太陽が沈んだ日/夜が明けるまで - 2/2

夜が空けるまで

『一織ぃ……っ!』
 絶望に彩られたあの声が、いまも耳の奥にこびりついている。

 MEZZO”で時間を稼ぎ、無理矢理吸入器を使わせても、陸はその夜、立って笑うことすらできなかった。幸か不幸か、誰かの穴をフォローするすべは、全員が心得ている。ミューフェスで一織が失態を犯して以降、練習でも積極的に互いのミスや不調をカバーしあう習慣がついていた。最近調子を崩すことの多い陸のパートは、全員が歌えるようになっている。MEZZO”に続けて2曲、6人で歌って、盛況のうちにライブは終了となった。
 ――歌えても、それはとちらず歌えるというだけで、陸のようにパワフルに、魅力的に、心を揺さぶるような歌は、誰にも歌えやしないのだけれど。
 アンコールを歌いきって医務室に駆けつけたメンバーに、陸は泣きながら謝り続けた。そうすることで感情を高ぶらせ、いっそう呼吸が乱れる。泣き通しの陸を慰める言葉すらろくにかけてやれないまま、医務室を去るしかなかった。自分たちがその場にいる時間だけ、陸の苦しみは長引いてしまう。
 着替えの最中も、万理の運転する車中も、寮で代わる代わるシャワーを浴びる時間も、一織の脳内は反省と後悔がひたすらに渦を巻いていた。
 ライブ日程はわかっていたのに、陸の体調を整えるための方策は、まだまだあったんじゃないか。
 曲目も、ダンスも、MCでの間の取り方も、工夫の余地はなかっただろうか。
 ステージ上でだって、どうしてもっと、フォローしてやれなかったのだろう。
『嬉しかったんだ。センターだって言われて……。オレがいて良かったって言われて……』
 思い起こすのはいつかの陸の言葉だ。
『生まれて初めて、自分の人生を生きてる気持ちになった』
 あのときも苦しげな声音で、でも陸は笑っていた。
 100年分歌って死にたいと笑った彼を支えていくと決めた。支える手を拒まれないことが嬉しかった。彼に夢を見て、望みを託して、虹を越える歌声を願って、そうして陸と一織の二人ともが、夢を叶えていけるはずだった。
 ――なのに。
 一織の裏切りを責める陸の目、そこに浮かんだ絶望の色が忘れられない。
 あの場面では、ほかにすべはなかった。あれ以上に処置が遅れていたら、もっと酷い症状を招いていたかもしれない。もはや陸がステージに立つ選択肢はなかった。それでも、あのとき、陸を決定的に裏切る言葉を発したのは一織自身だ。
『七瀬さんを抑えて。吸入器を!』
 本当はあの場面で、自分が決断しなくたって良かったと知っている。陸の前にはマネージャーがいて、周囲には大和たち成人メンバーがいて、ライブのスタッフだって大人ばかりだ。最年少の、十七歳の高校生に過ぎない自分が言わずとも、あと数分、いや数十秒のうちには、同じ判断が下されていただろう。
 それでも言わずにはおれなかった。
 誰よりも陸の歌を願っている。彼が降らせる流れ星を望んでいる。だから、だからこそ、陸に歌わせないという罪を被るのも、一織でなければいけなかったのだ。
 それは一織のエゴだ。
「おおい、誰かまだ起きてんの~……、……イチ」
 タオルを肩に掛けた大和が食堂に顔を出し、一織の姿を見つけて咎めるように呼んだ。年若い順でと帰宅早々環と一織が浴室に押し込まれ、そのあとナギ、壮五、三月と続いて、大和がラストだ。これまでの全員に早く寝ろと声をかけられながら、一織は椅子から立てないままここにいる。一織を寝かそうとずいぶん粘った三月も、最後には根負けし、一織の前に甘いホットミルクを置いて引き上げていった。
「二階堂さん」
「早く寝なさいよ、湯冷めするぞ。おまえさんまで体調崩したらマネージャー泣いちゃうでしょうがよ」
「大丈夫です。これを飲んだら部屋に戻ります」
「寝るとは言わないあたり、イチは正直者だねぇ」
「…………。すみません」
 苦笑した大和が髪を拭きながら手を伸ばしてくる。くしゃりと髪を乱されて、一織はむっと顔をしかめながらもグループ最年長の青年を見上げた。
「……こけら落とし、どうなると思いますか」
「んー……。ま、難しいだろうな」
