「あー、疲れたぁ」
県予選が終わって、夏にはインターハイ。自転車競技部の練習も日に日にハードになっていて、チャリ通のオレが自宅に着く頃には、あたりはすっかり暗くなってしまう。階段上がって部屋に入って、カバンをその辺に放り投げ、オレはベッドにダイブした。よくシャワー浴びてからにしろって怒られるんだけど、そんな気力わかないよ。一応、練習が終わって着替えるときに一度浴びてるし。
自転車は大好きだけど、部活はけっこうめんどくさい。でも今日はラッキーだった。東堂さんと坂を登るのは、部活のメニューの中でも一番楽しい。荒北さん置いてっちゃったからちょっと怒られたけど、オレが仕掛けたときに止めなかったの東堂さんだから、オレあんまり悪くないよね。
東堂さんは、ハコガクチャリ部のなかでも一番速いクライマーだ。山神なんて呼ばれてて、その名前がぴったりなんだからすごい。オレ最初、山神さんって名字だと思ったんだよね。それでそう呼んだら、副主将の自己紹介くらい聞いておけって怒られたけど、そんなのオレには無理な要求だ。副主将だってことだって、そのとき初めて知ったし。
それからしばらく、オレの顔見るたびに東堂さんが例の「いつもの」やるようになって、人の顔と名前を覚えるのが苦手なオレでも、東堂さんの名前は部員のなかで一番最初に覚えたんだ。
――顔と名前を覚えるのが苦手、って言ったけど、実は顔だけならもっと早くに覚えてた。正確には顔と、リドレーと、山を登るときのきれいなフォーム。あんまり簡単そうにすいすいって登るから、チャリ部のなかでも東堂さんがすごいってわかってない人がけっこういるけど、あんなのできる人、高校生でほかに誰もいないんじゃないかな。シフトチェンジとか体重移動とかのタイミングが完璧で、無駄が全然ないんだ。慣れてる道だからかなって最初は思ったけど、そうじゃなくて、視野がめちゃくちゃ広くて、色んなこと考えながら走ってるからなんだって、一緒に走るようになってわかった。たまに無駄なことまで考えてる気もするけど。ウグイスが今年初めて鳴いたとか、今年の桜はいつもより三日くらい早いとか、自転車に関係ないよね。
東堂さんは考えてることだけじゃなくて、口数もちょっと無駄に多い。それで荒北さんとかに、ウルセーってよく怒られてる。新開さんが前に教えてくれたけど、東堂さんが1年生の頃、あんまりうるさいんで自転車乗ってるときは私語禁止って当時の先輩に言われて、それ守るようにしたらどんどんげっそりしていくし、タイムもすごく悪くなっちゃったから、先輩たちが折れて迷惑にならない範囲なら喋っていいぞってなったんだって。なんかすごい。
その、先輩も匙を投げた、今ではいちいちうるさいって言うのは荒北さんだけになってる東堂さんのおしゃべりは、だいたい女子人気がどうのこうのとか、ライバルだっていう千葉の巻島さんって人のことか、自慢話かで、正直つまんないからたいてい聞き流してる。でも時々すごく的確なアドバイスを同じ調子で言ってきて、同じ調子なのにそのときだけはすいって頭に入るから、不思議なものだ。オレの耳が自転車専用になってるのか、東堂さんの喋り方が実はちょっと違うのか、どっちなのかはよくわからないけど。
ああ、でも、今日の話はアドバイスってわけじゃなかったけど、なかなか面白かった。荒北さんは聞き飽きた顔だったけど、オレは初めてだったし。山登りで体幹が鍛えられてたとか、ボロボロのママチャリをかっこよく乗るためにペダリングが上達したとか、真似できるような話じゃないけど、東堂さんらしいなぁって……
(……あ、れ?)
いま、何かが引っかかった。
今日の話。東堂さんが中2のときってことは、オレはええと……小6。
小6の――箱根有料道路の――ヒルクライム大会?!
