きみを待つうた

“……わかりませんか。観客の感情を力尽くで揺さぶって、自分の想いに同調させる。ひとつの巨大な感情の渦をその空間に巻き起こす。まるでなにもかもを吸い込むブラックホールのように。その訴求力を、あの人が最大に発揮する場面は――”

 かつて紡にそう語った人が、舞台袖の暗がりに力なく横たわっている。身体の下になにか敷いてやることも、楽屋まで運び込んでやることもできなかった。そんな余裕が、今は誰にもない。沸きに沸いた客席に大きく手を振って舞台からはけてきたばかりの彼らには、まだアンコールに応えて歌い踊るという仕事が残っている。その、あとほんのわずかを乗り切れば終わりというところで、一織は糸が切れたように立てなくなった。
 アンコールのためのTシャツに着替えた陸が、一織の傍らに膝をついた。泣き出しそうな顔で、唇をきつく結んでいる。立つべき舞台に立てない無念さは、この場にいる誰よりも陸が一番よく知っているだろう。
 一織が顔をわずかに仰向けて、陸を見上げた。震える手を持ち上げ、見えない涙を拭うように陸の頬に触れる。
 色を失った唇が、ゆっくりと動いた。客席に雷鳴のごとく轟く歓声と、怒号飛び交うバックステージ。さまざまな音が混じり合って渦巻く舞台袖で、聞こえるはずのないその小さな小さな囁きは、けれども彼が見つめるその人に、間違いなく届いていた。
「……うたって」

“――あの人が、誰かを強く想って歌うときだ”

「うたって、七瀬さん」
 びっしょりと脂汗をかいた顔に黒髪を張りつかせ、一織はそれでも穏やかに微笑む。もうあまり力が入らないのだろう、頬から滑ってずるりと落ちかけた手を、陸が受け止めて握った。
「できるでしょう。――私の、ぶん、届けて」
「うん」
 捧げ持つようにその手を額に当て、陸はこっくりと頷く。サイドに垂らした赤毛が揺れる様子を、一織が眩しいものを見るように目で追った。
「おまえのぶんも、歌うよ、一織。聞いてて」
「はい」
「マネージャー、一織を頼むな。――行こう、みんな」
 そっと手を一織の胸元に下ろしてやり、陸はすっくと立ち上がった。大きな瞳に強い意志を輝かせ、まばゆい光を放つステージへ、彼らを呼ぶ声のもとへ、決然とした足取りで歩いていく。おう、と口々に応じたメンバーが、横たわる一織に一声ずつかけて、その後に続いた。
 誰一人、振り返らない。
 頑張れと叫んで、その背が見えなくなるまで見送ってやりたい気持ちを紡は振り捨てる。先ほどまで陸がいた場所に膝をつき、一織の手にそっと触れた。冷え切った震える手から、彼が浮かべている表情以上の苦痛が伝わってくる。
「救急車を呼んでいただきました。もう少しだけ、ここで我慢してくださいね。私も、私の仕事をしてきます」
 余計な言葉を交わす時間はない。残すはアンコールのみとはいえ、一織の不在をフォローしなければならなかった。傍について優しく励ますより、彼の不在という傷を可能な限り小さくとどめることが、彼のために紡のできる最善の行動だとわかっている。
 支えると誓った相手に全て託して横たわる彼は、どんなにか無念だろう、どんなにか悔しいだろう。無理だと首を横に振ったときには、一織はもう、その感情をひとりで飲み下した後だった。ここで紡が泣き崩れるなどできるわけがない。
 くん、と袖を引かれて、立ち上がろうとした紡はたたらを踏んだ。
「一織さん、」
 目配せで呼ばれて、耳を彼の口元に近づける。苦しげな息をつきながら告げてくる内容に、紡は目を見開き、ついで一織をにらみつけた。
「……もうっ、一織さん!」
「わがまま、くらい、聞いて下さいよ」
 ひとつ年下のこの戦友に、苦痛をこらえる笑顔でねだられて、紡が断れるわけがないのだ。
 足早に音声コントロール室へ向かう途中、客席がわあっと大きく沸くのが聞こえた。歓声、そして一拍おいて、戸惑うようなどよめき。陸が声を張り上げる。
『ありがとう、みんなごめんねー! 一織、へばっちゃってさぁ! 出るって言い張ってたけどすっごいへろへろで、おまえそれで出てきたら明日からパーフェクト高校生返上しなきゃだぞって言って置いてきちゃった!』
『情けねぇ弟でごめんな~! 今日のみんな、めちゃくちゃノリいいからさぁ、頑張りすぎちゃったみたい!』
『りっくんも前やったよな、ぶっ倒れてアンコール出られなかったの』
『ありましたー! ごめんなさい~! 一織にすっごいお説教された~!!』
『おっ、じゃあ今日はリクがイチに説教だな。雪が降るんじゃないか?』
『陸くん、お客さんが無事に家に着くまでは降らせないでね』
『ええっ』
 軽妙なやりとりに、客席が笑いに包まれる。ステージへ向けて振られるサイリウムは、青い光が心なしか増えたようだ。案じる表情、不満や残念がる声が客席から完全に消えたわけではないが、ステージに立つ彼らの笑顔で、動揺はかなり抑えられたように見える。
 スタッフと忙しなく言葉を交わしながら、紡はインカムへ指示を送る。陸と並んでステージ中央に立っていた三月が、さりげなく了解の合図を送ってきた。
『リクのイオリへのお説教、スペシャルレアでーす。楽しみデスね』
『えーと、がんばります!? じゃあ、一織へのお説教はあとでたっぷりするとして。準備もできたみたいなので、みんなはオレたちの歌をもう少し聴いていってください。一織のぶんも歌うよ、楽しんで! 曲はオレたちの思い出の歌、』
『――”RESTART POiNTER”』
 陸のセリフを奪うように曲名をコールした、その場にいない七人目の声に、客席が大きくどよめいた。舞台袖でかろうじて身を起こした一織が絞り出した囁き声を、マイクを通して増幅し、会場へと届けたのは紡だ。立ち上がれもしないくせに、全くあの意地っ張りときたら、あとで本当にお説教をしてやらなければ。いつも陸の無理や強がりを諫めてばかりいるくせに、同じ立場になればやっぱり無理をするのだから、相棒とたいして変わりやしない。ギリギリ叶えてやれるわがままを選んでねだるあたり、一織のほうがむしろタチが悪いかもしれない。
 もう、とため息をつきながら、紡はステージを見つめる。
 ステージを照らす光が一度全て落とされ、わずかな間を置いて、スポットライトがひとつずつ点っていった。
 6つめに点った明かりは、誰もいない床を照らす。そこにいるべき人の不在をことさらに強調するような演出に息を呑んだ観客を圧するように、最後のスポットライトがついて、舞台中央の最も高い位置で陸が大きく笑った。

