ほんとうは、あなたに恋なんて、したくなかった。
特大のため息とともに吐き出した台詞が、オレの一世一代の告白に対する、一織の返事だった。
それってつまり、一織はオレに恋してるってことだ。
相変わらず、わかりにくいなぁ。
オレが思わず笑い出したから、一織はむくれてそっぽを向いてしまった。どうにか笑いの発作をおさめて、オレは一織の両頬を手で包み、息のかかる距離で目を合わせた。
神秘的な薄灰色の瞳は、うっすらと水の膜が張って、オレの赤を映している。
「ごめんごめん、拗ねないでよ!」
「拗ねていません。呆れています。ほんとうに、こんなひどい男に、」
「すっかり惚れちゃってる一織に?」
「……その自信、どこから来るんです?」
またひとつ、ため息をついて、それでも一織はオレの手を外させようとはしなかった。
顔を寄せると、長い睫毛はそっと伏せられる。
オレも目を閉じて、最後はどちらからともなく距離を詰め、触れるだけのキスをした。手入れの行き届いた一織の唇は、しっとりとやわらかくて、あたたかく、ほのかに甘い香りがした。一織の愛用しているリップバームの香りだ。
一織がいつも作ってくれるホットミルクの香りにも、少し似ている。
あいにく、キスをするのは初めてじゃなかった。恋愛ドラマの主役経験は、オレも一織も片手の指では足りない。いやらしい深いキスだって、何度も演じた。
互いの唇の表面を触れさせているだけの幼い口づけは、けれど、相手が一織だというだけで、たとえようもない幸福感を胸に沸き上がらせる。
深呼吸3つぶんの時間、キスをして、ゆっくりと体を起こした。
目を開けても世界はそのまま、なにひとつ変わらない。天地がひっくり返ったりしないし、色が真逆になったりもしない。異世界に飛ばされることもなく、ここはオレの家、インテリアもそのまま、時計の針だってたいして動いてやしない。
それでもオレがいるのはもう、1分前とはまるきり違う世界だ。
新しい世界で、ふたたび視界に映した一織の瞳は、もう潤んではいなかった。
無表情に近いけれど、下まぶたが少しだけ持ち上がっている。
ずっと近くにいたから知ってる。ポーカーフェイスが得意な一織が、こっそりと幸せを噛み締めているときの顔だ。
オレとのキスの直後に、その表情するんだね、一織。
「……キスしちゃったね」
「そうですね」
「覚悟、決まった?」
「……そうですね」
同じ言葉を異なる声音で二度繰り返し、一織はほろ苦い笑みを浮かべる。
「決めざるを得ませんね……。あなたに嫌われることを怖がる覚悟を」
「まわりくどいなぁ」
オレも苦笑する。
「そこはオレを愛する覚悟とか言ってよ!」
ねだったら鼻で笑われた。ええ、なんで?
「そんなもの、とっくの昔に決めていますけど」
「わあ」
とびきりの決め顔で言わないで欲しい。急にファンサされたら、照れちゃうじゃん。
ふふ、とすっかり余裕を取り戻した一織が笑って、チュッと音の出るキスをオレの唇に落とした。
「言い換えます。――あなたに愛される覚悟を決めます」
ちくしょう、かっこいいな……!
ムカつくきれいな顔をひっつかまえて、今度はオレから、ぶっちゅうううと唇を押しつけてやった。ついでにちょっと舐めた。犬ですか、一織がクスクス笑う。
「そこは狼だろ! おまえを食べちゃうぞ、ガオガオ」
「狼は私の役ですよ」
オレの数倍本物っぽい唸り声を喉で響かせて、今度は一織がオレの唇にかみつく。『狼少年と少年探偵』は好評のままシリーズを重ねて、来年映画になる予定だ。そろそろ少年ってキツいなあとぼやいたら、三月と百さんに怒られたっけ。
笑いながら、オレたちは何度も、じゃれ合うようにキスを繰り返した。これまでに仕事で、演技で重ねてきたキスの経験を、ぜんぶ上書きしていくみたいに。
仕事に不誠実でいたつもりはない。だけど演技のキスがうまくなるごとに、一織を思った。一織のラブシーンを見るたびに、その唇の味を想像した。ようやく知ることのできた、想像じゃない、本物の一織の唇は――味なんてまだ意識していられない。触れている、触れられている、そう実感するほどに、身体の熱が勝手に上がっていく。
片腕を頭のうしろに、もう片腕を互いの胴に絡めて、どきどきと鳴りっぱなしの胸をぴったりくっつけて、キスはどんどん深くなる。一織の指がオレの髪を愛おしげに梳いた。触れられる頭皮から、じんと痺れるような、鳥肌の立つような感覚が背筋をとおり腰骨までまっすぐ伝わって、身体が勝手に震える。はあ、と熱い息を吐きながら、オレは一織のサイドの髪をよけて、かたちのいい耳の輪郭を辿った。耳の弱い一織は小さな悲鳴をあげて、オレの腕の中で身をよじる。
