* * *
【後編】
そして数年後の、いまである。
新開が電話で知らせてきた検索ワードを福富はタブレットに打ち込む。幾度かのタイプミスの末にようやく教えられたページにたどり着いた。外国語のサイトだ。英語ではない。独特の符号からして、おそらくスペイン語だろう。
サイトのロゴからは自転車関係のサイトであることが類推できる。レースの結果を伝えるニュース記事のようだった。ページの中央に大きく掲載された表彰台の写真、その真ん中。
七年が経ち、少年時代よりずっと精悍になっていたが、福富が見まがうはずがない。
――東堂尽八。
忘れ得ぬ男が、誇らしげに花束を掲げて、大きく笑っていた。
『尽八だろ。尽八だよな! 見つけたのは小野田くんらしい。真護くんと真波がほとんど同時に連絡くれたぜ。寿一んとこにも行ってないか』
新開の言葉に脳の片隅で、そういえば新開からの電話を取るときに見えた待ち受け画面に通知がきていたなと思い出す。だいたいマナーモードにしているプライベート携帯を福富はそれほど頻繁に見ない。新開からの電話が一発でつながったのは、新開が福富の生活サイクルをよく把握して、つながりやすい時間にかけてくる癖がついているからだろう。
新開に相槌を打とうとして、だが福富の唇は勝手に動いてひとつの名前を吐き出した。
「東堂」
電話の向こうで、ふ、と笑う気配がした。
「東堂」
『うん。尽八だ。寿一』
「東堂――」
今度はぐすっと鼻をすする音。
『うん。――よかったなぁ寿一。尽八、いたよ、走ってた、すげぇなあ、スペインだって……』
新開の声が福富の耳から遠ざかってゆく。食い入るように、福富は画面を見つめた。ふるえる指が、なつかしい面影を残す顔に触れる。タブレットのディスプレイが反応して写真をズームした。
拡大されたぼやけた笑顔に、福富も少し笑う。
ほかの誰かが浮かべるならまるで鼻持ちならない顔になるのだろう、目も口もおおきく開いた笑顔は、いまも変わらず東堂によく似合っていた。
とうどう、と、囁くように呼ぶ。
ぼやけた写真がさらにぼやけて、見えなくなる。
新開からの電話は、いつの間にか切れていた。
それからしばらくして、日本の自転車競技界をひとつのニュースが駆けめぐった。インターハイ初日の山岳リザルトをはじめとして数々のヒルクライム大会を制し、超高校級クライマーとしてその名を馳せながら、卒業以来ぷっつりとレースから姿を消していた「箱根の山神」東堂尽八が、ヨーロッパのプロコンチネンタルチームと選手契約を結んだという電撃的な知らせだった。
イギリスを拠点としてヨーロッパ各地のアマチュアヒルクライム大会に出場し続け、数年かけて実績を積み上げた東堂を、現地チームのスカウトが目に留めたのだという。実はかなり以前から、ヨーロッパ在住の日本人ロードレースファンや欧州のレースを取材する記者たちのあいだで東堂の挑戦のことは知られていたらしいが、東堂本人の意向によりかたく口止めされていたという。「成功するまえに浪花節で有名になるなど、どうしようもなく格好悪いだろう!」協力するかわり、東堂が目論見を果たした暁には独占インタビューの権利を約束していたという、とある記者の署名入りの長い記事のなかで、東堂がかつてその記者に言い放った台詞が引用されていた。
それにしてもその存在の消しっぷり、さすが森の忍者、スリーピングクライムの東堂だと、日本の自転車乗り・自転車好きネットワークは沸きに沸いた。もう七年も前、U18のカテゴリで一年と少し活躍しただけの選手が、通り名込みでこれほど記憶されていることが、東堂が人々に与えた鮮烈な印象を物語っている。もっとも、東堂の名が知られているのは、自転車競技界で知らぬ者のない若きクライマー・真波山岳が、印象に残る選手としてたびたびその名を口にしていることも、理由のひとつではある。ちなみに誰もが認める真波のライバルといえば同い年の小柄なハイケイデンス・クライマー、小野田坂道だが、その小野田は小野田で、高校時代に薫陶を受けた巻島裕介の名を頻繁に出すのだからお互い様だった。東堂と巻島の現役時代を知らなくても、高校時代にライバルとして山を競ったふたりのエピソードは知っているという競技ファンも、いまや少なくないほどだ。
東堂のニュースでその真波のもとには大量の問い合わせが舞い込んだらしいが、SNSのアカウントに彼自身が投稿した率直なコメントはどう見ても東堂の近況を知らなかったとしか思えないもので、真波への追求もすぐに下火になっていった。
金城のもとには珍しく、巻島からの連絡――という名の言い訳――が届いたらしい。拠点がイギリスと知った東堂の知人の多くが想像したとおり、ひそかに東堂を援助していたのは巻島だった。内容は現地での住居や生活費を稼ぐための仕事の斡旋、なにかしらのトラブルに見舞われたときの通訳その他のヘルプ。
けどなァ、と巻島は金城に言ったそうだ。
オレが手伝ったのなんて、こっちに来た当初の数ヶ月くらいのもんショ。あとはぜんぶ、アイツがひとりでやったことだ。
懐かしい口癖と、そこにのせられた誇らしげな響きまでそっくりに口まねしてのけたのだから爆笑ものだったと、福富に教えてくれたのは荒北だ。金城同様、大学院を卒業して就職し、競技者の一戦からは退いた荒北も、休日に開催されるアマチュアレースでは上位の常連であり、オフシーズンには福富や新開、箱根学園の後輩たちと走ることもある。