 芝居がかった仕草で肩をすくめ、大和は率直な回答を返した。いつからかは覚えていないが、二人だけでIDOLiSH7の話をするとき、大和は一織を子ども扱いしなくなった。それを知っているからこうして待っていた――などとは、調子に乗るだろうから口にしないけれど。
「ライブの出来は良かった。けどそのぶん、尻切れトンボに見えても仕方ないだろ。かえって印象が悪くなってもおかしくない」
「ええ」
 一織も頷く。紡の演出は素晴らしく、全員のパフォーマンスも質が高かったが、それだけに終幕での陸の不在は目立っただろう。
「……正直、悔しいです」
「そうだな。一回こっきりじゃなくて、何度か見て貰えりゃぁな……」
 呟くような大和の相槌に、一織ははっと顔を上げた。頬を張り倒されたような気分だ。
「それです、二階堂さん!!」
「お、おお?」
「一度のライブだけで私達の価値を決められてたまるもんですか。私達は常に進化してきた。こけら落としまで数ヶ月、さらなる進化を遂げることは間違いありません。過去の資料で私達の成長ぶりを示せれば、まだ目はあるかもしれない。今日のライブが完璧ではなかったことも、プラスに転じさせればいい」
「……成る程ね」
「私としたことが、時間を無駄にしました。すぐに資料を作成しなくては。鉄は熱いうちに打てですよ。明日、プレゼンに行ってきます」
 ガタンと椅子を鳴らして立ち上がる。冷めたホットミルクを一息で流し込み、流しに向かおうとした一織を、笑み含みの声で大和が呼んだ。
「イチ、イチ」
「なんですか、忙しいんですけど」
「俺も参戦するわ」
「……は?」
「プレゼン。お兄さん適任じゃない? IDOLiSH7いちスーツ似合う男ですよ」
「………………」
 じとりと目を細めて、一織は大和の胡散臭い笑顔を見つめた。こういう顔をすると、大和はちっとも本心を読ませてくれない。
 大和の思考を読むのは早々に諦め、一織は自慢の頭脳をフル回転させて、自分の都合だけを考えた。一織は年かさの男性受けはしやすいタイプだが、冷ややかな印象を与えやすい自覚はあるし、十代の高校生という先入観がデータ分析の信頼性を下げるリスクは残念ながらある。その点では同世代の紡も同じだ。最年長であり弁が立ち、演技達者な大和が加わるメリットは大きい。
「わかりました。お願いします」
「おっし。イチ、スーツ持ってたっけ?」
「昨年誂えました。七瀬さんの帰宅は朝一番になるそうですから、あの人を寝かせたらすぐに小鳥遊事務所に行きましょう」
「OK。じゃ、これは洗っとくわ」
 自然な手つきでカップが手から奪い取られる。とん、と廊下のほうへ押し出され、一織は小さく頭を下げた。
「……すみません」
「いーよ、俺もなんか飲んでから寝るし。――あとさ、イチ」
「はい?」
「リクに歌わせないって決めたのはあの場の全員だ。あまり、おまえ一人で背負うなよ」
「……………………」
 軽く唇を噛んで、一織は押し黙った。大和の言っていることは分かる。それでも、「はい」も「いいえ」も答えたくなかった。
 しばらく沈黙があって、大和が諦めたようにふっと吐息で笑った。引き留めて悪かったなと言いながら、しっしっ、と犬の仔を追い払うような仕草で泡のついた手を振る。
「……おやすみなさい、二階堂さん」
「お休み、イチ。また明日な。隈なんかつくってくるなよ」
「当然です」
 ぴしゃりと返し、一織は廊下に通じる扉を開けた。ひやりと冷たい空気に、反射的に身体が竦む。
 この温度差も、きっと陸の身体には良くなかっただろう。廊下用の暖房の導入、生活時間の見直し、できることはまだまだあるはずだ。これから取り組む資料作りも、明日のプレゼンも。そうだ、陸の部屋も整えておかなくては。
『一織……!』
 耳の奥ではまた、陸が懇願の声を上げている。
(あなたを歌わせてあげたかった)
 どんなにか歌わせてやりたかったか――陸にだけは知っていてほしい、だなんて、エゴイズムの極みだ。
 ふるふると頭を振って、一織は胸に浮かぶ感傷を追い払った。
 この後悔は、この罪は、これからの働きで償っていくしかない。

 決意を込めて、ぎゅっとこぶしを握った。
 夜明けは、まだ遠い。