「やあ、いい夜ですね」
突然の声に、絵描きは驚いて顔を上げました。
夜風がふわりと頬を撫でます。一体どこからやってきたのか、黒ずくめの男が気取った姿勢で窓枠に腰かけていました。
星のもようの帽子からこぼれた、ひとふさだけ色のついた髪が、風を受けて弾むように揺れています。
絵描きは思わず、描き上げたばかりの絵に目をやりました。絵に閉じ込めた、きらびやかな空間の真ん中には、シルクハットの男が手を広げ、魅惑的に笑っています。
そうです。窓辺にいるのは、ショーの始まりを告げた、あのクラウンでした。
「こんばんは、絵描きさん。お会いできて光栄です」
軽やかに室内に舞い降りたクラウンは、優雅に一礼するとそう言いました。聞き覚えのある涼やかな声が、しっとりと優しく耳に届きます。
絵描きは不思議な気持ちになって、ぱちぱちとまばたきをしました。
窓の外の広場ではかれの一座による賑やかなショーがいまだに続いているのに、真っ黒なマントをまとったクラウンは、まるで夜空のように静かで、神秘的なたたずまいなのでした。
「……あの……」
「たそがれ一座のショーはいかがでしたか、絵描きさん?」
「えっと……とってもすごかったよ。きらきらして、楽しくて、夢みたいで……観てるみんなが笑顔で……」
「それで、その絵を?」
「うん……。オレの絵なんかじゃ、とうてい描ききれないけど」
問われるままに、絵描きはショーの感動を語りました。そうしながら、絵の具で汚れた服の胸元を、ぎゅっと握りしめます。
ひとびとの笑顔と歓声にみちたショーは、絵描きにとって憧れそのものでした。あんなふうに、誰かを楽しませることで生きていけるなら、どんなに幸せでしょうか。
クラウンは絵描きの言葉にちいさく首を傾げると、大股に絵描きに近寄り、ようやく絵の具が乾いたばかりの絵を、ひょいと取り上げました。
たよりない室内灯のあかりと、窓の下からさすショーのライト、空からさしこむ月光にすかすように、両手で絵を高々とさしあげたまま、クラウンはくるりくるりと回ります。漆黒のマントが広がって、絵描きの膝をやわらかく撫でるようにかすめました。
それはまるで、たったひとりのためのショーのようで、絵描きは制止の声をあげるのも忘れて見入ってしまいした。
「――かってにさわんな!!」
背後から聞こえた怒鳴り声に、絵描きはおどろいて振り返りました。部屋の入り口に、友人の庭師が立っています。片手に抱えた紙袋からは、明日の朝食にするパンが覗いていました。焼きたてのパンを買うお金はないので、夜まで売れ残って固くなった安売りのパンが、ふたりのいつもの朝食なのでした。
庭師のけわしい顔など知らぬげに、クラウンは絵描きの絵を大事そうに抱えると、そっと頬を寄せました。いとおしげな表情はそれ自体が一幅の絵のようで、絵描きは息をのみました。どうしてでしょう、夜の色の道化師に抱えられた自分の絵までもが、まるで別のもののように輝いて見えるのです。
「貴方の絵がとても気に入りました。このたびの見物料として、これをいただきましょう」
「はぁ!? だめに決まってんだろ!」
腕の怪我も構わずクラウンにつかみかかろうとした友人に、絵描きは必死でしがみつきました。
「まって!」
「なんでだよ! だって、だってあんたが最後に……! 盗まれていいわけないだろ! おい、かえせよ!」
「ううん、いいの」
絵描きは静かに首を振ると、クラウンにまっすぐ向き直ります。
「こんな絵でもいいなら……その絵、きみにあげる。ううん、貰ってほしい」
「でも!」
「絵は、また描けば良いから」
絵描きのことばに、庭師は目を円くしました。それから泣き出しそうにくしゃりと顔を歪めて、うんうんと何度も頷きました。暮らしのために絵をやめて働きに出ると言ったことを、この優しい友人は、ずっと気にしてくれていたのです。
ほんの少し前、最後の絵を描き上げて筆を置いたときには、絵描きもすっかりそのつもりでした。優しい友人のほかには誰も見てくれない絵なんて、もう描く意味はないと思っていましたから。
「オレの絵を見つけてくれてありがとう」
絵描きはそう言って、クラウンににっこり笑いかけました。
クラウンは静かなまなざしで、庭師と絵描きのふたりを等分に見やりました。何かを言いかけて開いた口が、次の瞬間、華やかな笑みを浮かべます。
シルクハットを持ち上げ、クラウンはふたたび優雅な礼をしました。
「うつくしく描いてくださって、こちらこそ礼を申しましょう。すてきな絵描きさん。どうぞ、良い夢を」
身を翻したクラウンは窓枠に足をかけ、ふと、肩越しにふりかえりました。あざやかなウィンクがひとつ、絵描きに贈られます。
「――もうひとつの宝物は、いずれ」
最後に謎の言葉を残して、クラウンは窓から飛び降りました。わっと声を上げて、絵描きと庭師は窓に駆け寄りました。絵描きと友人が住まいとして借りているのは、広場に面した建物の屋根裏部屋です。落っこちたら軽い怪我ではすみません。
ほうき星のしっぽのような七色の光が、慌てる二人の前を大きく横切っていきました。光をはなつのは、あのクラウンです。よく見ればクラウンは、上空の空飛ぶ船から下がったロープを掴んでいるようでした。漆黒のマントがひるがえり、下に着込んだ鮮やかな衣装がきらきらと空に輝いています。
地上から大きな歓声が上がりました。広場に集まった人々は空を見上げ、まるでショーのクライマックスを見るように顔を輝かせます。窓から身を乗り出した絵描きにも、民衆の視線が注がれました。窓を指差して、興奮したように声高に叫ぶものもおります。
クラウンは、絵描きの部屋の中でそうしたように、絵を掲げてくるりと回ると、最後に絵の中のかれと同じポーズを取りました。それからまた黒いマントに身を包むと、夜に溶け込むように姿を消しました。
花火が一斉にはじけ、楽器が吹き鳴らされました。
そうして、それで終わりでした。空飛ぶ船は速度をあげ、遥か遠くの空へと飛び去っていきます。広場に満ちたどよめきと、惜しむ声を聞きながら、絵描きは飛行船がすっかり見えなくなるまで、じっと見送るのでした。隣に寄り添った友が、そっと背を撫でてくれました。
涙がひとつぶ、その頬からぽろりとこぼれて、窓枠にはじけました。
たそがれ一座に絵を盗まれた絵描きの名はたちまち街に知れ渡りました。好事家が入れ替わり立ち替わりやって来ては、盗まれた絵と同じ絵を欲しがりました。
同じ絵は二度と描けないからと、絵描きはそのような依頼をすべて断りました。好事家たちは悔しがりましたが、中には絵描きの別の絵を気に入って買い求めるものもいました。絵描きがあたらしく描いた絵にも、高い値がつきました。絵描きの絵が多くの人に愛され、多くの人を笑顔にするまでには、そう長くはかかりませんでした。
怪我の癒えた庭師も、以前のように仕事に戻りました。ふたりは少しだけ広い部屋に引っ越し、朝には焼きたてのパンを食べて、楽しく暮らしています。
絵描きの描く絵は、街のあちこちに飾られ、ひとびとの目をよろこばせています。
絵描きは時々、自分のためだけの絵を描きます。絵描きの私室に飾られた絵の中で、シルクハットをかぶった美しいクラウンが、夢見るように微笑んでいます。