東堂のチーム入りがニュースとなってから最初の週末にも、そうした恒例の集まりがあった。荒北が金城の声真似エピソードを披露したのはそのときだ。巻島の真似をする金城の真似をする荒北というサービスつきだった。
腹を抱えて笑った新開が、目尻の涙を拭いながら言った。
「尽八が帰国したらここに呼ばねえとな!」
「おお、どんだけ速くなってんだか確かめてやんねぇとなァ」
笑いがわきおこった中、目をギラつかせたのは真波だった。
「違うでしょ。オレらが呼ぶんじゃなくて」
口角を上げる獰猛な笑みは、山頂を狙うときの彼の顔によく似ている。
「東堂さんのとこ、殴り込みにいきましょうよ」
真波の言葉に誰もが唇を引き締めた。中でも現役レーサー組は表情を一変させたし、荒北のようにいまは別の職にあるものも、それぞれ思うところのある顔になった。
「オレね、決めました。東堂さんより先に、グランツールで山岳賞、獲ってやる」
ぐっと拳を握って、真波は言い放つ。グランツールに出る、でも、完走する、でもない。日本人で誰もかつて成し遂げたことのない遙か高い目標だ。どこか近視眼的な印象のあった真波らしからぬ、けれども一方でとても真波らしい台詞だった。
「――そうだな、尽八に負けてらんねえ」
にっと笑った新開が、なぁ寿一と振り返る。
ああ、と福富は重々しく頷いた。
「ならば俺はマイヨ・ジョーヌを着よう」
するりと唇から出た言葉が心臓を鳴らす。マイヨ・ジョーヌ、黄色いジャージ。ツール・ド・フランスを総合タイム一位で走る選手のあかし。
握ったこぶしを突き出しせば、いくつものこぶしが並んで、ごつりと堅い衝撃を骨に響かせた。
* * *
ヨーロッパの空気は日本とはまるで違うと、福富は空港に降りるたびに思う。南欧のからりと乾いた空気、北部の冷たく冴えた空気。どちらも日本の、そのなかでも福富のよく知る関東地方の、しっとりと重いそれとは別物だ。
これまではそれを異国情緒と受け止めることもできたが、これからはこの空気こそが福富の日常になる――少なくとも、これから数年は。
挨拶をするように、福富は深く深く息を吸った。
この地のどこかに、東堂がいる。
二年前、存在を隠すのをやめた東堂だったが、しばらくはそれほどメディアを騒がせるわけでもなかった。「結果を出せたら、そのときはぜひ大いに騒いでくれ!」くだんの記者が東堂のそんな言葉を伝えて、数ヶ月。
クラシックと呼ばれるワンデーレースの表彰台に立つ東堂の写真が、日本のスポーツニュースを華々しく彩った。惜しくも優勝は逃したが、僅差の二位。欧州を走る日本人レーサーすらいまだ片手の数しかいない中、間違いなく快挙だった。
一介の高校生であったころから、関東各地のレースに出るのを追いかけて沿道で応援するほどの熱心なファンが、他校にまでいたような東堂である。容姿自慢の俳優にも劣らない整った顔立ちに、クライマーとして細く引き締まった肢体。数カ国語を苦もなく操るトークは抜群にキレを増して、謙虚を美徳する日本人らしからぬ自信に満ちた言動を聞き苦しくなく彩る。自転車というマイナースポーツの枠を越え、まじめなスポーツ番組も、ミーハーなワイドショーのリポーターも、競うように東堂を扱った
そんな東堂の活躍を横目に、福富はがむしゃらに競技に打ち込んだ。自転車を始めてこのかた、つねにあたう限りの努力をし続けてきたつもりではいたが、まだ余地があったのかと自分自身でも驚くほどだった。
長く、それでいて短い二年間だった。いくつものレースに勝ち、日本選手権を連覇し、海外遠征でも成績を残した。そして二十七歳を目前に、福富に舞い込んだのは待望の知らせ――欧州某国のチームからの移籍の誘いだった。
滞りなく移籍の手はずを整え、あとは福富自身が欧州へ飛ぶばかりとなって、福富は金城を通じ、イギリスの巻島に連絡を取った。
『やっとかァ、福富ィ』
国際電話越し、巻島は懐かしい声音で笑った。
空港でタクシーをつかまえ、予約をしたホテルに福富は向かった。チェックインを済ませて荷ほどきをし、長旅で皺の寄った服を脱いでシャワーを浴びた。
ホテルの一階にカフェがある。そこで、東堂と待ち合わせをしていた。
東堂に会いたいのだと電話越しに告げた福富に、だから遅いっつの、とだけ巻島は言った。直接連絡を取れとはねつけられることも考えに入れていた福富は拍子抜けしたが、巻島はまるで待ち構えていたような手際の良さで、とある街の名と、いくつかの日取りを挙げ、福富の都合を問うた。その結果、チームに合流する二日前が、約束の日となった。まだ半ば夢を見ているような気分で飛行機とホテルの手配をし、再度巻島に伝えると、巻島はあの独特の調子でクハと笑って、言った。
『いいかげんあのバカ、とっつかまえろよォ』
飛行機の遅れも考えて指定した時刻にはまだ余裕があったが、福富は少し思案して、カフェに向かうことにした。本でも読みながら待つのも悪くない。これまでの気の遠くなるような年月に比べれば、それはどんなにか幸せな時間だろう。
カフェの扉をくぐり、空いている席を探そうとした福富は動きを止めた。窓際の席、手にしていた文庫本をぱたりと閉じて、まっすぐにこちらを見つめてくる黒髪の東洋人――
東堂は福富を認めて、にこりと笑った。
「ひさしぶりだ、フク」
