なものを払い落とした。
 置いてゆく。すべて、ここに。
 きっと、二度とここに来ることもないだろう。
 ふたたびカチューシャをつけ、前髪を整えて、東堂はいつもの自信にみちた笑みを唇に貼りつけた。
「おやすみ、フク。良い夢が見られるといいな」
 部屋の明かりを消し、扉を細く開け、東堂は廊下へ滑り出る。
 パタリと静かな音を立てて扉は閉まった。

 暗い部屋の中、ベッドに横たわった福富が目を開け、閉まった扉を長いこと見つめていたことを、そのときの東堂は知る由もなかった。

 

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