明日のあなたは

 わからないじゃないですか、というのが、一織の言い分だ。
「今のあなたが、私を好きでいてくれても。私がなにか、あなたに決定的に酷いことをしてしまったら、もう私のことなんて嫌になるでしょう?」
 唇を噛んで俯いた一織のつむじを見下ろして、オレはうーんと頭を悩ませる。
 一織ってときどき、信じられないくらいに頑固だ。何回言っても、「嫌ってもいい」と口に出すことをやめない。オレにきついことを言うたび、オレに酷な要求をするたびに、そんな予防線を張ろうとする。
 嫌ったりしないよ、怒ったり喧嘩したりはするけど、それでもずっと好きだよって、もう何回言っただろう。
「そりゃあ、未来のことだし、絶対はないけどさ……」
「そうでしょう」
「でもオレ、一織のこと絶対一生嫌いにならないと思う」
 は? と返された低音は、なかなかの冷たさだ。仮にも恋人に対して出す声音じゃないと思う。
「前後で矛盾してますけど。そもそも、なにを根拠に」
「だって、天にぃのことだって嫌いになれなかったもん」
 十三歳の天にぃが家を出て行って、よその子になってしまったのが、オレのこれまでの人生でぶっちぎり一位の「好きな人にされた酷いこと」だ。口では色々言ったけど、オレは一瞬だって天にぃを憎んだり嫌ったりできなかった。そういうふりをしていただけ。嫌いだと言い続けていないと、九条天なんてもう知らないと言ってしまわないと、悲しくて悲しくて、どうにかなっちゃいそうだった。
 捨てられたと思ってあんなに嘆いて、それでもオレを捨ててまで天にぃが求めたものの正体を知りたくて、必死で追いかけたのは、結局のところ天にぃのことがどうしようもなく大好きだったからだ。
 大好きな人を嫌いになるのは、オレにはすごく難しい。
「……それは……、九条さんは、あなたの血の繋がった兄じゃないですか。他人である私とは違うでしょう」
 だけど往生際の悪い一織がそういう逃げ方をするから、オレは言わずに済ませたかった台詞を口にすることにする。
「じゃあ聞くけど、一織は三月の実の弟じゃんか。三月は絶対お前のこと嫌わないって、おまえはちゃんと信じてるの」
「……っ!」
 一織がものすごい勢いで顔を上げた。切れ長のきれいな目を見開いて、オレを睨み付ける。
 いまにも泣き出しそうな、ひどく傷ついた顔をしていた。
 ごめんな、と、心の中でだけ謝る。口に出すほど傲慢にはなれない。一織を傷つけたかったわけじゃない、でも、傷つけるって知ってて言った。
 一織は唇を震わせながら口を開いて、なにかをオレに言おうとして、一言も発さないまままた唇を閉じる。それを何度か繰り返した。陸に上がった人魚のような、苦しげな仕草だった。
 オレはそうっと指を伸ばして、一織の頬に触れる。透けるように白くてなめらかな肌――こういう肌を白磁のようと言うけれど、触れるとうすくうぶ毛があって、ふんわりとやわらかくて、低めだけれど体温の温かさがある。
 一織の白い肌は、一織本人みたいだと、よく思う。遠くから見たら、つるりと硬質な陶器みたいに見える。触れてみないと、そのやわらかさも温かさもつたわらない。
 知ってるよ、と、オレは囁く。
「オレのことだけじゃないよね。三月にいつか嫌われるって、もうすっかり嫌われてるかもしれないって、おまえ、ずっと怯えてる」
 卵の殻みたいな、薄くて脆い一織のシールドに、小さなひびを入れる。ぐしゃりと握りつぶしてしまわないように、用心深く、そっと。
 ねえ、出ておいで。そろそろ、孵る時間だよ。
「……、だって……」
 ようやく一織が出した声は、か細くて、かわいそうなくらいに揺れていた。
「仕方がないじゃないですか。……私は、人の気持ちを推し量るのが下手で、兄さんを傷つけることばかり言って……、私みたいな弟がいること自体が、兄さんには腹立たしいことで……、兄さんが、私のことを嫌いになったって、仕方ない……」
 膝に置かれた手が、ぎゅっと握られる。
 オレは一織の向かいに膝をついて、じっと言葉の続きを待った。意識して呼吸を深くする。オレの脆弱な呼吸器が一織をこれ以上傷つけることだけは、万に一つもないように。
「……、実の兄にすら、いつ嫌われるかわからないのに……、七瀬さんが、ずっと好きでいてくださるなんて、そんな……そんな都合のいいこと、信じられるわけがない……」
 途切れ途切れに言い終えた一織の顔がくしゃりと歪んで、唇がいびつなへの字に引き結ばれる。