向かいの席に腰をおろした福富に東堂がかけた第一声はそれだった。
「……ああ。久しぶりだ。東堂」
まるで長く会わなかった古い友人のようなあっさりとした言葉は、この場にふさわしくないようで、しかししっくりと馴染むようでもあり、福富も結局は似たような挨拶を返す。
「契約おめでとう。今期からはライバルだが、おまえがこちらにいるのは心強いよ」
「ありがとう。――おまえの活躍こそ、みごとだ」
心からの賞賛に、東堂はふふ、と口角をあげて頷いた。
寄ってきたウェイターに福富はクリーム入りのコーヒーを頼む。続いて向けられた視線に東堂は首を振ってウェイターを下がらせ、懐かしげに目元をたわめた。
「おまえは相変わらず甘いものが好きなんだな」
羽毛で心を撫でられたようなくすぐったさに、福富の唇も緩む。東堂の前に置かれた小さなカップの四分の一ほど残った液体は真っ黒で、おそらくは砂糖も入っていない。クライマーとしての節制もあったろうが東堂は渋いものや苦いものが得意で、こうした店ではよくブラックコーヒーを飲んでいた。福富はといえば昔から甘いもののほうが好きだ。高校時代には、見かけの印象と食の好みが真逆なふたりだと笑われたものだった。
福富の飲み物が運ばれてきた。それを少しずつ減らしながら、ふたりはぽつぽつと会話をした。どこかうわすべりしたような世間話。
福富のカップが空になったところで、東堂がウェイターを呼んだ。ふたり分をさらりと支払い、東堂はすくい上げるように福富を見上げて言った。
「おまえの部屋に入れてくれ」
東堂を先に通し、福富は扉を閉めた。オートロックのキーがかかるガチャリという音がやけに響く。カードキーを所定の位置にセットすると照明がついて、室内を照らした。安くもないが高級でもない、それなりのホテルのそれなりの部屋だ。
ふむ、と頷いた東堂が、くるりと振り向いた。東堂の黒髪がその動きに少しだけ遅れて、彼の頬のまわりを舞った。高校時代にトレードマークにしていたカチューシャはもうなく、そのせいか前髪は当時より短くなっていたが、男性にしては長めにととのえた全体のシルエットはあまり変わらない。さらさらと指通りの良さそうな黒髪の艶もそのままで、だがその髪にふちどられた顔は歳月をたしかに刻んでいる。かつて少年らしいやわらかさのあった頬はずっとシャープになり、顎の骨もすこし角張った。
大人の、それも厳しい戦いを経てきた男の顔で東堂は福富を見つめ、囁くように、フク、と呼んだ。
東堂がその続きを言うまえに福富は一歩半の距離を詰めて、東堂の二の腕を掴んだ。細く見えてしっかりと筋肉のついた競技者の腕にかかった無骨な指に、許されるぎりぎりの力を込めた。
「東堂」
真珠色の歯を見せていた東堂の唇が閉じて、福富の言葉を待つ姿勢になった。
「俺は、いまでも、おまえを愛している。東堂」
いつか文字にして送った言葉と一言一句変わらぬ台詞を、福富は低く告げる。
福富を見つめる東堂の視線は揺らがない。こうして近くで見ればやはりその顔立ちは息を飲むほどに秀麗で、けれども福富の見覚えている少年はもうどこにもいないのだとよくわかった。みずみずしく張りのあった肌は水質の違いもあってか乾いてかさついていたし、少女めいた赤みのあった唇もその面影を失い、日に焼けて、すこし荒れていた。そうした細部の違いで記憶のなかの彼の姿を塗り替えながら、福富の心を占めるのはやはり変わらない確信だった。
ああ、この男を、どうしようもなく愛している――と。
福富の性急をとがめるように、東堂の唇が笑みの形をつくった。
「おまえが愛しているのは、目の前にいるこの俺ではなくて、昔の俺の幻影――」
ぴっと伸ばされた東堂の人差し指が、福富の胸の中心、心臓のあるところを突く。
「――ではないという、根拠は?」
「わからない」
正直に福富は首を振る。
違うと言いきれるほど、現在の東堂の内面を福富は知らない。メディアで垣間見るたびに変わらぬ思慕を自覚し、今日こうして相対して確信を深めたけれど、それは福富の胸の中のことだけで、聡明な東堂にそれを証明するすべなどない。
「だが、あれからずっと、おまえ以外を想ったことはない」
東堂は黙って福富の言葉を聞いている。純日本人の色素を揃えた容貌のなかでそこだけが不思議な色味をした瞳が、鏡のように福富を映していた。
鉄仮面などと呼ばれ、表情豊かな東堂とは対極にあった顔にあらわれる福富の感情のわずかな機微を、東堂はいつも上手に汲み取ってくれていた。いまはどうだろう。福富の不器用な表情筋のうちがわにある、内臓を灼くような渇望は、目眩のしそうな焦燥は、東堂に見えているのか。
レーサーとして欧州に渡り、もう一度近い距離で日々を過ごして、それから伝えればいい言葉だったのかもしれない。そうすれば、やはりおまえが好きなのだと、その言葉にいま以上の真実味を持たせることもできただろう。
だがもうこれ以上待てない。待てなかった。
「これが、証明になるとも思わないが」
東堂の腕の輪郭を辿るようにして、福富はその手を取った。視線はそのままに、引き寄せ持ち上げて、爪の先に唇を寄せる。
「おまえを抱きたい。東堂」
ようやく告げた福富を、東堂はじっと見上げた。
耳の痛くなるような沈黙が続く。
そのあいだ福富は、湖面のように凪いだ東堂の瞳を見つめ続けた。
そうしてどれだけ立ち尽くしていただろう。