「ええー?」
オレはベッドから飛び降りると、押入れの中をガサガサ探した。ええと、確か、賞状とかはお母さんがこのへんのファイルに入れてたはず。あった!
引っ張り出したファイルの最初に入ってたちっちゃい賞状には、小学生の部完走、真波山岳、って字の横に、第×回箱根山ヒルクライム大会って書いてあった。完走したら誰でも貰えるやつだけど、身体が弱くてしょっちゅう学校を休んでたオレが初めて運動で貰った賞状だからって、お母さんが大喜びしてたっけ。ごちそう作ってもらって、美味しかった。
ごちそうの思い出もいいんだけど、いま大事なのはこの、第×回ってほうだ。
部屋のパソコンをつけて、検索のとこに大会名を入れる。出てきた公式サイトの、歴代優勝者ってとこをクリックした。
(……いた!)
『中学生男子の部 優勝者 : 東堂尽八(○○中学二年)』
見た途端に、頭の中に、ワーッて歓声が蘇った。
身体にピッタリしたレース用のジャージを着て、ピカピカのロードバイクにまたがった選手たちが、よろめきながら急な坂を苦しそうに登っていく。その横を、リズミカルにペダルを踏み込み、楽しそうに抜いて行った、ボロボロのママチャリにまたがったひとりの少年。
信じられない、なんだあれ、すごい! ありえねー! がんばれママチャリ! 沿道はもう大騒ぎだった。観客みんなを味方につけているのに気がついたのか、山頂間際でトップに躍り出た瞬間に、その少年はわざわざ片手をハンドルから離して、沿道に手を振った。わあぁーって、すごい歓声があがる。それでリズムが崩れたのか、年代物らしきママチャリがギイッてすごい音を立てて。少年はおっとっとって感じで手をハンドルに戻して、またなめらかなペダリングで進んでいく。さっきの嫌な音は気のせいだったのかなってくらいに、すいすいと。
そして、そのまま先頭を切ってゴールに飛び込んだ瞬間に、得意げに大きく、空を抱くように広げた両手――。
そうだ、確かに見た。
オレが初めて参加したレース。いつも一人で好きなように登ってた山への道を、競争するのは楽しくて、走り切れたのが嬉しくて。生きてる、生きてるって叫ぶ身体を感じて満足しながら、クールダウンがてら、上のカテゴリーのレースを見物することにしたんだった。
てっぺんはオレのものだ! って、高らかに叫んでるみたいな、あのゴール。
ゾクゾク、した。
ただ完走するだけなんてつまんないって、オレもあんなふうに一番にゴールしたいって、あのとき思ったんだ。
高校生や大人の部もたぶん観たけど、覚えてるのはあのゴールだけ。山頂の景色を独り占めにした、あの背中だけだ。
オレの中にいつでもある、「山を登る」って欲求の前に、「一番に」がくっついたのは、たぶん、そのときから。
(東堂さん、だ)
(東堂さんだった……!)
坂を駆け上がってるときみたいに、心臓がばくばくって鳴った。
ねえ、だって、信じらんない! あれはオレの初めてのレースだけど、東堂さんにも初めてのレースで、それで優勝しちゃって、ついでにオレのこと本格的にレースの世界に引きずりこんで。
最初から山神だったって?! ホントだよ、ロードにまたがったときから、どころじゃないや、その前からじゃないか!
こんな話、部活ではできないな。東堂さんが調子に乗って、荒北さんが怒って、黒田さんにオレが苦情を言われるに決まってる。すごいめんどくさい。空気読まないやつとかよく言われるけど、オレでもそれくらいはわかる。
でも。
いつか。
東堂さんに話したいな、って、思った。
そうだなぁ、いつか、オレがあの人に勝った日に。
ずっと、ずっと、オレが追いかけ続けていたらしいあの背中に、手が届いた日にさ。
だから。
明日もオレは登るよ。
一番に。一番、目指して。
あなたの背中、追いかけて。