 言ってしまった、って顔をしていた。
 賢いくせに、ばかなヤツ。とっくに知ってるって、さっき言っただろ。
「……あのさ。三月は三月で、オレはオレだよ、一織」
 一織の目尻に浮かんだ涙の粒を、親指で拭う。
 三月は一織のこと嫌ったりしないよとか、そう言ってやるのが正しいんだろうか。オレがもっと子供だったら、きっと無邪気にそう言っていた。でも、それはオレの願望で、一織の切望だけど、三月の中身そのものじゃない。これは三月と一織の問題で、二人で解決するしかない。
 オレが一織に伝えられる真実は、オレの中身のことだけだ。
 両手をのばして、一織の手を取る。指が長くて、すべすべに手入れされてて、右手中指にちょっとだけ固いところのある、オレの大好きな手。
 祈りのように、その手を包んだ。
 どうか、どうか、伝わりますように。
「オレのこと、ちゃんと見てよ、一織。ちゃんと思い出して。オレたち最初はちっとも仲良くなかっただろ。オレ、こんなにケンカした相手なんていなかったよ」
 一織はぱちぱちとまばたきをしてから、訝しげな顔で頷いた。一織だって、オレが初めての筈だ。
 何度もケンカして、そのたび仲直りして、どんどん大好きになって、恋をした。
 全部、全部、一織とだけだ。
「当たり前の好きじゃなかったよ。こんなに時間かけて大好きになったのに、一瞬で全部なくなったりしない」
「――――」
 一織がようやく、ようやく、オレのことをまっすぐ見た。
 青みがかったグレイの虹彩。少し冷たそうに見えるそれが、情熱の炎を宿す瞬間だって知っている。
「……あの……」
「なあに、一織」
「その理屈だと、七瀬さんが九条さんを嫌えなかったことは私を嫌わないことの証明にはならないように思いますが……」
 …………。
 きゅうっと眉をひそめて、なにを言うかと思ったら。
「かっ」
「か?」
「かわいくない!」
「可愛くなくて結構ですが……」
「でもかわいい!」
「は?」
「もおおおおお」
 ガバッと両手で一織に抱きついて、オレは情けない声を絞り出す。
「大好きだよ、嫌ったりしないよ、信じてよぉ、一織ぃ……」
「お断りします」
「一織のばか。おたんこなす」
「小学生じゃないんですから……」
 オレの肩に顎を乗せて、頑固野郎はため息をついた。
「……私はあなたをスーパースターにするんです」
「うん」
「あなたの夢を叶えることが、私の夢でもあるんです。ずっと、そうしたかった。兄さんを悲しませても、それでも、どうしても、これだけが手放せない……」
 肩がじわっと冷たくなる。
 泣き顔くらい、ちゃんと見せろよ、ばか。
「そのためならどんなことだってします。必要だと判断したなら、あなたを悲しませて、傷つけることでも」
「…………」
 今度は、うん、とは言えなかった。
 だってして欲しくない。
 肩口で一織は苦笑したようだった。
「だからね、七瀬さん。あなたに嫌われる未来を、その選択肢を、私から奪わないで。それでもあなたの夢を選べる私でいさせて」
「…………ひどい…………」
「そういう私がお好きだとおっしゃったばかりですが?」
「好きだけどさぁ!」
 恨みを込めてきつく抱きしめたら、痛い痛い、ってわりと本気の苦情が上がった。腕力ならオレのほうが強いんだからな。
「……ですが、先程のはかなり堪えたので……、血のつながりを持ち出して比べるのはやめます」
「そうして!」
「なに他人事の顔をしているんですか、あなたもですよ。というか、あなたこそでしょう」
 はぁい、といい子の返事をしようとして、オレはふと気づく。それってつまりさ。
「一織、天にぃに妬いてる?」
「あなた馬鹿なんですか」
 ニヤニヤ笑いながら言ったら、食い気味に早口の返事が返ってきた。
「妬くに決まってるじゃないですかこのブラコン」
 ワオ!
 すっかり嬉しくなったオレは、可愛くないところが最高に可愛いオレの彼氏をもう一度ぎゅうぎゅう抱きしめて、とびきりのキスを贈る。
 結局オレたちは今日もたいして変わりはしなくて。
 明日もやっぱり一織はオレが嫌う未来を手放さないままの一織で、オレはそんな一織に今日も好きだよって言うんだろう。
 今はそれでもいいや。
 明日の明日のそのまた明日、二人で歩く道のはるか果て、天国か地獄か知らないのその場所で、それでもやっぱり二人だねと笑い合ったら、オレの勝ち。