東堂が、ふっと表情を和らげた。穏やかにほほえみ、さらりと彼は言う。
「そのために来たんだ、フク」
シャワーを浴びたいと言った東堂に頷いて浴室に送り出し、福富はつけたばかりの部屋の照明を薄暗く落として、日本から持参したものをスーツケースから取り出した。パッケージを破ってゴミを捨て、使いやすいようにチェストの上に備える。それからすこし思案して、ボクサーパンツ一枚を残して衣服を脱ぎ、部屋に備えつけのバスローブを上から羽織った。
手持ちぶさたに待つことしばし、東堂が腰にバスタオルを巻き付けた姿で浴室から出てきた。先ほどまで着ていた衣類はざっと畳んで重ねたようで、壁際のデスクの上にぽんと置く。
チェストの上を見やって、東堂はくすりと笑った。
「用意がいいな」
「こういうものは日本で買ったほうが質がいいのだろう」
「そうだな。だがフクのスーツケースにこれらが入っていたと考えると、なかなか楽しい」
くっくっと肩を震わせながら東堂は歩み寄り、無造作にベッドに腰をおろした。一見リラックスした風情だが、見たことのないほど緊張しているのが、どうしてか福富にはわかった。昔は考えを読まれるばかりで、東堂の考えていることは本人に説明してもらえなければわからないほうが多かったというのに。
「――東堂」
「うん?」
「いまさら言うのも卑怯かもしれないが――さきに謝っておく。俺はこういうことの経験がない」
さすがの東堂も、これは予想外だったらしい。目を円くした。
「……一度も?」
「一度も」
「そうか。いや、フク、それは、」
顔を赤らめ、右のこぶしを口に当てて、東堂はもごもごと呟く。
「……謝ることではないだろう……」
「そうだろうか」
「うむ。その、なんだ、やりかたは?」
「ひととおりの知識はある。――同性との行為についても、調べた」
そうか、ならいい、と頷き、東堂は眉を下げた。
「いや、謝るのは俺のほうだフク。俺はそんなにきれいじゃない――すまんね、俺はこれまでに女を何度か抱いたし、」
ばつが悪い場面で髪を何度もかきあげるのは、いまも変わらない東堂の癖のようだと、福富はほほえましいような気分で考えた。不思議と嫌悪感はなく、むしろ東堂ならばさもありなん、と納得しただけだった。
「……男もだ。抱いたし、……抱かれたこともあるよ」
「そうか」
「俺こそ、いまさらのことを言うよ。それでも、いいか?」
「構わない」
きっぱりと言って、福富は東堂の上にかがみ込んだ。
東堂の頬を片手で包み、形のいい耳を中指で撫でる。
「――かなうなら、俺が最後になるのであれば、嬉しい」
そっと落とした口づけが深くなるまでに、いくらもかからなかった。
初めては経験豊富な相手がいい。飲み会の席でそう力説したのは、大学時代の部の先輩の誰かだったか。どこからを経験豊富と言うのかは福富にはよくわからないが、東堂はおそらくその範疇だろう。
そんなことをぼんやりと思い出していると、東堂が顔を上げ、とがめる表情を作った。
「こら。集中しろ」
「いや……しかし」
気を逸らしていなければ、みっともないことになりそうだ。なにしろ現状といえば、ベッドに腰掛けてバスローブのまえをはだけ、ボクサーパンツをさっさと取り払われた福富の足のあいだに床に膝をついた東堂が陣取って、手と口で福富の屹立したものを刺激しているという状況なのである。粘膜をすりあわせるキスだけで半ば以上臨戦態勢になったそれは、東堂に容赦なく育てられて張りつめきっている。ねっとりと性器を濡らすものは、東堂の唾液だけではすでにない。
「それとも、一回出してしまうとしばらく無理か?」
「いや、それはない」
男の沽券にかけても即座に首を振ると東堂は笑って、なら、と言いながらてのひらで先端をぐるりと撫で、福富を呻かせた。
「一度出してしまえ。そのほうがおそらくあとが楽だ、おまえも、――俺も」
「ウム……くっ、う」
れろりと長く出した舌で裏筋を何度かなぞってから、ぱくりと深くくわえた東堂が、口内をきゅっと吸い突かせたまま顔を前後させた。同時に手で陰嚢をなぶられ、とうとう福富は我慢を手放す。
「はな、れろ、東堂……っ」
命令なのか懇願なのか福富自身にもわからなかった言葉は、こちらを見上げてにんまりと細められた目に無慈悲に断られ、福富はなすすべもなく東堂の口の中に精を吐き出した。
福富から離れた東堂が腰のタオルを外し、口の中のものをぺっと吐いて、別のきれいな場所で口を拭う。そのタオルをまるめて床に捨て、ベッドに乗り上がった東堂を、福富はまじまじと見つめてから口を開いた。
「……東堂」
「うん?」
「おまえ、俺に幻滅させようとしてはいないか」
東堂がぱちぱちと瞬きをして、苦笑する。
「わざと幻滅させようとしているつもりはないんだが……そうだな、幻滅するなら早めにしてくれとは思っているかもしれないな。いざというときになってやはり無理だと言われるのは、さすがの俺でも勘弁願いたい」
「幻滅は無理だぞ、東堂」
真面目くさった顔を作って、福富は重々しく言った。
「これまでにあらかた想像し尽くしたが、どういうおまえでも問題ない」
「想像」
おうむ返しに呟き、あー、と間延びした声を東堂はあげる。
「俺で抜いたか?」
「と、いうか」
半端に絡んだバスローブを脱いでやはりベッド下に放り、福富は東堂の身体を引き寄せた。
