太陽が沈んだ日
『……仕方がありません』
ため息のように吐かれたその一言が、ずっと頭の隅で鳴っている。
体調が良くない。ここのところずっとだ。真冬の寒さを乗り切って、気が緩んでしまったのだろうか。寒暖差と舞い始めた花粉、厳しくなったスケジュール、新番組へ向けてのプレッシャー。脆弱な身体はすぐに悲鳴を上げて、陸を苛んだ。これまで簡単にできていたたくさんのことが、途端に難しくなった。
トークを含む生放送は、特に怖かった。センターである陸は、リーダーの大和と並んで発言の機会が多い。冠番組に向けて大事な時期なのに、咳き込んで喋れなくなってしまったら、みんなに迷惑をかけてしまう。
ネガティブな気持ちが体調不良を加速させることもわかっているのに、不安を抑えられない。そんな自分の未熟さが、自己嫌悪につながる。完全な悪循環だ。
陸の愛する賑やかな寮生活も、こんなときは辛い。深夜や早朝に咳き込むたび、高い確率で誰かが様子を見に来てくれた。隣室の一織と三月がその筆頭だ。学校もあって多忙な、年下の一織と、冠番組でMCの大役を担い、寮の切り盛りも壮五と二人で引き受けてくれている三月。二人とも忙しいのに、自分のために手を煩わせるのが申し訳ない。小言は言っても迷惑そうな顔を見せないからこそ、いっそう辛かった。自分が人並みに健康なら、こんな手間などひとつもかけさせなくていいのに。
迷惑をかけた分、働きで返したかった。自分の取り柄は歌しかない。ライブでの歌唱が特に魅力的だと、みんなが言ってくれる。加えて今回のライブには、ゼロアリーナのこけら落とし公演参加もかかっていた。マネージャーの演出プランも、いつも以上に力が入っていて、説明を聞くだけでワクワクした。
陸は張り切った。ライブの完成度を高めたくて、レッスンから全力を出し、自主練も重ねた。もう少しセーブしろと言われるたび、笑って首を横に振った。だって大事なライブだもん! オレなら大丈夫、もっともっといいものにしなきゃ! 頑張るね、オレ!
――そのあげくが、このザマだ。
後半にかけて、どんどん息苦しさが増した。それでも騙し騙し、笑顔を振りまき、跳びはね、声を振り絞った。一面のケミカルライトの海が、陸の名を呼ぶ無数の声が、仲間たちの笑顔が力をくれた。一織が何度も心配顔を向けてきたから、そのたびに安心させるように笑って、いっそう声を張り上げた。だって笑って欲しかった。みんなを役に立ちたかった。自分の歌で、仲間を輝く世界に連れて行くのだ。
セットリストを歌いきって挨拶をし、一度舞台袖にはけて――そこでぽきりと折れてしまった。
うずくまって、ゼイゼイと呼吸を繰り返す。どれだけ大きく息をしても、狭まった気道は酸素を十分に取り込んでくれない。苦しくて、苦しくて、涙がこぼれる。アンコールを求める声が遠く聞こえた。きっと目を輝かせて、サイリウムを振って、自分たちを待っている。
(うたわなきゃ、)
気ばかりが焦って、陸は溺れるようにもがいた。あとほんの少し、ほんの少しなのだ。
(立たなきゃ、笑って、)
みんなが待ってくれている。お客さんも、メンバーも。その期待に応えるためにここにいる。
(オレが、オレが行かなきゃ、センターなんだから、)
吸入を、という言葉を、必死で拒んだ。薬で呼吸が楽になって、立てたとしても、歌えなくなってしまったら意味がない。
だって、陸は歌うために、ここにいるのに。
IDOLiSH7の、センターなのに。
(早く、早く息を戻さなきゃ、立って、笑って、うごけ、うごけよ……!)
環と壮五が、陸に優しい声をかけて、ステージへ駆けていった。歓声があがる。MEZZO”の二人はいつだってそうやって先頭を駆けて、みんなを助けてくれている。
ごめんなさいの一言すらまともに言えなくて、締めつけられるように胸が痛い。
(オレも、やらなきゃ……!)
ライブが終わるまで歌うと約束した。歌いきれるなら、どんなに苦しくたっていい。
任せて貰ってるのに。期待してくれているのに。裏切るなんていやだ。
「――仕方ありません」
そう言ったのは一織だった。いつも通りの、冷静な顔をして、低く告げられる声が陸を断罪する。
「七瀬さんを抑えて。吸入器を!」
「一織ぃ……!」
抗議の悲鳴を上げた陸を見もせず、一織がスタッフに飛ばした指示を、誰も止めなかった。無慈悲な腕が陸の顎にかかる。大和が言い聞かせる優しい言葉も、陸の頭には半分も入ってこなかった。
(一織、一織! なんで、どうして、オレうたえる、うたえるのに)
苦しくて、悔しくて、悲しくて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
(スーパースターに、するって、おまえが、)
わかっている。わかっている。先に裏切ったのは陸だ。約束を守れなかった。歌えると言ったのに、歌えなくなった。できると言っておいて、折れてしまった。あんなに支えてくれたのに、陸でいいと、陸がいいと言ってくれていたのに。
きっと幻滅させた。
もう二度と信じてくれないかもしれない。
「っ、いやだ! できます、でき……っ」
器具が口元を覆い、薬剤が噴射される。絶望に押しつぶされながらも、身体は浅ましく回復を求めて薬を取り込んだ。
(――立た、なきゃ、せめて、わらって)
歌えなくなった。役立たずになった。あとは、そう、ステージへ、せめて、
「……っ、ゲホ、――――っ」
(どうして、)
身体に力が入らない。歌えないセンターに成り下がっても、声がもう出なくても、立てば、立てれば、まだ――
「――――、――――」
マネージャーが大和や一織と言葉を交わしている。耳にその音が聞こえるのに、言葉の意味が入ってこない。
仲間たちが立ち上がった。行ってしまう。背中を向けて、陸だけをこの暗がりに残して、輝く舞台へ、6人きりで。
ああ。
(……また、置いて行かれちゃった……)
涙が溢れて、視界がぼやける。あえぎながら、陸はその場にくずおれた。耳元で必死に呼びかけるマネージャーの声も、もう聞き取れない。
「……ごめん、なさ……っ」
白く光る舞台から届く、華やかで元気な音楽に重なって、陸の罪をあばく冷ややかな声が、繰り返し耳元に鳴り響いていた。