大好きなあなた

 ミーティングルームの扉を開いた一織は、どこか途方に暮れたような表情をしていた。
 折り入って相談がある、という連絡があったのが二日前だ。お互いにぎっちりと詰まったスケジュールをどうにか折り合わせた土曜の早朝、さわやかな秋晴れにそぐわない空気を纏った青年に、紡は明るく笑いかける。
「おはようございます、一織さん! お疲れのところ朝早くにご足労くださって、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。あなたも忙しいのに無理を言ってすみません」
 一織は軽い会釈をしながら変装用の小物を外し、定位置に腰を下ろす。紡も手帳を手に取りながら、ローテーブルを挟んだ向かいに腰掛けた。
 一拍おいて、あれ、と首を傾げる。いつもなら、紡がやや顎をあげて前を見れば、一織と視線がぶつかる。真面目な会話をするときは、まっすぐに相手の目を見る人だ。それが今日は、膝に乗せた手に視線を落として俯いたままでいる。目に入るのは長い睫毛や通った鼻筋、羨ましいほどさらさらの黒髪ばかりだ。
 さらにあることに気づいて、紡は傾げる首の角度を深くした。一織が手ぶらなのだ。正確には、いつも持ち歩いているバッグは傍らに置かれているが、一織の手にはなんの資料も持たれていない。一織から要請があってのミーティングでは、これまで一度もなかったことだ。
「一織さん……?」
 呼びかけると、一織はぴくりと肩を揺らした。ゆるゆると、窺うような上目遣いの視線を向けてくる。
(か、かわいい……!!)
 内心に湧き上がった感情を紡は必死で押し殺して、真面目な顔を取り繕う。ここで変な反応をしようものなら、一織は拗ねてそっぽを向いてしまうだろう。同じようなシチュエーションで一織が陸にたびたび向ける顔だってたいがいのものだが、一織のほうが陸よりも自身に向かう視線に敏感だ。
「あの、……あなたにこんな相談をするのは間違っていると思うのですが……、いえ、あなたにこそまず相談をすべき内容なのかもしれませんが……」
 視線をあちこちにさまよわせながら、歯切れ悪く一織が切り出す。紡は背筋をピンと伸ばして、一織ににっこりと笑いかけた。
「一織さん、私はどんなことでも気軽に相談して下さったら嬉しいですよ! もし、マネージャーの小鳥遊紡に話すようなことではないと迷っていらっしゃるようでしたら、一織さんの友人の紡にお話しくださいませんか」
「友人……」
「はい! 一織さんもそう思って下さっていたら嬉しいなあっていう、私の勝手な希望なんですけど」
「いえ」
 一織が眉尻をわずかに下げて、ふわりと笑みを浮かべる。一織の容姿の鋭さが和らいで優しい印象になる、紡の好きな笑顔だ。
「かけがえのない友人だと思っています。……ではお言葉に甘えて、私達のマネージャーであり、私の友人でもあるあなたに相談をさせて下さい」
 そう言って居住まいを正すと、そこにいるのはもう、いつも通りの和泉一織だった。なじみ深い高さで視線を合わせて、端的に問いかける。
「アイドルの恋愛について、あなたはどうお考えですか」
「恋愛……」
 ぱちぱちとまばたきをして、紡は受け取った言葉を口の中で転がした。予想もしなかった言葉だが、いつか誰かに問われるかもしれないと考えてもいた言葉だ。それを最初に問うてくるのが一織だったのが、紡にとっては最大の驚きだけれど。
「ええと、まず――以前にもお伝えしたと思いますが、事務所としては、皆さんのプライベートの交友にはなるべく口を出さない方針です。ただ、IDOLiSH7は爽やかで前向き、誠実な雰囲気をアピールしているグループですので、世間の人々の目に不誠実に映る行動はなるべく控えていただければとも思っています。一口に不誠実と言っても、定義が難しいですけれど……」
「おおむね理解しています。不倫、浮気、短期間での破局や、複数の相手との交際、合意なき性的行為、未成年や社会的に望ましくない相手との交際……といったところですよね」
「はい」
 よどみない羅列に頷き、紡は意識して励ますような笑みを浮かべる。
「私個人としては、恋愛ってとてもすてきなものだと思います。一織さんが――一織さんに限らず、IDOLiSH7の皆さんが選んだお相手なら、心から応援したいなって思います」
「あなたらしいな」
 紡につられたように軽く微笑んだ一織が、斜め下に視線を落とした。迷いやわだかまりを心に抱えたときの一織の仕草だ。紡は黙ったまま、もう一度視線が合うのを待つ。
 いまだ迷いがあるとしても、相談をさせて、と言った言葉を、一織は覆さないからだ。
 思った通り、理知的な灰色の瞳がふたたび紡を映すまで、そう長くはかからなかった。