「どうやら俺はおまえでしかそういうことをできないらしいので、責任を取ってもらいたいのだが」
「……すごい殺し文句だな、フク……」
赤面して視線をさまよわせた東堂に心拍を速めた福富は、自身の鈍い表情筋を内心で褒め称えた。東堂はわかっているのだろうか。余人には重いばかりだろう福富の執着を、殺し文句だと表現するその心のありようこそが、熱烈な告白にも等しいのだと。
「おまえこそ、俺に幻滅するなら早めに言ってくれ、東堂」
「まったくしそうにないな!」
笑って顔を寄せてくる東堂の唇を食む。東堂の舌が伸びてきて、ねだるように福富の唇を舐めた。逆らわず口を開き、すかさず侵入して生き物のようにうごめく舌を受け入れる。吐き出したばかりの福富の精の苦味は、すぐに東堂の唾液の味に上書きされた。歯列をなぞり、さらに奥、上顎の裏側のザラザラとしたところをぬめった舌先でくすぐられると、ぞわりと寒気に似た感覚が背筋を伝った。
東堂の身体を、福富はさらにきつく抱き寄せた。裸の胸があわさる。シャワーを浴びたばかりでしっとりと水気を含んだ東堂のそれに、女の性の象徴たる膨らみなどない。よく鍛えられた美しい曲線を晒してはいるが、福富自身のものと同じ、男の胸板だ。けれどもそれが他ならぬ東堂のものであるという、それだけで目眩がするほど官能的に思えるのだから、つくづく末期だと思う。
ベッドに掛けて足を床に降ろしたままの福富と、ベッドに片膝をついた格好の東堂では、ぴったりと抱き合うには体勢が悪い。焦れた福富はキスは続けたまま東堂の腰と背を手で支えて、ひねるように体重をかけた。
吐息で笑う気配があって、東堂が両腕を伸ばして福富の首に絡ませ、膝を浮かせてあとじさった。体重移動のなめらかさはこんなときにも健在で、小柄とはいえ鍛えた男の体重を福富の苦にもさせず、東堂はベッドの中央、皺のないシーツの上に背中を着地させる。まるで登坂で福富の意を汲み飛び出すときのようだと、福富は口の端をあげた。
完全に覆いかぶさる体勢になってのキスで、福富は遅まきながら主導権を得た。東堂の口の中に舌をねじ込んで、舐めまわす。洗練された作法など知らないから、福富のやりかたは先ほどの東堂をまねて、そこに本能的な征服欲をかけあわせたものだった。虫歯などできたことのないのだろう東堂の、揃った前歯を、りりしく尖った犬歯を、なだらかに起伏する奥歯を確かめ、それを支える歯茎の弾力を味わう。そうされる感触を知ったばかりの上顎の裏をしつこくなぞれば、東堂が逃げるように仰け反った。隙間のできた首の後ろに手を差し入れ、まるい後頭部を支えながら、さらに蹂躙を続ける。
唾液など飲み込む暇もなく、ダラダラと東堂の口の中へこぼれて行く。口の周りをべっとりと濡らした東堂が、ときおりごくりと喉を鳴らすのがたまらなかった。福富の唾液と東堂のそれが混じり合い、東堂の喉を通って胃の中へ流れ込む。とりこまれる。東堂を己の一部で満たす。注ぎ込んだものをかき出すしかない男同士の性交よりも、よほどセックスめいた行為のようにも思える。
ジュブ、音を立てて、深く差し込んだ福富の舌を東堂が吸った。きつく、痛みを感じるほどの強さ、頑是なく欲しいものをねだる幼子のように、福富の舌を引き抜いて飲み込んでしまいたいというような強さで。福富からも舌を押し込んだ。舌の付け根の痛みは快楽と紙一重で脳髄を痺れさせる。古来から舌を噛むという自殺方法があるように、舌は人間の鍛えようのない弱点だ。東堂にこの場で引き抜かれ、あるいは噛みちぎられるならば、それはなんと甘美な死だろうか。
断言したとおりに福富の性器は早くもふたたび、硬く膨張している。凶悪なかたちのそれを、福富は東堂の下腹にごりりと押しつけた。いまだまじまじと見る機会を許されていない東堂のその部分が、同じように、あるいは福富以上に、硬く張り詰めているのがわかる。あからさまな雄のかたち、それが嬉しい。本能なのか意志なのか、腰を揺らしてすりつけてくる動きが、福富の脱色を繰り返した硬い髪をかき回し、握りこむ手の仕草が彼の愛の言葉のようで、泣きたくなった。
舌を引き抜き、上体をわずかに起こして、東堂の顔を覗き込む。長い長いキスで酸素が足りず、ふたりともはあはあと息を荒げていた。
「東堂」
呼べば東堂は唇を歪めて笑った。唾液で汚れた口を半端に開け、髪を乱し、とろりと瞳を濁らせた東堂は、洗練とはほど遠い猥雑さにまみれ、だがやはり途方もなく美しかった。
「すてきだ、フク」
うっとりと、東堂は言う。
「俺はずっとおまえの、そんな顔が見たかった」
髪から東堂の右手が滑りおりて、福富の頬を撫でる。
「……みっともないだろう」
「そうだな」
満足げに笑い、東堂は福富の頭を引き寄せると、汗ばんだ額に音を立ててキスをした。
「もっと見たい。どうしても嫌なことがあれば言う、だから、おまえの好きにしてくれ。フク」
異国のホテルらしい甘いソープの匂いに、かすかに東堂自身の体臭が混じる。
人種的にアジアンは体臭が薄いというが、昔から東堂は特にそうで、練習後に汗まみれになりながら互いの匂いを品評しあうという男所帯ならではのバカな遊びでも、女子かというツッコミを受けつつなぜか誇らしげにしていた姿を覚えている。新開や真波といった、東堂と親しくかつ懐っこい面々がわざわざ東堂の襟首に鼻を寄せて確かめ、それをまた東堂も諌めもせずに笑うものだから、福富はなんとも言えない気持ちになったものだ。あの頃はもう福富は東堂のことを意識していて、けれど一方的な思いだと決めつけていた。
