Only you

「一織は知ってたの」
 制服姿で帰宅した一織を玄関先でつかまえ、話があるからと手も洗わせずに部屋に連れ込んだ陸は、部屋の中央に不機嫌丸出しの顔で仁王立ちした。
「何の話ですか」
「……何の話か聞かなきゃいけないくらいたくさんあるんだ?」
「私が知っていてあなたが知らないことなど山のようにあるでしょう。自分の切り出し方のまずさを棚に上げていちいち突っかからないでください」
「ああ言えばこう言う! かわいくないなぁ!」
「元から可愛くなどありません。それで、いい加減本題に戻って欲しいんですけど」
「だから、これ」
 ずい、と陸がスマートフォンの画面を突きつける。表示されたコラム記事のタイトルを目にして、一織は不快そうに眉をひそめた。
「SNSやネットニュースは見るなと言いましたよね」
「共演の人がラビチャでアドレス送ってくれたんだよ! けっこう大ごとになってるけど大丈夫かって。見ないで返事するわけにいかないだろ?」
「…………」
「オレが香水きつい人が苦手って言ったせいで、香水売り場の売り上げが落ちてるとか、香りもの好きな人が肩身狭くなったとか、オレ全然知らなかった」
「七瀬さんは知らなくてもいいことです」
「なんで? 根も葉もない噂とか、誰かがオレのことをわざと悪く言ってるとかなら、知りたくないけど。でもこれは違うだろ?」
 まっすぐな目の陸に斬り込まれ、一織はぐっと眉間の皺を深める。
「どうして隠すんだよ。オレが考えなしに言ったことで、たくさん迷惑かけたんじゃん」
「――教えたら、挽回しようとして余計かきまわすじゃないですか、七瀬さんは。こういうものは触れずにフェードアウトを待つのが一番いいんです」
「なら、そう言えばいいだろ!」
 大きく一歩、一織との距離を詰めながら、陸が語気を荒くした。いつもの喧嘩で見せる、小型犬の吠え声のような声音とはまるで違う。低く唸るような言い方に、一織がびくりと肩を震わせた。
「トーク下手くそって怒って、オレのせいでこうなってるって教えて、でも黙ってろって言えばいいじゃん! いつもいつもオレにうるさく言ってきたくせに、なんであんな……っ、にこにこして、適当にごまかして!」
「……っ、七瀬さ、」
「星の数ほどの言葉がオレをめがけて降り注いでも無視しろって、一織を指針にして一織の要求に従えって、――一織だけ信じろって! 一織が言ったんだろ!? コントロールしてみていいって、オレ言った! なのに、なんでおまえが信じないんだよ、馬鹿!!」
 陸の怒りを正面から受け止めた一織が、ほんの一瞬、泣き出しそうな顔をした。
 その顔をすぐさま冷ややかな仮面の下にしまいこんでしまうから、陸は追及の手を緩めることができない。
「…………、あなたをコントロールするためにこそ、耳に入れたくなかったんです。わかりませんか」
「わかんない。説明して」
「……だって、七瀬さん、傷つくでしょう」
 下唇を軽く噛み、一織は斜めに視線を逸らして俯く。かたくなな一織の仮面に、少しずつひびが入り始めていた。肩からずるりと落ちかけたスクールバッグを両腕で抱える姿が、どこか子供じみて見える。
「七瀬さんの発言は思慮が浅いものだったとは思います。ですが今更取り返しがつくものでもない。あなたがなにを言っても、意味合いが何倍にも拡散されて、あっという間に広まる、いまはそういう状況になってしまっています。中途半端にフォローするくらいなら知らぬ存ぜぬで通す方がいいんです。それなら本当に知らずにいるほうが楽でしょう」
「……そうだよ。ショックだし、申し訳ないなって後悔してるし、どうにかしたくてそわそわしてる。黙ってたくなんてない」
「だから」
「でも!」
 さらに一歩、陸は一織に近づく。ほとんどゼロ距離の近さで、両手で一織の肩を掴んだ。制服のジャケットの厚みの下、十七歳の高校生の上腕は、平均程度の大きさしかない陸の手でもしっかり掴めてしまうほど細い。
「なにもするなって一織が言うなら、そうするよ。オレのことを世界で一番考えてくれるおまえが、そうするのが最善だって判断するなら、しんどいけど、ちゃんと聞く」
「七瀬さん」
「信じろよ、ばか……」
 ぐすっと鼻を啜って、陸は一織の肩に額を押し付けた。
