初夏の約束

 ヤッベ、とぼやきながら荒北はスポーツバッグに筆記用具を放りこんだ。終業のショートホームルームでうたたねをしてしまったせいで、部活に向かう支度が済んでいない。
 夏のインターハイのメンバー選考レースは目前で、部内はピリピリとした空気に包まれている。ロード歴がようやく一年の荒北がレギュラーを望めるほど層の薄い部ではないのは承知だが、練習のパートナーである福富は、二年生の中ではレギュラー候補の最右翼だ。荒北が遅刻をして福富に迷惑をかけるわけにはいかなかった。
 ジャッとファスナーを閉じたバッグを担ぎ、生徒の数がまばらになった教室を足早に後にしようとした荒北は、ふと見慣れない光景に足を止めた。
 机に置いた学生鞄の上に両手を投げ出し、立ち上がろうという様子を全く見せない生徒が一人。
 放課後ぼんやりしている生徒など珍しくもないだろうが、見慣れないと感じたのはそれが、荒北とは違って居眠りなどとは無縁であり、放課後はいつも周囲と賑やかに言葉をかわしつつもテキパキと支度をして、素早く教室を飛び出して行くはずのクラスメイト兼部活仲間であったからだ。
 男にしては長い髪が頬にかかって、荒北の位置からでは表情が窺い知れない。それがまた、おかしなことだった。彼はいつも尊大なまでに顎をあげ背筋をのばし、ひとの顔を不躾なほどまっすぐに見つめてくる輩であるので。
 東堂尽八。
 能力的にも人格的にも、箱根学園自転車競技部第二学年の中核を、福富や新開と並んで担う選手だ。福富がオールラウンダーを、新開がスプリンターを束ねるように、一、二年のクライマーは彼を中心にまとまる。
(……あー……)
 東堂の様子のおかしさの原因に思い当たり、荒北はぼりと頬を掻いた。
 下級生からインターハイレギュラーを選ぶレースの、コースと人数枠が昨日発表された。枠は一名ないし二名。そしてレースの舞台は、細かいアップダウンはあれど長い登り区間はなく、平地を中心としたロングコース、ラストはスプリント勝負というものだった。
 クライマーは不要。
 少しでもロードレースのわかる人間なら、コース設定を知った時点で、そのあきらかなメッセージを読み取ることだろう。
 東堂は根っからのクライマーだ。平地がひどく遅いわけではないし、下手なオールラウンダーよりは余程速いのは確かだが、ヒルクライムのために絞り込んだ彼の軽い身体が、得意のクライムを封じられたロングコースで、福富や新開に先んじてゴールに飛び込むことはまずないだろう。つまりコースが定められた時点で、今年のレギュラーの地位を東堂が自力で掴む可能性は、ほぼなくなったと言っていい。
 1年の終わり、東堂は上級生もエントリーしたヒルクライム大会で優勝を手にした。学年が上がってから参加した大会でも優勝、もしくは総北の巻島という選手に秒差でかわされての二位で、どの大会でも三位以下を大幅に引き離してのゴールだった。つまり東堂は二年生の初夏にして、箱学自転車競技部クライマーの頂点に立っている。
 その東堂がインターハイのレギュラーを望めないのは、ひとえに彼が二年生だという一点に尽きるのだろう。
 今年の三年生には、東堂には及ばないが高校生として及第点というレベルのクライマーが一人いる。加えて、しまなみ海道を舞台とする今年のインターハイコースは、長い登りの少ない、あまりクライマー向きではないコースのようだ。レギュラー六人の内訳としては、オールラウンダー三名、スプリンター一名にクライマー一名というのが妥当であろう。そのクライマーを東堂が担うのであれば、必然的に三年生クライマーは弾き出されることになる。
 その三年生は、才に溢れた東堂に同じクライマーとしてずいぶん目をかけていたように、荒北の目には見えていた。
「……部活行かねーのォ?」
「先に行ってくれ」
「遅刻すっぜェ」
「わかっている」
「あのさァ……そんな不満なら、ぐだぐだしてねーで言えばいいんじゃないのォ。おメーが部で一番登れッのは事実だしさァ」
「うるさいぞ荒北」
 ようやくこちらを向いた東堂の、ガラス玉のような大きな瞳が、見下すような光を帯びていた。この眼差しには覚えがある。荒北が入部した当初の東堂が、よくこんな目をして睨んできたものだ。
「今年のコースならば、オレが出るまでもない。インターハイのレギュラーは三年優先、箱学の伝統だぞ。自分が出られそうもないからといってオレに代弁させるな」
 東堂らしからぬあからさまな言いがかりに、荒北は顔を歪めた。手近な机をガツンと蹴りつけて、凶悪な眼差しを東堂に向ける。
「んだとォ?」
 荒北の本気でドスを効かせた声音に、東堂ははっと息を呑み、目を逸らした。
「……悪かった。今のはオレの失言だ。すまん」
 ふーっと息をついて、東堂は机に投げ出した己の手を見つめる。
「……天才にはわからんと言われた」
 ぽつりとこぼれた小さな声に、荒北は眉を上げた。
「あァ?」
「先輩がな。三年間の汗と涙を無駄にしてくれるなと。最初で最後のインターハイをの邪魔はするなと。――オレのような天才には、わからんだろうが、と、な……」
 オレにレギュラーを寄越せなんて、オレは言わなかったのにな。
 俯いた頬からぽたりと鞄に落ちた水滴を、東堂の腕がごまかすように拭った。
「とうど……」
 バァン!
 唐突に両手で机を叩いて、東堂が勢いよく立ち上がる。
 ぐりん、と音のしそうな勢いで再度こちらを向いた顔にはすでに、常の東堂尽八のそれとよく似た笑みが貼り付けられていた。
「いやすまんね辛気臭い話を聞かせて! まったく困ったものだ! オレが天才なのは、オレのせいではないのだがな!」
 ワハハと声を上げて笑い、東堂は流れるような所作で机と椅子を整えると、鞄を持った手を肩に引っ掛ける。
「付き合わせてすまないな荒北、急ごう! 遅刻の言い訳はオレが引き止めたことにしていいぞ!」
 言いながらすでに教室を飛び出しかけている東堂を、舌打ちをひとつして荒北も追いかけた。
「荒北!」
「っだヨ」
「友人とはいいものだな!」
「誰がいつおメーのダチになったよ」
「おっと、オレはお前のことだとは一言も言ってはおらんぞ! しかしそうかそうか、荒北はオレを友人だと思っているが照れてしまって認められんのだな! 照れるな照れるな、この山神東堂尽八を友としたことを誇って良いのだぞ!」
「ッゼ! 人の話聞きやがれ!!」
「ウザくはないな!」
 昇降口で外履きに履き替えながら代わり映えのしないやりとりをして、からからと東堂が笑う。
「よし、オレは決めたぞ荒北!」
「あァ?」
「来年、オレが三年生になったら、インターハイには最強メンバーで臨む!! 学年は関係なしだ、弱肉強食だぞ!!」
「いーんじゃねェのォ」
「そうだろう! ――だからな、荒北」
 ふっと声音を変えて、東堂が視線を寄越した。
「強くなれよ。オレは来年、お前とインターハイに出たいからな」
「……っ、たりめーだろォ!? てめえこそタイム落としたりすんじゃねーぞ」
「当然だ!」
 競争するように出入り口を抜けながら、ガンッと肩を荒くぶつけあい――
 顔を見合わせてニッと笑うと、二人は部室に向かって全速力で駆け出した。