それほど薄い東堂の体臭をいまの福富が感じているのは、ベッドに仰向けに横たわり膝を曲げた東堂の下腹部に顔を埋め、陰毛を鼻でかき分けて、陰茎のつけ根に舌を伸ばしているからだった。上半身から少しずつ愛撫の場所をずらし、とうとうたどり着いたそこは、福富が触れる前からどろどろと粘性の高い液体にまみれている。
「あ、あぁ、あ」
東堂が腰をくねらせる。性器がびくびくと揺れて、彼の興奮を伝えてきた。すぐにも手や口でそこを慰めたがる自分を制して、福富は首を曲げ、東堂の太腿の内側、筋肉の隆起の谷間に吸いついた。あぁ、と、東堂がまた啼く。鉄のような自制心の強さと表裏一体なのか、溺れると決めたらしい東堂の反応はひたすらに素直だった。
跡のつけ方を福富は知識でしか知らない。東堂のヒルクライムを支えるそこに自分の刻印を残せたのか、確かめる機会は後に譲ることにした。
「フク、ああ、フク……っ」
ねだる響きに応えたというよりは自身の望みのまま、福富は東堂のそそり立つものを口に含んだ。それだけでさらに質量を増した気のするそこを、唇をすぼめ、見よう見まねで愛撫する。手淫の経験と先ほどの東堂のやり方を思い浮かべれば、やり方はおおむね想像がつく。とはいえ東堂ほど上手くはないのだろうが、頭上から聞こえるすすり泣くような声は、東堂がたしかに性感を得ていることを教えてくれた。
東堂の腰が跳ね、指が縋るように福富の髪を乱す。引きはがす動きではないのをいいことに、福富は唇と舌と手を使った。「あ、あ、あァっ……!」男のものにしては高い東堂の声がさらに裏返り、一瞬動きを止めたと思うと、ぶるぶると身体を震わせた。迸る液体を喉に受け、福富は反射的にえずきそうになるのを押しとどめる。それから、まとわりつく白濁を舐め取りながら東堂の陰茎を解放し、少し思案して、ごくりと喉を動かした。
「フク……おまえぇ……」
「嫌だったか?」
真っ赤な顔で東堂は首を横に振る。むしろ男の浪漫だろう、と小さく呟かれて、福富はくすりと笑った。こんないかつい男を相手にして、浪漫もなにもないものだ。
口と手をおざなりにぬぐい、チェストからローションを取る。福富の動きを目で追っていた東堂が僅かに頷くのを確認してキャップを開け、粘度の高い液体を手に受けた。調べた知識を思い起こして、手の熱をうつすように広げていると、東堂がごろりとシーツの上で反転した。うつ伏せになって、ふう、とため息をつき、枕を引き寄せて抱きしめた東堂は、意を決したように膝を立てた。肩まで届く乱れた黒髪の合間から見える耳が真っ赤に染まって、東堂の羞恥を伝える。
「軽く準備は、してあるが」
ことさら事務的に繕おうとしたのだろう、こわばった声が言った。
「その、……」
「いいのか」
「ウム」
頷いた東堂のらしくもなく丸い背に、福富はキスを落とした。この体勢が誰のためか、わからないほどには福富とて鈍くはない。
謝るのも礼を言うのもなにかが違う気がして、福富は行為の続行を選択する。そうこうするうちにすっかり体温に馴染んだろうローションを、福富のために晒された東堂の秘所に塗りつけた。びく、と、東堂が背を震わせる。
福富は深呼吸をした。興奮しないはずがない。福富の性器は先程から萎えることなくその場所に押し入りたがって、直接的な刺激もないまま先走りに濡れはじめている。立派だとからかわれたことは少なくないが、東堂に赤裸々に告白したとおりに女の胎に埋めたことのない陰茎で、犯したいと思っていたのはいつだって目の前のこの男だった。ときに少年時代の、ときに福富の想像の中の姿を、あるいは数年ぶりにメディアで垣間見ることのできた東堂を、これまでに幾度脳裏で組み敷き、泣かせてきたことだろう。
そのからだがいま、目の前にある。福富に差し出されている。
丁寧に、ゆっくりと、と、福富は頭の中で唱えた。
たとえ東堂が行為に慣れているのだとしても、かけらも傷つけたくはない。身体も、心もだ。
「――間違っていたら、教えてくれ、東堂」
「あ、ああ……」
返事をうけ、本来は排泄のためであるはずの場所を指でなぞる。円を描くように撫でてから、スキンをかぶせた一本目の指を少しずつ埋めた。体格を反映して福富の指は骨も肉も太い。だが準備をしたという言葉通り、そこは思いのほか柔らかく福富の指を受け入れた。あたたかいな、思わすこぼした言葉に、フクぅ、と東堂が恥ずかしげに呻いて、福富は咳払いでごまかすと指をぐるりと回す。ゆるゆると抜き差しをし、緩むのを待って、ローションを増やす。ゆっくりと二本目、三本目。
やはり違和感がひどいのだろう、ふーっ、ふーっと息を吐いていた東堂の反応が変わってきたのは、三本目がスムーズに出入りするようになってからだった。
「ん…っ、あ、…ひ、ァ……?」
漏れ出る声の語尾が上がって、疑問符がつく。
「うあ、なん……? ああ、あ、なに、うぁ、っひ、う、う」
呼吸を乱す東堂に、福富はもしや、と、前後する指でかすめるように撫でていた場所をぐっと押した。
「あぁっ!」
東堂が悲鳴をあげて跳ねる。
抜き差しを続けながら、福富は見つけたそれ――おそらくは前立腺というのだろう場所に、曲げた指で断続的な刺激を送った。