「では……世間に受け入れられがたい恋愛については、どう思いますか」
「受け入れられがたい恋愛……。さきほど仰ったようなものではなく、ですよね」
「ええ」
「……ごめんなさい、具体的にどんなものか想像が及びません。たとえば?」
「たとえば……。たとえば、いえ、例えではないんですが……つまり……」
 唇を湿らせるように一度引き結び、一織は低く掠れた声を押し出した。
「――同性を対象とした恋愛について、です」
「どうせい、」
 数分前よりいっそう激しく瞬きをして、紡は「あ!」と声をあげた。浮かんだ答えが、意識するより早く口から飛び出す。
「陸さんですか!?」
「は!? どうしてそうなるんですか!?」
「ええっ、違うんですか!?」
「……違いませんけど!」
 わあ、と紡は両手で口元を覆う。紡の向かいでは、クールでシャープが売りの青年が首まで真っ赤に染めて頭を抱えていた。
 その様子を見ている紡の頬にも、ポワポワと熱が点っていく。口元はすっかり緩んで、引き締めようにもとても無理だ。
「わあ、すてき、お似合いです!」
「やかましいですよ! そんな即答で肯定しないで! というか、まだお付き合いしてませんから……!」
「ええっ!?」
 今朝は一体何度一織に驚かされるのだろう。頬に手を当てたまま声を上げた紡を、真っ赤な顔のまま一織が見上げた。
 眉尻がへにゃりと下がり、目は潤み、頬も鼻の頭もさくらんぼよりも紅い。どんな雑誌にも載せられない情けない顔が、たまらなく愛おしい。
「お付き合いなさってなくても、両想いではいらっしゃるんでしょう?」
「……どうしてあなた、そんなに自信満々なんですか」
「だって、一織さんお一人のことなら、相談してくださらなかったでしょうから」
 ほんの少しばかりの恨み節を込めて伝えれば、一織は軽く目を瞠ってから、ふっと困ったように吐息で笑う。
「……そうですね。私一人のことなら、あなたにこんな恥ずかしい相談をしなくても良かった。……でも、七瀬さんが……」
 片手の甲で口元を隠すお決まりのポーズで、台詞の最後はもごもごと一織の口の中に消える。
 立場や体面を理由にすることを許さず、一織の本心からの答えを求める赤毛の青年の姿が、紡の脳裏に浮かんだ。
 きっと陸はあのまっすぐさで、一織に想いを伝えたのだろう。
 デビューした十代の頃から、陸と一織の間には二人だけの特別な絆がある。一織が当事者でありながらマネージメントにも深くかかわり、献身的に支えるIDOLiSH7の、絶対的な歌唱力を誇るセンターが陸――という、それだけでは説明しきれない二人の様子を、まるで付き合いはじめの初々しいカップルのようだと感じたこともあった。
(実際には初々しいどころか、お付き合いも始まっていなかったわけだけれど……)
 目の前でひたすらに照れている人を見ながら、胸に広がるあたたかな気持ちのままに紡は微笑む。
 この、自信家のようでいてひどく繊細で、自分を後回しにしてばかりいる不器用な人が、一人で恋を諦めず、紡を頼ってくれたことがたとえようもなく嬉しい。
 一織と陸のそれとは違うけれど、一織と紡の間にも、二人で築いてきた特別な絆がある。そう思っているのは、きっと紡だけではないはずだ。
 胸に手を当てて、紡は大きく深呼吸をした。
「一織さん」
「はい」
 きりりと真面目な表情を作って呼びかけると、その声音だけで伝わったのだろう、一織がしゃんと背筋を伸ばしてこちらを向いた。
 頬はまだ紅潮したままでも、紡の視線を受け止める青みがかった瞳は、覚悟を決めた人のものだ。
「デリケートなお話を相談してくださってありがとうございます。一織さんも陸さんもとても誠実な方ですし、お二人の交際については私個人としても事務所としても、反対する気持ちも、反対する理由も、ひとつもありません」
「……はい」
「幸い……と言うとおかしいですけど、お二人とも元から仲良しでいらっしゃいますし、プライベートをご一緒に過ごされていても不自然はありません。よその事務所のタレントさんとお付き合いをなさるより、お二人をお守りしやすいと思います。変な言い方ですが、お付き合いの相手としては、事務所としてはむしろありがたい面もあります」
 仲良し、という単語に複雑そうに顔をしかめていた一織が、あ、と声を上げ、先刻の紡のようにまばたきをした。
「そう言われれば、そうかもしれません。……考えてもみませんでした」
「お二人がプライベートで仲良くなさっていても『熱愛スクープ!』」なんて報道はそうそう出ないでしょう? 喧嘩なさったら、不仲説記事が出ちゃうかもしれませんけど」
「やめてください、あれは反省しています」
