熱をわけあう

 会話の合間に、ほう、と陸が小さな息をつく。
 温度があるならほかほかとあたたかそうなそれに、一織は首を傾げて隣を見やった。
「七瀬さん?」
 視線を受けた陸がくふふと笑い、両手で持ったカップをゆらゆらと揺らした。奇跡的に割れずに生き残っていた愛用の赤いマグカップの中、三分の一ほど残ったぬるいミルクがちゃぷんと音を立てる。
「ちょっと、零れますよ」
「わかってる、気をつけてるよ! ……へへ」
「なんなんですか……」
「嬉しいんだもん」
 にっこりと目を細めて、カップのふちに口をつける。ん、おいしい、と幸せそうに呟く声にも、あたたかな温度がのっているようだ。
「……レシピ送ったでしょ」
「同じ味なら、同じ味ってわけじゃないじゃん」
「日本語喋ってくださいよ」
「む。一織賢いんだから察しろよ」
 じゃれあうような言葉のやりとり。本気で喧嘩をする気がないことなんてお互いわかっている。
「……まあ、七瀬さんの言いたいこともわかります」
「寂しかったんだからな、本当。いつもいる人がいなくなるのって、すごくイヤだよ」
 甘いミルクをひとくちこくりと飲み込んで、一織も神妙に頷いた。
 大喧嘩の果てに三月が大和を殴りつけ、寮を出ると言い出した大和に、自分こそ出て行くと飛び出した三月の後を追った。弟としてその行動が間違っていたとは思わないが、七人で賑やかに暮らしていた寮が四人だけになり、その状況がいつまで続くかわからないというのは、陸にはかなり堪えただろう。
 陸がもぞもぞと尻の位置を動かして、一織との間にあったこぶしほどの距離を詰めた。肩と肩が触れあって、陸の体温が伝わる。一織よりも少し高いその温度が、嫌なものに思えないのが一織には少し不思議だ。家族以外に触れられることは、ずっと苦手だったのに。
「別の仕事してても、一織にあれ話そう、これ言っとこうとか、思っちゃってさ。なのに帰ってもいなくて……ラビチャしてまで話すことかっていったらちょっと違うし」
「はい」
「夜中に咳が出た時も、あっ聞こえちゃったかな、起こしたら悪いなって思うんだけどさ、そのあとでそっか一織も三月もいないんだよなーって」
「! 七瀬さ」
「あっ、大丈夫! たまにちょっと咳き込んだだけだよ、ひどいのは全然なかったから! ……でも正直、ちょっと、怖かったな。……ごめん。甘えてるってわかってるんだけど」
 一織の肩に、陸は赤い頭をぐりぐりとこすりつける。
「一織、オレの体調オレより気にしてくれるし、助けてほしいときに絶対駆けつけてくれるだろ。一織が近くにいてくれるから、安心できてたんだなって、すごく思った……。お小言はうるさいけど、いないと寂しいよ」
「…………私も、」
「ん?」
「心配でした。まともな人が逢坂さんひとりでは、寮はどんな惨状になっているだろうと」
「おい」
「お皿は割れていないか、火事や漏水は起きていないか、洗濯物は縮んだり色移りしていないか、」
「いおりぃ」
「……七瀬さんが、寝不足になったり、咳き込んではいないか、ストレスで体調を崩していないか」
「――――」
「でも、私が兄さんに何か言える状況ではなくて、二階堂さんとも話せませんでしたし、……ただ待つしか、暗い顔をした兄さんを黙って見ていることしかできなくて、」
「…………一織」
「私だって、早く、みなさんのところに帰りたかったですよ」
「……うん」
 コトンと音がして、陸のマグカップが床に置かれた。一織はわずかに逡巡してから、その赤いカップと自分の紺のカップをまとめてローテーブルに乗せ、テーブルごと少し遠くに押しやる。
 テーブルから離した一織の指先に、陸の手が触れた。びくっと指先が跳ねて、でも宙に浮かせたまま引っ込めもできなかった一織の手を、陸が引き寄せる。
 指先をまとめて握り込まれて、呼吸が乱れた。