「あっ、あっ、あっ! フク、フク…っ! それ、ああ、い、いや、だ、ァ、」
枕に縋りつき、東堂は激しく首を振る。黒髪が乱れて、汗と、おそらくは涙が散った。いやだ、と訴える東堂の腹の下に見えている性器はけれども、腹につくほど反り返ったままで、先走りがシーツを汚している。東堂を襲っているのが痛みや不快感ではないのは間違いなかった。
「いや、か?」
「う、アァ……ッ、ふ、く、フク、――――っ」
苦しげに東堂が顔を上げて、肩越しに振り返った。秀麗な顔は涙に汚れ、薄暗がりの中でもわかるほど朱に染まり、ぐちゃぐちゃに乱れていて、福富は息を呑む。
「わ、わからない、フク、こんな……っ、あ、あ」
動かした福富の指に反応し、東堂の身体がまた跳ねた。恨みがましげに福富を睨み、眉を寄せて耐える東堂はひどく扇情的で、福富の理性を削ぎおとしていく。
「……やめるか?」
欲に掠れた声で、それでもようよう問えば、東堂はきつく目をつむり、ふるふると首を横に振った。
震える手が、顔を隠すように髪を梳く。
「すまん、不快ではないんだ、その、――おまえの手が、……よすぎ、て、こわい……」
何度も唇をしめらせて、しらなかったんだ、と、東堂はこどものような顔で打ち明けた。
「好きな相手に、されるのが、……こんな、こんなにも、イイ、なんて」
ぐぅっと獣じみた唸り声を、福富はあげる。
「おまえのそれこそ、殺し文句だろう……っ」
「う、わ」
東堂の肩を押し、のしかかって、福富は首筋に噛みついた。そうしながら右手で東堂の秘所を容赦なく蹂躙する。東堂があげた悲鳴は限りなく嬌声にひとしく、福富の男を煽りたてる役にしか立たなかった。
四本目までを突き立て、暴き立て、悲鳴を聞いて、もう限界だ。
「とうどう、」
手早く自身にスキンを被せ――その練習をしてから来たというのはいつか話せるかもしれない笑い話だ――名を呼びながら肩をつかみ、福富は東堂の身体を反転させた。反射的に顔を隠そうとする腕を取り、シーツに押しつけて、見下ろす。
はあ、はあと肩で息をする東堂が、せわしなく瞬きをして、福富を見上げた。
途端にぞくりと恐怖が福富の背筋を走る。
本当にいいのか、と、あまりに遅い自問が福富にからみつく。
俺のおんなにしたい。
犯したい。
そんな欲でこの美しい男をけがすのに、己はふさわしくあるのだろうか。
硬直した福富になにを見たのか、ふ、と東堂が、いままでの乱れようが嘘のように、穏やかにわらった。
「だいじょうぶだ」
東堂の声が優しくやわらかく、福富を包む。
「『俺は、強い』」
それはかつて、福富が幾度も口にした言葉だ。弱いばかりの子供が強くあろうとして縋った言葉を、いま東堂が、福富の知る誰よりもしなやかに強い男が口にして、福富を呼ぶ。
フク。
あの頃と変わらぬ響き。愛おしげに、優しく、信頼に満ちた。
「信じろ。――おまえの、おんなに、してくれ」
東堂の両腕が、福富の首に絡みつく。
もう声も出せず、福富は頷いた。切っ先を秘所にあてがい、沈めていく。散々に指で味わったはずの熱を、指でない場所で知る。
ああ……と、感極まったように東堂が声をあげた。
はいってくる。
フクが。
そんな風に言われて、暴走せずにいられたのはレーサーとして鍛えた自制心の賜物だろう。
どうにか理性を携えたままじりじりと腰を進め、断続的にあがる東堂の声を聞きながら、これ以上は進めないところまでたどり着いたときには、びっしょりと全身が汗に濡れていた。
「フ、ク」
息を整えるより先に東堂が呼んだ。福富の首から手が滑りおりて、頬をつつむ。生ぬるく濡れる感触に福富はまばたいた。
「フク、フク……」
福富を映す東堂の瞳に水の膜が張り、目尻から溢れて、こめかみへ流れていく。
「泣くな、フク、フク、泣くなよ……」
「おまえが」
「ちがう、フク、」
東堂は首を振る。
「泣いているのは、おまえだ、フク」
優しく頬を拭われて、東堂の言葉が正しいことがわかった。
「……会いたかった」
転がり落ちたのは心の底からの本音。
「会いたかった、触れたかった、……欲しかった、東堂」
「ん……」
止まらない涙を、東堂が何度も拭ってくれる。
「好きだよ、フク」
ようやくその口から聞けた言葉のために、きっと福富はここまで来たのだ。
「東堂、東堂……っ!!」
組み敷いた身体を一度きつく抱きしめ、唇を奪った。呼吸を許さないような獰猛なキスをしながら、肘で身体を支えて、奥深くを抉る。
東堂の悲鳴を、口のなかで受け止めた。声が聞きたい欲よりも、その瞬間ばかりは、なにもかもすべて余すところなく自分のものにしたい欲の方が勝った。
いつか知った十代の少年の東堂の体温のつめたさなど、どこにもない。
そこにいるのは燃えるようにあつい身体をした、福富のおんなで、誰よりもつよいおとこ、東堂尽八という、福富の手に入れたたったひとつの奇跡だった。
「愛している、おまえを」
この部屋に入ってすぐ問われた根拠など、相変わらずどこにもない。ただこの心をまるごと差し出して、信じて貰うほかはなかった。
うん、と頷いた東堂が、耐えられないとばかりに福富の唇から逃げ、のけぞる。
甲高い悲鳴。
「フクっ、ああ、フク、フク……!」
「東堂、」
手加減などする余裕がない。引き抜き、突き立て、福富は愚直に腰を振った。
「ああああああっ!」