「うふふ」
 紡が当てこすったのは一年ほど前の、二人がスタジオで派手な衝突をし、そのことを針小棒大な記事にされた件だ。Re:valeほどではないが、仲良しグループと認知されているIDOLiSH7メンバーの不仲説はもはや雑誌の埋め草のような扱いで、さほどのダメージはないものの、毎回本気で心配するファンがいるので、出ないに越したことはない。
「とは言っても、先ほど一織さんが仰ったように、お二人とも男性であることを『受け入れがたい』と感じる人がまだ少なくないことも、残念ながら事実です。ですので、心苦しいですが、交際の事実はなるべく内密にしていただければ、と思います」
「承知しています」
「もちろん、信頼できる相手……メンバーの皆さんや、お身内の方には打ち明けてくださって構いません。むしろ、お二人をお守りするためにも、そうしてくださるほうが得策だと思います。無理にとは言いませんが」
「……そうですね……、考えておきます」
「お願いします。――一織さん、いまはこのくらいのことしかお伝えできなくて申し訳ないですが、お二人が希望なさるようでしたら、いずれお二人の関係を公表して、ファンの皆さんにも祝福してもらえたら、それが一番誠実で、すてきなことだと思います。制度などは今後変わっていくものもあると思いますし、私のほうでもアンテナを張っておきますね」
「……あなたも気が早い人だな。まだお付き合いもしていないと言ったでしょう。もしかしたら早々に破局するかもしれないんですから」
「一織さんなら当然考えていらっしゃる範囲だと思いましたけど。それに私、お二人ならきっとうまく行くと思います。これまでもたくさん喧嘩されて、そのたびに仲直りなさってきたじゃないですか」
 自信たっぷりに伝えると、一織は大きくため息をつき、ゆるく首を横に振った。
「あなたにはかなわないな……。マネージャー、……紡さん」
「はい」
「ありがとうございます。あなたが私達のマネージャーで良かった」
 すっと真摯な顔をした一織が、深々と頭を下げる。数秒そのまま紡につむじを見せていた彼は、ゆっくりと顔を上げた一瞬後、ぎょっとした表情になった。
「ちょっと! なぜあなたが泣くんですか!」
「……だって、」
 紡はぐすぐすと鼻を啜りながら、濡れた頬をぬぐう。ポケットをごそごそと探っていると、ああもう! と焦った声とともにきれいにプレスされたハンカチを握らされた。
「ありがとうございますぅ……」
「ハンカチくらいすぐ出せるところに……いえ、そうではなくて。どうしてあなたが泣くんです。……私がなにか、あなたを傷つけることを言ってしまいましたか」
「違うんです! 私、私、嬉しくて」
 目元に当てたハンカチをぎゅっと握って、紡は懸命に声を押し出す。ひとつも傷ついてなんていないことを一刻も早く伝えなければと必死だった。
 だって、ただただ嬉しくて、幸せなだけだ。
「一織さん、昔仰ってたじゃないですか、ご自分はアイドルの仕事をしている限りは、恋人を作ることはないだろうって……、私、一織さんのプロ意識はすごく尊敬してますけど、でもちょっとさみしくて、もしどなたかお好きな方ができても仕事のために気持ちを押し殺してしまうんじゃないかって……、アイドルとしてたくさんの幸せをくださる一織さんが、ご自身の幸せを諦めてしまうのは悲しいなって、ずっと思ってたんです。だから、だから、私の大好きな一織さんが、一織さんの恋を諦めないでくださって、そのお相手が大好きな陸さんで、そのことを一番最初に話してくださって、私、わたし、世界一果報者ですぅ~~~~!」
 べそべそと泣きながら訴える紡に、困ったような声音の一織がひとつひとつ相槌をくれた。途中からは隣に腰掛けて、遠慮がちに背をさすってくれている。その手の大きさとあたたかさが嬉しくて、涙はなかなか止まらなかった。
(私のIDOLiSH7、私の大好きなひとたち)
 一織に伝えた言葉はすべて紡の本心だ。けれどおそらく、現実は甘いばかりではないのだろう。彼らがこれから傷つくこともあるのかもしれない。手を取り合ったことを悔やむ日も、もしかしたら来るかもしれない。
 それでも、祈らずにいられない。
 ――どうか、幸せに。
 二人の恋も、二人の、みんなの、紡の大切なIDOLiSH7も、ずっとずっと幸せなままでいられますように――

 ……この五分後、一織とまったく同じ要件を相談しに来た陸に、泣き崩れる紡とそれを慰める一織という状況を目撃され、交際前から修羅場突入という事態が起きることを、二人はまだ知らない。
 そんなハプニングもすら楽しい笑い話にできる、優しくて幸せな未来のことも、
 まだ、なにも。