 陸の腕の中で、一織は長い長いため息をつく。息を吸う音のあと一拍おいて、耳に届いたのは拗ねたような声音だった。
「……信じてくれなかったのは、あなたじゃないですか」
「……なんの話」
「九条さんが出て行った理由を知って落ち込んでいたとき、私がどれだけあなたを弁護しても聞く耳を持たなかったのは七瀬さんでしょう。今回の件も、対応策に同意してくれるとしても、メンタルに影響を受けることは明白です。現にこうやって取り乱している。いまここで歌えと言われて、最高のパフォーマンスが出せますか?」
「っ、歌える!」
「嘘ですね。七瀬さんには無理ですよ。できもしないことをできると言い張るのはあなたの悪い癖だ、いい加減自覚してください」
「…………オレがちゃんと歌えればそれでいいの。一織が大事なのはそれだけ? オレの気持ちなんてどうだっていいんだ?」
「そんなこと言っていないでしょう」
「言ってるじゃん!」
「わからない人だな! どうだってよくないから、あなたに傷ついてほしくないから……っ、」
 一織が縋るように胸に抱いたスクールバッグから、ちりりと音が鳴った。恥ずかしがりながらも外さずにいるマスコットが揺れてぶつかり合う。
 冷徹な切れ者のふりばかりする一織の中身が誰より優しくて繊細なことなんて、もうみんなとっくに知っているのに。
 優しい一織のひとりよがりな強情さに、陸の胸がずきりと痛む。その痛みにデジャヴを感じて、陸は思わず乾いた笑い声を漏らした。
 飽きるほど、知っている痛みだ。
「……今の一織、昔の天にぃそっくり」
 弾かれたように一織が顔を上げた。愕然と陸を見つめる一織の顔から血の気が引いている。陸は苦く笑って、大きく見開かれた一織の目を覗き込んだ。
 今日初めて、本当の意味で目が合った気がする。
「そっくりだよ。悲しいことも辛いことも、全部ひとりで抱え込んで、オレに見せまいとして、小さな子どもにするみたいに、陸は何も気にしなくていいよって笑うんだ」
「あ…………」
「天にぃが悪いって言ったのは一織なのに、同じことするなよ。――オレ、一織にだけは、そういうふうにされたくない」
 どさ、と音がした。一織が抱えていたバッグが床に落ちた音だ。みっちり詰まった学用品が足先をかすめて陸も痛かったけれど、足の真上にそれを落とした一織はさらに痛かっただろう。だのにバッグを取り落としたことにすら気づいていない様子で、一織がふらりとよろめく。
 とっさに手に力を込めて、陸はその身体を引き寄せた。反射的に身をよじる細い肢体を、腕に力を込めて抱きしめる。短い攻防のあと、一織は諦めたように力を抜いた。
 腕の中で、あたたかな一織のからだが、ふるふると小さく震えている。ヒヨコだとかハムスターだとか、ちいさな動物を手の中に閉じ込めたら、こんなふうだろうか。
「……あなたはいつも、酷な要求ばかり私に突きつける」
「一織……?」
「そうですよ。あなたの言うとおりだ。今頃になって、九条さんの気持ちが痛いほどわかります」
 一織が漏らしたひび割れた笑い声は、つい先刻の陸のそれとまるで同じだった。嬉しいわけでも、楽しいわけでもない。とうしようもなくやるせなくて、自分を笑う以外になにもできない。
「私のことを嫌って、憎んでくれてかまわないって、言ったじゃないですか……。あなたがそうしてくれたら、私はいくらでも、あなたに無情な期待だけを突きつけていられるのに」
「いお、り」
「あなたが私に笑いかけるから、……大好きだなんて言うから、惜しんでしまう。悲しませたくなくて、笑ったままでいてほしくて、……傷つけたくなくて、――馬鹿なのは私だ……」
 一織の両手が、ぐ、と陸の胸を押した。さほどの強さもないその手に押されるまま距離を開けてしまったのは、陸も混乱していたからだ。
 傷つけたくない――そんな台詞が、あの一織の口から出る日が来るなんて。
 一織の唇からこぼれる言葉をうまく脳で処理できず、固まったままの陸に、一織は顔を上げてぎこちなく笑いかける。
「すみません、七瀬さん。私が間違っていました。あなたの言う通りだった。……私は、私だけは、あなたに――――」
 言いかけた声が、不自然に途切れた。くしゃりと歪んだ表情を隠すように、一織は両手で顔を覆って俯く。