 パジャマ越しの肩と肩で感じるより、もっとずっと陸が近い。さっきまでカップを握っていた肌のしめりけ、温度、意志を持って握ってくるその手のつよさ。
 息を吸う、酸素を肺に取り込むだけの動きが、とたんに酷く難しいものになる。息苦しさに、一織は小さく喘いだ。
 ただ、陸に、手を取られているだけなのに。
 ただ、陸のその大きな紅い瞳に、鼻先の触れあいそうな距離から見つめられているだけなのに。
「ごめん……、ごめんな、一織」
「……七瀬さんが謝るようなことは」
「ううん。オレ、想像できてなかったから。大和さんと三月の心配して、二人と仲いいナギの心配して、おろおろしてる壮五さんの心配して、でも一織のことはさ……、大好きな三月と一緒にいるからいいよなって、オレたちはこんなに寂しいのにずるいぞって、一織だってちょっとくらい寂しがれよってむかついてた」
「…………っ」
「一織、すぐ平気な顔しちゃうからさ。いつも言われるまで気づけなくて、ごめんな」
 喉が一織の意思を裏切って、ぐうっとおかしな音を立てる。
 IDOLiSH7の危機に、一織は何もできなかった。むしろ正論で叩き返して大和を追い詰めすらした。その後悔を誰にも吐露できず、そのとき得た情報のひとかけらを百の前に開示するだけで精一杯だった。弟である一織に三月が弱音を吐くことも、飛び出した直後のあの謝罪以降はまったくなかった。――むしろ一織がついて行ったことで、三月に謝らせてしまいすらした。
「オレのほうがお兄ちゃんなんだから。平気じゃないときは、平気じゃない顔、オレには見せてよ」
 震えながら、一織はゆっくりと首を横に振る。
「一織、」
 あやすように名を呼ばれても、首を振り続けるしかできなかった。簡単そうに言わないでほしい。そんなことができる性格なら、これまでだって三月や陸を傷つけずにやってこれただろう。
 鼻の奥がつんと痛んだ。それが涙の予兆だと知っている。やめて、と声にならない声で呻きながら、どうしてか俯くことすらできなかった。
 こんな顔を見られたくないのに、逃げ出したいのに、陸のまっすぐな視線に絡め取られて、動けない。
 みせて、と吐息混じりの声で陸が囁く。
 一織が頑是ない子どものようにかぶりを振るたび、陸は一織の名を呼び、握り込んだ一織の手を揺らした。
 謝るくらいならもう解放して欲しいと思っているのに、その言葉に従ってしまいたくもなる。
 二律背反の決着はすぐだった。幾度目かに名を呼んだ優しい声に、胸の内につくられたダムが決壊する。ぎゅっと目をつぶってもこみ上げる涙は止められず、目尻から零れて頬を濡らしていく。
 喉を震わせて泣く一織を、陸がそっと抱き寄せた。
「いいこ」
 髪をなでる手つきがひどく優しくて、縋りつきたくなる。
 大和の、三月の、ナギの苦しさを思えば、自分の些細な悲しみなど無視していいような程度のものなのに。
 どうして陸には吐き出せてしまえるのだろう。
 どうして陸は、一織を抱きしめてくれるのだろう。
「…………ばか、」
「うん」
「わたし、なんて、そんな、たいした、」
「違うよ、一織。一織より傷ついてる人がいたとしても、一織が傷ついたことをなかったことにしなくていいんだ」
 耳元で陸の声が聞こえる。
「寂しかったね」
「……っ、」
「一織が戻ってきて、嬉しい」
 動物のふれあいのように、頬に頬をすりよせて陸は一織の涙を拭う。鼻と額がくっついて、陸の湿った吐息が唇にかかる。あんまりにも距離が近すぎて、陸がどんな表情をしているかが見えなかった。
 ただ、かかる吐息も触れあう肌も、ひどく熱いことだけがわかる。
「――こ、わ」
 胸の奥底に押し込めていた言葉が、とうとう唇からこぼれ落ちた。
「かっ、――」
 ――怖かった。
 言い終えるより前に唇が塞がれた。
 ほんの一瞬の出来事だった。一織の声の最後の一音を奪った陸の熱はすぐに離れて、だって、と言い訳めいた音を陸の声が紡ぐ。
 その声すら熱い。
 だって?