腕の中だ。逃げたりしない、睨まれもしない、オレの腕の中の一織。
うれしくて、うれしくて、オレは一織の腰に回した腕にぎゅっと力を込める。
「っは、一織、……かわいい」
「……っ、うるさい、」
一織のポーカーフェイスはすっかり崩れて、耳どころか首筋まで、茹で蛸みたいに真っ赤だ。一度引っ込んでいた涙がまた目のふちに滲んで、髪がひとすじ頬に貼りつき、濡れて赤く色づいた唇はゆるく開いて、とんでもなく色っぽい。
こめかみあたりからドクドクと自分の鼓動が聞こえて、身体の奥がぶわっと熱くなり、オレはまた身を震わせた。一織はそんなオレをうっとりと見つめ、頬を真っ赤に染めたまま、ななせさん、と甘ったるい声で呼ぶ。
「ななせさん、かわいい……」
心臓がぎゅんっと変な音を立てた。
一織の大好きな可愛いもの、たとえばろっぷちゃんとか、マネージャーとか、三月とかにそっと送られる、幸せそうで愛おしげな一織のまなざし。オレのことも可愛いと思っているらしいとは知っていたけど、意地っぱりの一織がオレに真正面からこの目を向けたことはない。正真正銘、初めてだ。
その顔ときたら――めちゃめちゃ可愛い。死にそうに可愛い。やばい。
息が止まりそうになって、オレは必死で呼吸を整えた。ときめきすぎて発作を起こすなんて、さすがに恥ずかしすぎる。
ななせさん、ななせさん、とどこか舌足らずに呼びながら、一織がオレの顔中にキスの雨を降らせる。オレの息が乱れているのを心配してだろうか、唇は避けられて、頬や額、こめかみ、まぶた、鼻の頭にも。
「好きです、……すき、七瀬さん、……あなたが好き……」
満杯のコップから溢れ出る水みたいに、一織の唇から言葉がこぼれてオレに降り注ぐ。受け止めるオレの胸で、どんどんなにかの種が芽吹いて、みるみる育って、いっぱいに花を咲かせた。苦しいほどオレの胸の中にひしめくその花を、きっと愛って呼ぶんだろう。
全部、言いたい。
オレの中の、きれいなものも醜いものも、まるごと一織に渡してしまいたい。
衝動に突き動かされたオレは大きく息を吸い、万感の想いを込めて、一織の手を取った。
「好きだよ、一織。行き先が天国でも地獄でも、オレと一緒にいて。……たとえIDOLiSH7が終わってしまっても、オレを離さないで」
ひゅう、と一織が息を呑む音が、ひどく鮮明に聞こえた。
こうべを垂れて神に許しを請うような、忠実なしもべを縛り命じるような、矛盾したふたつの感情がオレの中でふくれ上がり、視界を赤く染める。
一織。ねえ、一織。
オレを離さないで。オレを好きでいてよ。
――オレがうたえなくなっても。
その願いだけはまだ、どうしても、口にできずにいる。
「……七瀬さん」
一織がオレの名を呼びながら、オレの手をぎゅっと握った。
「七瀬さん、七瀬さん……」
ぽたりと手の甲にひとつぶ、水滴が落ちる。
「あなたを、」
罪におののくように震えながら、かぼそい声を懸命に喉から押し出して、一織がオレにくれた言葉を、冷えた指先の温度を、オレは生涯忘れないだろう。
「あなたを、――七瀬陸を、看取るのは、私がいい。私でなくては、いやです」
「…………っ!!」
声もなく抱きついて、一織からも縋るように抱きつかれて、ぶつけるように唇を合わせた。オレの頬も、一織の頬も濡れていた。
きっと一生胸にしまっておくつもりだったろう一織の願望を、引きずり出して言葉にさせたのはオレだ。ひどいよね、オレ。ごめん、ごめんな、一織、ありがとう、いますぐ大声で歌い出したいくらい嬉しい!
オレの最期――オレの歌の最期か、あるいはオレの肉体の最期か、そのどちらもか。わからないけれど、いつか来る終わりの日に、一織が傍にいてくれる。俺の死を見届けてくれる。
オレをスターにすると誓ってくれた一織の、それは例えようもなく残酷で甘美な愛の言葉だ。
「あいしてる、だいすき、一織、一織」
「……っ、七瀬さん、……」
どれだけキスをしても足りない。
どれだけ言葉を重ねても足りない。
「私も……、愛しています、……陸さん」
「いおりぃっ……!」
二人して暗い水の底に溺れていくみたいだった。あるいは、はるか宇宙の彼方かもしれない。二人きりだった。そのときだけは、ほかになにもいらなかった。オレたちがめざす夢さえも。
呼吸を、命を、奪いあうように与えあうように、深く深く抱き合ったその夜から、オレと一織の手はずっと、固く結ばれたままでいる。