その日、イワンは広い合同トレーニングルームをひとりで使っていた。
ヒーローたちは基本的に真面目だから、暇を見つけてはまめにトレーニングルームに通う。真面目でない筆頭の虎徹も、デスクワークからの逃亡や仲間たちのおしゃべりを目的に、よくだらだらと時間を潰している。
この日はたまたま、他のメンバーに仕事やプライベートの用事が重なったらしかった。他に誰もいないトレーニングルームに、ランニングマシンの稼働音と、規則正しいイワンの呼吸だけが響く。
いつもの賑やかさがないのは少し寂しくもあるが、イワンはもともと、ひとりで過ごすのがまったく苦にならないタイプだ。ヒーロー仲間たちとは今ではだいぶ打ち解けてきていて、それなりに輪に入れるようにはなり、ふざけて笑うことすらできるようにはなっているけれど、久しぶりに一人で黙々と身体を動かすのも、なかなか気分のいいものだった。
淡々とトレーニングメニューを消化し、気づいたらずいぶん時間が過ぎている。ちょっと休憩しよう、と、ドリンクを買ってベンチに腰を下ろしたところで、シュンと音を立てて自動扉が開いた。
現れたのはバーナビーだった。そちらを見やり、こんにちは、と声をかければ、こんにちは折紙先輩、と返ってきた。その声に、イワンはあれっと思う。いつもの、よく制御された整った声音ではなく、どこか投げ出すような言い方だった。ほんの少しの、おそらく気付かない人がほとんどであろう程度の違いだが、常日頃から人間観察を習慣とするイワンには明確な差として聞こえる。
ボトルの中身を口に含みながら、まっすぐ伸びた背中が遠ざかるのを見送る。ロッカールームに消えたバーナビーは、しばらくしてトレーニングウェアに着替えて戻ってくると、丁寧なストレッチを始めた。そのやりかたは、イワンがヒーローアカデミーで習ったものと全く同じで、少し懐かしい気分になる。
「今日は先輩だけですか?」
「そうみたいです。みなさんお仕事らしくて」
「へえ……」
ストレッチをしながら、バーナビーが声をかけてくる。それにぽつぽつと答えているうちにドリンクが空になったので、手首のスナップを使ってごみ箱にボトルを投げ入れた。少々行儀が悪いが、これも投擲の練習だ。
頭の中でトレーニングメニューを反芻しながら、次に使うマシンに向かう。ストレッチを終えたバーナビーも別のマシンに足を向けた。
しばらく互いに無言でトレーニングに励む時間が過ぎた。虎徹やパオリンあたりがいれば、とっくになにやら喋り出している頃合いだが、今日のメンバーはどちらも沈黙を苦にしない。互いに干渉することもないので、いつもにもましてルーティンは順調に進んだ。さて次は、と立ちあがったところで、バーナビーがベンチへ向かうのが目に入ってイワンは首を傾げた。日々の観察の結果、自然とイワンの頭に入っているバーナビーの通常のトレーニングメニューからすると、休憩にはずいぶん早いはずだ。
挨拶の声といい、今日のバーナビーは少しおかしい。
ベンチに腰を下ろしたバーナビーは、ぼうっと中空を眺めている。
その姿は、どこか痛々しく見えた。
イワンは少し考えると、ベンチに足を向けた。バーナビーから三人分ほどの距離をとって座ると、バーナビーが不思議そうな視線を向けてくる。
「先輩?」
「バーナビーさん。犬と猫、どっちがお好きですか?」
「え?」
唐突な質問にバーナビーが目を丸くした。
「犬と猫です。どっち?」
「ええと……猫、でしょうか」
困惑しながらもちゃんと答えるのが、バーナビーの律儀なところだ。猫ですね、と頷いて、イワンは脳内データを検索する。うん、とまた頷き、精神を統一した。イワンの身体がぴかりと青く光る。
「ニャア」
一瞬前までイワンが座っていた場所に、青みを帯びたグレイの体毛の猫が現れた。
「先輩?」