 だって、なんだ。
 疑問が浮かぶのと同時、また唇が塞がれる。
 今度は少しだけ長く重なって、でも、また離れていく。
 まばたきで涙を散らして、一織は至近距離にある陸の瞳を探した。
 熱をたたえて赤く揺らめいて、焔のようだ。
 灼かれてしまう。
「っ、」
 陸がおかしなふうに喉をひくつかせ、一織の右手の指を握り込んでいた力が緩む。離れていこうとする陸の手を、なにかを考えるより先に追いかけていた。かろうじてつかまえた指一本を握り込んで、その指も自分の手もひどく震えていることを知って、――エラーを起こしていた現実認識が、ようやく戻ってきた。
 キスをされた。陸に。
 陸がそろそろと視線を下ろした。陸の指をつかまえた、一織の手を見ているとわかった。一織はこわごわともう片方の手を伸ばして、陸の手の甲に触れる。
 そっと、そっと、陸の手首から爪の先までを、指の腹で撫でていく。
 呼吸はさっきからずっと、みっともなく乱れたままだ。
 陸がぱっと顔を上げた。食い入るように見つめてくるまなざしを、一織は懸命に受け止める。身体が竦んだ。怖くて、恥ずかしくて、顔を隠してまるく縮こまってしまいたい。でも。
 キスをしたのは陸だ。
 ごめんと謝ってくれたのも、寂しかったと言ってくれたのも、抱きしめて涙を拭ってくれたのも、全部陸だった。
 ここで一織が逃げたら、きっと取り返しがつかないほど傷つける。
 言葉もなく見つめ合って――ごくり、と、鳴ったのはどちらの喉だっただろうか。
「……いおり、」
 一織の愛する声が、目眩のするような熱を帯びて一織の名を呼ぶ。
 唇をひらいて、でも、どうしても声が出なかった。とめどなく溢れそうな涙をどうにか押しとどめながら、ただ、目を逸らさずにいるだけで精一杯だ。
 陸の顔が少しずつ近づいてきた。あんまりゆっくりで、ほとんど拷問めいている。きっと陸だって怖いのだ。一織も怖かった。それでも、触れあわずにいられない。
 近づきすぎた陸の顔がぼやけて、一織はそっと目を閉じた。唇が重なって、コンマ数秒だけ離れ、もう一度あわさる。少しずつ、少しずつ深くなって、何度目かにドラマのキスシーンで聞くような水音が立って、かあっと全身に熱が回った。
 嬉しくて、切なくて、幸せで、きもちがよくて、もうわけがわからない。
「……っ!」
 しがみつくようにお互いの身体に腕を回して、呼吸を奪い合うように口づけを繰り返した。慣れないふたりのタイミングはうまく合わず、ずれた場所に唇が当たったり、歯にぶつかったりもしたけれど、それでも止められなかった。触れるたび陸の熱が濁流のように流れ込んで、一織の心音を激しくかき乱す。
 しびれるような感覚が身体の奥からせり上がって、鼻から甘ったるい声が漏れた。恥ずかしくてたまらないのに、熱はどんどん上がっていく。陸も同じようになっているのが、唯一の救いだった。
「――、は、あ、」
 キスばかり、どれだけ夢中になって続けていただろう。陸が大きく息をついて、一織の両肩をそっと押した。
「っ、ななせさ、」
「だい、じょぶ、ごめ、」
 はっと目を見開いた一織に、陸が困ったように片手をあげる。胸元に手を当てて呼吸を整えた陸は、真っ赤な顔のまま繭を下げて笑った。
「ごめん、もう大丈夫……、でも、ちょっと、休憩、な」
 くたりと抱きつかれ、負担にならないようそっと抱き返す。少しずつ穏やかになる呼吸音に耳を澄ましているうちに、一織の鼓動も平常時へと戻りはじめた。反比例してすさまじい羞恥心が全身を駆け巡り、いたたまれなさに耐えきれず一織は陸の肩に顔を埋めた。
 ――あんなの、正気ですることじゃない!
 ふ、ふふ、と、陸が嬉しげに笑う。
「一織、耳真っ赤」
「やかましいです」
「きもちよかったね」
「はったおします」
「ええー。よくなかった?」
「っ、」
「いやだった? 一織」
「………………ずるいんですよ七瀬さん………………」
「うん」
 悪びれない返答に、一織は顔を上げないまま陸の背中をつねる。痛い痛い! と悲鳴を上げて、それでも陸は一織を抱きしめたままだったし、一織も陸から離れはしない。
 あわさった胸元、トクトクと鳴る互いの心臓の音が、また少しずつ早くなっていくことにも、きっとお互い気づいている。
 ――だいすきだよ。
 ふたたび熱を帯びはじめた陸の声に耳元で囁かれて、一織は小さく震えながら、こくりと頷いた。