 ――キミと笑いあえたなら どんな今日も変えられるさ

 そのたったワンフレーズで、全身に鳥肌が立った。
 両手を前に差し伸べながら、陸がゆっくりと歩く。陸を照らすライトと、一織を照らす筈だったライトが彼を追い、立ち止まった地点で交わって、圧倒的な声を響かせる彼の姿を煌々と照らし出す。
 星屑のような光をまといつかせながら、そこにいない人を抱きしめるように、陸の両手が愛おしげに泳いだ。

 ――また新しい夢を見ようよ Step on dream… 一緒に

 聞け、見ろ、と陸の全身が叫んでいる。オレの歌を聞いて。オレたちを愛して。不安になんかさせない。行こう、一緒に、どこまでも……!
 一瞬の静寂のあと、爆発するような、この日いちばんの歓声が上がって、あとはもう、舞台の全てが彼のものだった。

   *

『IDOLiSH7の和泉一織、急性虫垂炎で全国ツアー最終日に緊急搬送』
『七瀬陸、メンバー不在の窮地を救う奇跡の歌声』
『IDOLiSH7からIDOLiSH6へ!? 七瀬陸・和泉一織の深刻な不仲』
 翌日からしばらく、そんなタイトルの記事が芸能ニュースを賑わせた。
 メディアからの聖人君子扱いを厭う陸が、身近な喧嘩相手としてたびたび名を上げるのが一織だ。身内のフランクさで遠慮なくこき下ろす言葉に、一織は一織で彼流の毒舌を投げ返す。信者めいた熱心さで陸を応援する過激な陸ファンの中には、陸と一織の不仲説を信じ込み、一織を嫌うものが少なからずいた。そんな状況下でステージに穴を空け、しかもその不在を補って余りある見事な歌唱を陸が披露したものだから、一織を責める声が上がるのも必然ではあった。
 一織自身に非のあるトラブルではなかったとはいえ、ファンはいつでも素直で勝手なものだ。