 沈黙の落ちた部屋の中で、空気清浄機の稼働音がやけに耳についた。この高性能な機械の面倒だって、部屋の主である陸以上に一織がこまめに見ている。寝る前に作ってくれる甘いホットミルク、楽屋でさりげなく差し出されるのど飴や水筒、咳き込む陸の口元で吸入器を構える慣れた手つき、背を優しくさすってくれる手のひら。一織のくれるたくさんの優しさと気遣いを、陸は当たり前のように受け取り続けてきた。
 一織だけではなく、陸を囲む人々は優しい。両親や、双子の兄である天、マネージャー、IDOLiSH7の仲間たち、TRIGGERやRe:valeの面々。みな陸を気遣い、庇って、甘やかし、苦しみを取り除こうとしてくれる。
 弱く生まれついた陸は、優しくされることに慣れすぎて、だから陸に厳しい一織が特別になった。一織が厳しいのは、一織が陸を信じ、期待してくれているからだ。仕事に駄目出しをするのは、陸がもっとできたはずだから。プレッシャーをかけてくるのは、高い要求に応える能力が陸にあると信頼してくれているからだ。
 そうやって厳しさを求める一方で、甘やかされてきた陸はきつい言葉に耐性がない。歯に衣を着せない一織の言葉尻にかっとなり、拗ねて、売り言葉に買い言葉の応酬から、たびたび喧嘩を繰り返す。
 センターを交代した頃は、まだ自信がなかったはずだ。でもいつからだろう、一織が陸を好いてくれていることを疑わなくなっていた。だから一織の浴びせる優しさを際限なく受け取りながら、厳しくあることを要求して、好き勝手に文句も言う。今日だってそうだった。気に入らないやり方に躊躇なく怒りを示せるのは、そうしたところで一織との関係が壊れないと信じているからだ。
 ――でも、一織は。
 嫌っていい。憎んでいい。可愛くなくて結構。そうだ、思い返せば、いつもそんなことばかり言われていた。それが一織の防波堤だったなんて、いまこのときまで、ちっとも気づかなかった。
 陸が一織を大好きで、一織も陸を好いてくれて、それは幸せなことだと思っていた。その気持ちが一織を苦しくさせているなんて、思い至りもしなかったのだ。
 顔を覆う両手と、重力に従って落ちかかる黒髪とで、一織の表情はすっかり隠されている。顔を見せて欲しいのか、見るのが怖いのか、自分でもよくわからなくて、陸は唇を噛んで立ち尽くしたまま、一織のつむじを見つめた。
 ごめんと謝る言葉は、どうしても口から出てこない。
 だって、どうしても諦められない。一織に陸を諦めてほしくない。けれど、好きでいてもほしいし、一織のことを好きじゃなくなるなんて無理だ。
 ぎゅっと握った手の爪が手のひらに食い込んで痛い。手のひらに残るだろう痕を想像し、その手を見とがめる一織の小言まで思い浮かんで、陸は困ったような笑みを浮かべた。
「……ねえ、一織」
 陸が呼んでも、一織は顔を上げない。ただ肩がぴくりと動いて、声が届いていることだけを陸に教える。
「オレが歌い始めたのは、きれいなだけの場所に閉じ込められているのが、苦しくて、悔しくて、つらかったからだったよ」
「…………」
「いま歌っていられるのは、優しいみんながセンターのオレを支えてくれて、ファンの人たちが愛してくれたから。もっともっと先へ進もうって思えるのは、一織がオレに、オレならできるって言ってくれるから」
 すう、と息を吸う。吸って、吐ける、それだけのことで泣きたいくらいに嬉しくなる日がいまもある。油断するとすぐに陸を裏切る陸の呼吸器が、陸の持つたったひとつの武器の在処だ。
「一織はオレに見せないようにしてくれてたけど、オレだっていまの状況がなんかおかしいって少しはわかってた。オレが言ったり、したりすることに、びっくりするくらい大げさな反応がかえってくる。オレのことを決めつけたり、聖人君子みたいに言われてさ。正直怖いよ。弱音も吐くと思うし、体調崩したり、うまく声が出なくなったりとかも……しないとは言い切れない。一織が心配したとおりだと思う。見せないでくれるほうが、楽なのかも。でも」
 数万人の前でステージに立つときのように、陸は腹に力を込める。