突き上げた性器が指で散々に苛めたしこりに当たったのだろう、東堂が叫んで痙攣する。ぶしゅっと音がして、腹筋に挟まれた東堂のものが白濁を吐き出した。
「ああ、あ、フク、いやだ、まだ、あ、ひぃっ……!」
いやいやと首を振るのも構わず、福富は東堂の身体を揺さぶった。もう、福富も終わりが近い。
「ひぃ、まて、まって、フク、あ、だめだ、あ、あ、フク、ふく、いや、あ、あああ、」
「東堂、好きだ、東堂、」
「あぁ、フク、……すき、すきだ、フク、ああ、会いた、かった……!!」
「と、う、どうッ…!」
ひときわ大きな動きで、福富は性器を東堂の中に突き入れる。ぎゅうと内部が収縮し、薄いスキン越しに福富のものを締めつけた。凄まじい快感に逆らわず、福富も腰をふるわせて、精を吐き出す。
子もなせない間柄を滑稽に隔てるラテックスゴム。
その有無のもたらす性感の差など福富は知らない。ただこれが東堂を多少なりと守れると知っている、それでいい。
力を失ったものをずるりと東堂の中から引き抜きスキンを外して、脱力して横たわる東堂の隣に、福富も倒れ込んだ。スプリングが弾んで、重い福富の身体を受け止める。
「フク」
首だけでこちらを向き、ふわりと東堂が呼ぶ。
どちらからともなく顔を寄せて、唇を重ねた。
あの遠い遠い夏の終わりのある日、福富が東堂に初めて贈ったそれのような、触れるだけの幼いキスに、ふたりでくすくすと笑う。
そうしてもう一度、
今度は、水音の立ついやらしいキスを。
それだけでまた上がりたがる体温に、どうしようもないとまた互いに笑って、足を絡め、どろどろに汚れた身体で寄り添った。
* * *
「あの頃な。ずっと、怖かった」
眠りに落ちる前に、東堂がぽつりぽつりと語った。
「おまえの腕の中は心地よすぎて、このまま何者にもならなくてもいいと、思ってしまいそうだった。おまえはきっと成功する、そのおまえを愛し、支えて、なにが悪いだろうとも思ったよ。だがそんなものはもう俺じゃない。俺の残骸で、抜け殻だ。なによりおまえを――福富寿一という男を失いたくなかった。この世界に、おまえを失わせたくなかった。寄り添って、幸せになって、おまえすらこれでいいと思ってしまったら。おまえだって知っているだろう、前に進まなければ、この場所で構わないと思ってしまえば、レースなど勝てない」
天井を見上げた眼差しの向かう先は遠く、おそらくは少年時代の終わりの日々を見ている。
「……もともと、こちらに来ることを考えてはいたんだ。巻ちゃんのことがあったしな。幸い姉が跡継ぎに決まって、自分で食い扶持を稼げるなら好きにしろと言われていたし。さすがにこんな風に、皆を騙してこっそり来ることになるとは思わなかったが」
「やはり、俺のせいか」
「ん……半々だな。冷たいと、言われるかもしれんが」
かたくななほど横顔だけを見せて、東堂は静かに述懐する。
「期待も、安らぎも、最小にしたかった。背負わず、縋らず、ひとりで、やりたかったんだ」
それはきっと、異国の地でひとり闘ってきた彼が幾度も胸の内に繰り返したろう、誓いの言葉だ。
ようやく、東堂のまなざしが福富に届いた。するどい目尻を僅かに和らげて、東堂は笑いかける。
「おまえの隣に立つならば、俺が強くなくては。おまえのおんなだと笑って言えるほどに、強く、ありたかったんだ、俺が」
「……東堂」
名前を呼ぶ。
それしかできなかった。
瞑目し、福富はこの年月を振り返る。この男に愛されるほど、この男を己のおんなだと言えるほど、自分は上等な人間だろうか。
イエスと言うほど傲慢にはなれなかった。
だがそれでも、もはや東堂を手放すことなどできはしない。ならば進むだけだった。前へ、前へ。ひたすらに、愚直に。
「しかし、なあ、おい、フク。福富寿一」
ふいにいたずらっぽく笑って、東堂は福富の高い鼻をぎゅっと摘まむ。
「遅いんだよおまえ。待ちくたびれたぞ!」
東堂のその顔は、得意の山を全力で駆け上がり、山頂で振り向いて指をさす、懐かしい笑顔そのものだった。
福富も笑う。
神に愛されたクライマーが、人生という登り道の先を駆けているならば、それはなんと楽しく満ち足りた苦しさだろうか。
もちろん福富とて追うばかりではいられない。福富はエースだ。そのように生まれついた。クライマーの勝利すら飲み込んでゴールに飛び込むことがさだめだった。そうすべくペダルを踏み続けて、ここまで来たのだ。
「ずいぶん長く、山を引かせてしまったな、東堂」
福富らしからぬ言いまわしに東堂は目を円くしてから、ははっと笑う。
「本当にな!」
「少しうしろで休んでも、かまわないが」
笑み含みに告げた言葉を、東堂は言下にはねつける。
「まさか! 知らないのかフク、山頂ゴールはクライマーの獲物だぞ」
「俺とて山の福富と呼ばれた男だ」
「はは、いつの話だよ」
「また言わせてみせるさ」
笑いあう。
そしてこぶしを突きだした。左の手。
ごつりと打ち合わせたそこに、いつか揃いの銀色を飾ろうと福富は考える。
だがまずはその前に――この男が赤い水玉を着るより早く、黄色いジャージを身に纏わなくては。
勝利者にだけ与えられる黄色いライオンを東堂に投げ渡し、その頬にキスをする。はるかな夢ではなくたぐり寄せるべき未来としてその絵をまぶたの裏にえがき、福富は満足げに笑って、ようやく手に入れた彼の恋人を、腕の中に引き寄せた。
