CITY Night Temperature

「一織はさ、オレに油断してほしい? それとも油断しないでほしい?」
 夕食後のひととき、他愛ない日常に投げ込まれる七瀬さんの言葉は、いつだって唐突だ。
「……油断など、している暇はありませんよ。私たちは現在上り調子ですが、好調なときこそ足元を――」
「いまそんな話してなかっただろ」
 むうと唇を尖らせる様子は可愛らしいのに、紅玉の瞳の光が強すぎて、私はとっさに言葉を失ってしまった。下手な反応だとわかっているのに、この人の前ではいつも、巧く振る舞えない。
 だけど、どう答えろというのだろう。
 どうかずっと油断していてほしい。私がこの気持ちに折り合いをつけて、甘酸っぱい思い出としてアルバムにしまい込むまで、あなたの隣のこの距離を許されていたい??だなんて。
 告白同然の、そんな本音、口に出せるわけがないじゃないか。
「オレはねぇ」
 人に質問したくせに答えを待ちもせず(待たれても困ってしまうのだけれど)七瀬さんはわざわざ腰を上げて、私との距離を詰める。服の布地同士が接触するほどの近さに”指先接近”のフレーズが脳裏を掠めたけれど、指先どころでなく、これはもう全身接近だ。エアコンに適度に冷やされた室内で、彼の生命の証である体温が、真夏の太陽代わりに私をチリチリと焦がす。
 スキンシップが好きな人だから、彼の体温なんて、もうとっくに知っているというのに。
「油断してる一織もかわいいけど、」
 抱えた膝に頬をつけて、七瀬さんが私を見る。少し上目遣いの、あざといとすら言える表情で、笑う。
 少し前までは、こういう角度で撮影した七瀬さんの写真といったら、年齢よりも幼い、かわいらしさやあどけなさが際立つものばかりだった。けれどいつからか、彼の写真の雰囲気は変わった。少年らしさの中に見え隠れする、ほのかな色気と、凛々しさ。かつては無縁だった種類のランキングに名が挙がるようになったのも、そういった変化がファンの目にも明らかだからだろう。
 私がかつて確信した通りに、世の中を虜にしはじめたアイドルは、二人きりの部屋で、私だけを見て、目を細める。
「油断できなくなっちゃうくらい、オレのこと気にしてくれる一織もいいなあ」
 幾万のファンの前で、きらめく流れ星を降らせてくれれば、私はそれでよかったのに。
 こんなちっぽけなステージに、隕石なんて降らせないで。
 打ちのめされて、立ち上がれなくなってしまう。
「……言われなくても、気にしていますよ、いつでも」
「世界一?」
「ええ」
「オレをスーパースターにするために?」
「……ええ」
「それだけ? 一織」
「…………」
 何も言えなくなって、私は七瀬さんの視線を避けるように、唇を噛んで俯いた。それだけですときっぱり言ってしまえばいいことなのに、嘘をついて切り抜けることは頭からすっぽり抜け落ちていた。
 どちらも声を発さない時間が、しばらく続いた。新曲の歌詞のように波打ち際にいたならば、寄せて返す波の音が優しく飾ってくれるだろう静けさも、締切った部屋の中ではただ痛いばかりだ。
 ふ、と、笑い声とため息の中間のような音が、七瀬さんの唇から零れる。それから、
「わひゃあ!?」
 いきなり耳をつつかれて、私は素っ頓狂な声を上げた。耳を押さえて飛びすさった私に、七瀬さんはあははと楽しげに笑う。
「一織、油断してないときもけっこう油断してるよね」
「意味がわからないんですけど!?」
「一織頭良いんだから、わかってよ」
「……っ」
 七瀬さんは、もうすっかりいつも通りの表情だ。翻弄されて悔しいのに、これ以上追い詰められないことに安心もしてしまう。ジレンマの心地なんて、実地で学習したいわけじゃないのに。
 時計を見た七瀬さんが立ち上がるのに合わせて、私も立った。明日は早朝から全員で出かけて、新曲のMVの撮影を行う予定だ。万全の体調で臨むためには、そろそろタイムリミットだ。
「明日のMV撮影、楽しみだな」
 のんきな台詞に色々言葉がこみ上げたけれど、諸々の注意事項はすでに散々口にしている。口を突いて出てきたのは結局、何の変哲もない相槌だった。
「……そうですね」
 七瀬さんがパチリとまばたきをして、私を見た。視線が絡み合う。熱に焦がされて、体温がまた上がる。
 新曲の歌詞に、ひとつだけ異を唱えたくなった。クーラーの効いた都会でだって、心は視線ひとつで簡単にとろけてしまう。
「おやすみ」
「……おやすみなさい」
 七瀬さんがくるりと向きを変えて、扉がパタリと閉まる。緊張と緩和のシーソーゲームのようだ。あるいはそれこそ歌詞の通り、寄せては返す波だろうか。
 私たちはもう何度も何度もこんな場面を繰り返しながら、曖昧な距離を保ったまま、決定的に近づく一歩も、遠ざける一歩も、踏み出さないままだ。
 明日、なにかが変わるだろうか。それとも、なにも変わりはしないだろうか。
 今日も私は、境界線を塗り替えられてしまう予感に怯えながら、彼への想いを手放せないでいる。