「信じて、一織。世界がオレに優しくなくても、きっとオレは歌える。歌うのをやめないって、誓うよ。ガラスケースの外の世界で、傷だらけになったって構わない。みんなと、一織と、同じ場所で戦ってたいんだ」
 ゆっくり、ゆっくりと、一織が震える手を下ろしていく。白くきれいな額、きりりと凜々しい眉、びっしりと濃く長い睫毛、すっと通った鼻梁、血の気を失った薄い唇、理知的なグレーの虹彩と、青みがかった黒い瞳。一織を形作るパーツは、ひとつひとつがどれも整ってうつくしい。けれどきっと、一番きれいなものは、その奥にある一織の心だ。
 ななせさん、と、声にならない声で一織が呼んだ。
「酷いって怒っていいよ。でもオレに目隠ししないで。一緒に戦って。天国でも地獄でも、おまえと行くよ。オレならできるって、立ち向かえるって、言ってよ、一織」
 言葉のひとつひとつに想いを込めて、陸は告げる。届け、と心から願った。歌詞になら簡単に気持ちを乗せられるのに、言葉にそうするのはひどく難しくて、それでも諦められないのだから、挑むしか選択肢はない。
 酷いひと、と、掠れた声で一織が言って、泣き笑いの顔をした。
「あなたの、その顔に、こんなに悩まされているのに……、その顔で、そんな声で、ずるいじゃないですか。あなたの願いなら、頷きたくなってしまう。なんだって叶えたくなる」
「一織」
「聞いて、七瀬さん。あなたの歌は、人の心を揺さぶる。あなたの心からの願いは、人に届くんです。あなたの虜になった人々は、あなたの些細な言葉にすら影響を受け、あなたに従うことに快感を覚える。いま、起きているのは、そういう事態です」
 怖いです、と、両手に視線を落として一織は呟く。
「この先、あなたの影響力がどれほど大きくなるか、計り知れない。これからなにが待っているのか、あなたが本当に潰れずいられるのか、あなたの傀儡にならない、あなたが望むような私のままでいられるのか……。私の知らないことばかりで、正直、不安で仕方がない」
 陸は一織のその手を取って、ぎゅっと握った。陸の手も、一織の手も、同じくらいに冷たくて、同じくらいに震えていた。
 一織が指を動かして、陸の指をひらかせた。指の間に、一織のすんなりと細い指が入り込む。
 祈るように、縋るように、両手の指を絡めて、陸と一織は向かい合う。
 お互いの心臓の音が聞こえるような気がした。トクトクと、いつもよりは速い、でもどこか落ち着く心音だ。大きなステージを前に緊張をわけあうときのように、体温と鼓動と呼吸を共有している。
「……でも、たぶん……、あなたが私を置いて、ひとりで遠くへ行ってしまいそうで、それが一番、怖かった。私の庇護下にいてほしくて、ずっと私の隣で笑っていて欲しくて、だからなにも見せたくなかった……」
 ひとつぶ、ガラス玉のような透明な涙が、一織の片目からこぼれ落ちた。
 頬を伝い落ちるそれがあんまりきれいで、陸は衝動的に顔を寄せる。つめたく塩辛い涙と、やわらかい頬のうぶ毛の感触が、陸が初めて唇で知った一織の頬だった。
「一織」
「苦しいです、七瀬さん。だから、あなたを好きになりたくなかったのに」
「オレだって苦しいよ、でも、苦しくないだけのぬるま湯から一生出られないより、苦しい苦しいってのたうち回りながら泳いでる方がいい」
「……そうですね。白黒の世界で静かに朽ちていくより、落ちて死ぬことに怯えながら虹を渡るほうが幸せだと知ってしまった」
 陸の指先に恭しく唇を寄せて、一織がほほえんだ。
「七瀬さん。私があなたをスーパースターにします。誰よりあなたを突き落とし、誰よりあなたを怯えさせ、誰よりあなたに期待して、誰よりあなたを押し上げる。――だから、だから七瀬さん、あなたが、私をスーパースターにして。あなたの隣に立つ私でいさせて」
「~~~~っ!」
 こみあげる衝動のまま、陸は一織に抱きついた。一織の肩に顔を押しつけてひんひんと泣きだした陸を、痛いと文句を言いながら、一織が優しく抱き返してくれた。
 一緒に行こう。終わるまで、死ぬまで、この心が歌を愛するかぎり、ずっと、どこまでも、行けるところまで、永遠のその向こうへ。
 涙の合間、途切れ途切れに訴える陸の声に、一織はひとつひとつ返事をくれた。腕の中に確かにあった、大切なひとのあたたかさを、いつか息絶えるその日まで、きっと覚えているだろう。