尻尾をゆらゆらと揺らしながら、イワンの擬態した猫はベンチの上を優美な足取りで歩いて、バーナビーに身を寄せる。にゃあん、とまた鳴いて、バーナビーのしっかり筋肉のついた太腿に背中をこすりつけるように丸くなった。
「あの……先輩?」
戸惑うように呼ばれ、猫のイワンは顔を上げた。まるい瞳で、じっとバーナビーを見つめる。
ニャア。
誘うように鳴けば、しばらくの沈黙のあと、バーナビーがおずおずと指先を向けてきた。
こわごわとした手つきで頭頂部を撫でられて、猫のイワンは目を細めた。ゴロゴロと喉が鳴る。
そうしているうちに、バーナビーの手から緊張が取れてきた。背中から腰にかけてのつやつやした毛並みを撫で、ぴくぴく動く耳にそっと触れ、顎をくすぐってくる。
ふふ、と、柔らかな声が、バーナビーの唇からこぼれた。
「アニマルセラピーですか? 先輩」
「ニャア」
「僕、10ヵ国語くらい喋れますけど、猫語はわからないですよ」
「ニャーオ」
「だから、わからないですってば……。
あの、ええと、もし良かったら……膝に、のせても?」
「ニャ」
短く鳴いた猫のイワンは、身軽くバーナビーの腿のうえに跳び乗る。検分するようにくるくると2回まわってから、頭をバーナビーの腹に押し当てるようにしてまた丸まった。
「あったかいな……」
呟いたバーナビーが、指先でふわふわと猫のイワンの頬をくすぐった。
そのまましばらくの時が流れた。バーナビーは膝の上の猫をそっと撫で続け、その猫であるところのイワンは、尻尾をゆらめかせながら、ときどきゴロゴロと喉を鳴らした。
バーナビーのまとっている空気が、少しずつ、少しずつ、穏やかなものになってゆく。
「……別に、なにかあったわけじゃないんです」
ぽつりとバーナビーが呟いた。
「疲れてる、という気もしないですし。ただなんだろう……なんだか、ちょっと、しんどくて。
僕にもよくわからないし、普通にしてるつもりだったんですけど……なんで先輩にはわかっちゃうのかな」
その言葉遣いは、普段よりずいぶん幼い。
イワンは年上の後輩を見上げて、その指先をざらつく猫の舌で、ぺろと舐めた。
「くすぐったいです、先輩」
仕返しのように顎の先をこちょこちょとくすぐられて、目を細める。
もっと、というようにバーナビーの手に顔をこすりつければ、だいぶコツをつかんできた指遣いでかまわれた。
「きもちよさそう」
いいな、と続いた声はほとんど吐息にしかなっていなかったけれど、猫の聴覚はそれを取りこぼさない。
身を起してバーナビーの膝からぴょんと飛びおり、擬態を解いた。
突然離れてしまった猫を名残惜しげに見送っていたバーナビーが、きょとんとした顔をする。
その隣、肩が触れる距離にすとんと座って、かたちの良い小さな頭を引き寄せた。
「交代してあげます」
「……僕、擬態できませんけど」
「バーナビーさんはうさぎさんだから、いいの」
よしよし、と撫でてやれば、観念したような溜息がひとつ落ちて、肩にやわらかい重みが加わった。
「先輩」
「はい、バーナビーさん」
「先輩」
「なんですか、バーナビーさん」
「なんでもないです……」
会話にもならないやりとりをしながら、綺麗に整えた髪型が崩れないように、指先で丁寧に髪を梳いてやる。
さっきの猫のイワンとよく似た表情で、心地よさげにバーナビーが目を細めた。
にゃあ、と恥ずかしげにちいさく呟かれて、イワンはくすくす笑う。
「うさぎじゃないんですか?」
「なんて鳴くのか知らないです……」
「そういえば、僕も知らないや」
「でしょう?」
だから、にゃあ。
甘えた声音でそう言って、バーナビーはイワンの肩に頬をすりよせた。
その姿はまったく、バニーちゃん、と呼んでやるのにふさわしい、かわいらしいものだったけれど、その呼び方はたったひとりにだけ許されたものだから。
バーナビーさん、とイワンはいつものように呼んで、こめかみにそっとキスを送る。
寝ちゃっていいですよ、と囁いてやれば、んん、と声を漏らしてバーナビーは目を閉じた。
