「声を?」
「はい。それで、皆さんに状況を伝えられなくなってしまって……」
「それは、お辛い思いをなさいましたね」
きれいな細い眉をひそめながら、シャイロックは新しいグラスをカウンターに滑らせてくれた。夜空のように深い色をした飲み物の中に、紫色が幾筋かゆらめいている。
「わぁ、きれい」
思ったままを口にすると、シャイロックは口元を綻ばせた。
「大冒険をなさった賢者様に、敬愛を込めて」
「いえいえ、俺は喋るのが精一杯で。皆さんのほうが何倍も凄かったです!」
「ご謙遜なさらないで。賢者様のおかげでみな、状況が把握できたんですよ。そのあとも、ずっとご覧になっていらした?」
「そうなんです。見えているのになにも言えないから、もどかしくて……」
苦笑いをしながら、カクテルを一口含む。彼の労りの気持ちが伝わる、ほわりと優しい味がした。
グラスの中に揺らめく紫色は、シャイロックの吐き出す魔法の煙にも、少し似ている。
「でも、こんなこと言っていいかわかりませんけど……、すごく心配で、ハラハラしましたけど、少しだけワクワクもしました。みなさんがかっこよくて」
「あら」
目を細めながらシャイロックは首を傾げる。卵形の輪郭の周りに垂れた彼の黒髪が、その仕草を追いかけて揺れた。魅力的なひとだなと、もう何度目かもわからないことを思う。何気ないふとした動きにも、視線を奪われる。
空の魔獣バジリスクすら、彼に見惚れていた。もちろん、あれは彼の魔法なのだろうけれど……。
「我々のところでは、ネロが活躍してくれましたからね。シアンという少女はかわいそうでしたが、あのネロの戦いぶりは、普段はなかなか見られない活劇だったのでは?」
「はい。それに、シャイロックも……。バジリスクまで手玉に取っているみたいで、空を飛びながら踊っているような、なんていうか……、すごく魅力的で、きれいでした、とっても」
「あらあら、褒め上手の賢者様」
嬉しげに微笑んで、シャイロックはどこからともなく取り出したパイプをくわえた。
「よかった。賢者様にお楽しみいただけたなら、らしくもなく張り切った甲斐がありました」
「えっ」
「わくわくするものや、見応えのあるものは、気持ちを前向きにしてくれるでしょう?」
「……俺のために……?」
「声が届く前から見ていらしたようでしたから、声が絶えてもまだ見えている可能性はあるだろうと。ご不安でいらっしゃると思いましたから、せめてね」
口元に指を当てて、チチチ、とシャイロックは舌を鳴らす。ひゃあ、と俺は思わずおかしな声を上げて、ごまかすようにカクテルを口にした。
空の魔獣までも翻弄した魅惑の魔法は、真似事でも、はっとするほど蠱惑的だ。
あの一瞬、俺は心配も不安も忘れて、シャイロックが夜空に描く曲線に目を奪われていた。美しい空中ブランコ乗りみたいだと思ったあの魔法は、確かに、俺ひとりのための贅沢なショーでもあったのだ。
「……みんなも?」
「ネロはさすがに、それどころではなかったと思いますが。ムルは気づいていましたね、いつもより花火が豪華でした。いい景気づけだったでしょう? あとは、ブラッドリーも、おそらく……。あのひと、格好つけがお好きですし」
そこまで話して、シャイロックはくすりと楽しげに笑う。俺も笑った。
「結果としては、あまり格好はつきませんでしたが。まさか、あのタイミングで飛んでいくなんてね。お気の毒に」
「あはは! あのときはリケやシノたちが心配で笑い事じゃなかったですけど、思い出しちゃうとちょっと、おかしいです」
「ふふ」
二人で笑っていたら、くしゃん!という声が聞こえて、俺とシャイロックはカウンターを挟んで顔を見合わせる。
どこからともなく落っこちてきたのは、話題の主、ブラッドリーだ。
すごいタイミングだ。
「クッソ、またかよ……。ん? 西のバーテンと賢者じゃねえか。てことは魔法舎のバーか。意外と近かったな。――なんだよ、変な顔してんな?」
「いやいや、すみません、こっちの話で……あはは」
「ふふ。ちょうど、あなたの活躍の話をしていたんですよ。共闘の記念に一杯、いかがです?」
「お、いいねえ。お上品なのはいらねえぜ、とびきりキツいのくれや」
「では、夜空を焦がす炎のカクテルを」
シャイロックが中空に指先を踊らせ、ブラッドリーの手元に重そうなタンブラーが飛んでいく。シャイロックは手元に彼専用のグラスを引き寄せて、傍らのボトルからワインをなみなみと注いだ。いつの間にか俺の前にも、新しいグラスが置かれている。
真っ赤な炎が沈んだお酒を満足げに眺めて、ブラッドリーはにやりと笑った。
「よっしゃ、乾杯と行こうぜ。賢者、音頭」
「俺ですか!? ええっと……じゃあ、不思議な夜の冒険に」
「乾杯!」
「乾杯」
グラスを掲げると、りいん、ときれいな音が鳴る。
飲み干したカクテルからは、刺激的で、魅惑的な味がした。