《りっくん、一織がいないほうがのびのびしてて楽しそう!》
《一織くんって陸くんに意地悪ばっかりだから好きじゃない……》
《和泉一織ってなんであんな偉そうなの? 陸くんのほうが年上で歌もうまいのに。陸くん優しいから許してくれてるんだよ》

 けれど、始まりかけたバッシングを沈黙させたのもまた、陸だった。
「えっ、一織が辞めたらイヤだよ!?」
 突きつけられたマイクに心底困惑する様子の七瀬陸の表情は、誰が見てもまるきり彼の素にしか見えないだろう。
「あっ、ライブ良かった? ありがとうございます、嬉しいな! そうです、一織倒れちゃって。めちゃめちゃおなか痛くなったんだって。あとちょっとだったのになー! だから、アンコールは一織のために歌いました! あっ、もちろん、来てたみんなにも! ……一織ぃ、おまえのお小言がないと物足りないからさ、早く復帰しろよな!」
 カメラに向かって唇をとがらせ、かと思えばからかうような顔をして相棒を語り、笑いながら手を振る。ころころ変わる表情の豊かさや、歌唱中の凜々しさとのギャップに心を奪われる視聴者が続出したようで、コメント映像はSNSでどんどん拡散し、とどまるところを知らない。
 古くからのIDOLiSH7ファンにとってみれば「七瀬陸のトップオタ和泉一織」はもはや常識だ。彼女ら(一部彼ら)の懸命な活動もあって、一織を責める声、脱退を求める声は急速に小さくなっていった。
 そんなこんなの顛末を、一織は病院の個室備え付けのテレビと自身のスマートフォンを駆使して見届けていた。まあ、こんなものでしょう、と息をつく。見舞いに来ていた紡が、ころころと声を立てて笑った。
「以前からの熱心なファンのみなさんが、一織さんと陸さんのすてきなエピソードを色々語ってくださってるんですよ!」
「やめてください。見せないで。わかりましたから。まったくもう……」
「陸さん、素敵でしたね。いまのインタビューもですけど、あのリスポ……!!」
「同感です。あれが聞けるなら時々穴を空けてもいいかなと、ちらっと」
「い・お・り・さん!?」
「冗談です」
 珍しくくつくつと喉を鳴らして笑って、痛むんですから笑わせないでくださいよと憎まれ口を叩く。もうすっかりいつもの調子だ。
「可能な限り早く復帰しますよ。七瀬さんの隣は私の特等席ですから」
「はい!」
「それに、ライブでは頼もしいですが、私がついていないとあの人、どんなドジをやらかすか心配で――」
 言葉を交わしながら、ふたりの視線は自然とドアへと向いた。ぱたぱたぱた、という足音が、すぐそこまで来ている。ほどなく、バン! と音を立てて、病室のドアが大きく開いた。
「いーおりっ、元気? わっ、とと」
「ノックくらいしてくださいよ七瀬さん。それと病院では走らない! ほら足下に気をつけて、転んでこちらにダイブしてくるとか勘弁して。あと元気ならこんなところにいませんけど」
「お疲れさまです、陸さん!」
 飛び込んできた勢いで早速つんのめった話題の主に、一織が小言と文句を早口にまくし立てた。それがあんまりいつも通りの彼ららしくて、紡は思わず声を立てて笑う。陸がきょとんとして、それからつられたように笑い出した。無邪気な笑顔は、あの日の鬼気迫るようなボーカルとは別人のようだ。
 笑いすぎて滲んだ涙を、紡はそっと拭う。あの歌声は奇跡のようにすばらしかったけれど、あの場に居合わせたことを一生忘れはしないけれど、あれは舞台に立てなかった一織と引き換えにうみだされた、一夜の夢だから。
 陸があの歌声を響かせる日が、誰かの悔しさや無念や不安のために歌うステージが、もう二度となければいい。
 紡の最愛のアイドル、IDOLiSH7は、これまでも、これからも、あの七人以外にはいないのだから。