月蝕とアイラブユー - 1/5

 皆で皆既月食を見よう! と言いだしたのは、例によって東堂だった。
 深く濃い人間関係を築く相手となるとこれでなかなか偏屈な男なのだが、浅く広くのアンテナの感度ならば部内でも抜群で、副部長の座こそ黒田に譲ってもわけのわからないカリスマ力は健在だ。メディアが騒ぐ前にどこからか聞きつけてきて、親睦を深める良い機会だと部内イベントに仕立て上げてしまった。ゲリラ的に開催してしまうのでなく、事前にきっちりと教師と寮監に話を通すあたりが東堂の律儀さ生真面目さであり、男子高校生らしいノリと勢いの面白みにはやや欠けるが、安心感や居心地の良さと引き換えれば釣りが出るほどだ。なにしろ通常は施錠されている屋上の開放と自宅生の寮内宿泊、飲食物と毛布の持ち込みの許可をもぎとり、ブルーシートまでどこからか手配してくる手際の良さである。さすがは老舗旅館の嫡男のおもてなし力といったところか。課外学習の一環という体裁をつけたことでレポートの提出を義務づけられたらしいが、優等生の泉田と万事そつのない黒田が助力を申し出たというから、そこのところの心配は無用だろう。
 とまあそういう顛末で、秋も深まってきたある晩のこと、皆既月食観測会が箱根学園男子寮屋上を会場として開催されたのであった。

 一年生に拭き掃除を担当させ、かつ土足禁止を徹底したブルーシートの上、部員達は思い思いの姿勢で空を見上げ、――あるいは天体観測の浪漫などそっちのけで持ち込まれた飲食物を貪りながら馬鹿話を繰り広げていた。それでもその声音が煩がられるほどには高くならないのは、やはり夜の屋上という場所柄にみな遠慮するものがあるらしい。
 ピッ、ピピッ、そこかしこでいくつかのアラーム音があがる。セットしていたのは東堂、泉田、黒田、ほか天体好きという部員を中心に何名か。なお余談だが、だるそうな表情で人だかりの外れにいた荒北が自身の携帯の無音のバイブレーションにちらりと視線を向けたことに、傍らに座していた福富だけが気づいたのだが、福富がそういったことを吹聴する性格でないがゆえにその事実は福富の胸ひとつにしまわれた。これが東堂であれば荒北も楽しみにしていたのだなワハハハハなどと鬼の首を獲ったように言い募ったろうし、新開ならごく無邪気に、ヒュウ! 靖友も楽しみだったんだな! などとあの無駄によく通る美声で言ってのけて、どちらにせよ荒北の罵声が響く展開になるのは間違いない。陰でチャリ部3馬鹿などと呼ばれる3名の小競り合いを寡黙な福富の存在が未然に防ぐ展開は、今回だけでなくこの二年ばかりで数知れずあった。他者の心の機微に疎いところのある福富本人は、いまひとつ理解していないままなのだが。
「――さあ、天体ショーの始まりだ」
 立ち上がった東堂が伸ばした指で東の空を示し、存外に静かな声で告げた。ピタリと会話が途絶え、皆が東堂のさす方向に目を向ける。幸いにも空に雲はなく、市街から離れて箱根の山に抱かれる学園の空は深い藍に染まって高く、星が控えめにきらめいている。そのまだ低い位置に登った月は、つねよりもどこか赤みがかっているように見えた。
「おお……」
「すげぇー」
 待つことしばし、はっきりと欠けが目立ち始めた月の姿に、部員達がどよめいた。熱心に見上げる幾つもの目に、じわじわと欠けてゆく月の姿がうつる。ほう、と誰かが感嘆の息をついた。
 ――とはいえ、男子高校生の集団だ。最初の衝撃が薄れてしまえば、こうしたことが好きでカメラなどを用意し本格的に追う気満々の少数名を除き、さすがにずっと見つめていては飽きが来る。結局、仲の良いもの同士数名ずつ固まって、ひそひそと先ほどまでよりはずっと抑えた声で会話をしつつ、時々空を見上げて欠けてゆく姿を観察する、という流れに落ち着いた。このほうが空が見やすいからと仰向けに寝転んでしまったものも多い。
 シャリン、パシャリ、断続的に撮影音が上がる。かなり頻繁に撮っているのは東堂で、レポートのためもあるだろうが「永遠のライバル巻ちゃん」こと現在は異国の空の下にいる巻島裕介に送るだろうことは明らかだ。ちなみに巻島の旅立ちについては連絡を受けた翌日に東堂が大騒ぎしたので、部内のたいていの人間が承知している。

【エースとアシストの場合】

 福富と荒北は部員の輪からやや外れたところにいた。親しみやすいキャラクターとはとても言えない福富は、主将としては申し分のないリーダーであったがこうした集まりでは遠巻きにされがちで、福富もわかっているのか少し引いて周囲を見ていることが多い。
 修行僧を思わせるような佇まいで、福富は空を見上げている。表情は荒北曰くの鉄仮面のそれだが、唇に余計な力のかかっていないリラックスした風情は、福富が彼なりにこの観測会を楽しんでいることを伺わせた。
「福ちゃん」
「なんだ」
「首痛くね?」
「いや。大丈夫だ」
 言葉少なに応じる福富は、空から視線を外さない。フゥン、と相槌をうち、荒北は適当に丸めた毛布をクッションがわりに、ごろりと寝そべった。欠けてゆく月はたしかに珍しいが、そこまで熱心に見つめるほどの興味は荒北にはない。
 悪くねぇけどヒマだなァ。そんなことを思ったのが伝わったのか、ひそめた声音で福富が声を掛けてきた。
「推薦を断ったと聞いたが」
「あー」
 そこで投げてくるのが豪速球ストレートど真ん中なあたりが非常に福富らしい。
 荒北はインターハイこそリタイアとなったが、数々の大会で実績をあげ、王者箱学の2番ゼッケンをつけた選手だ。自転車競技部を抱える幾つかの大学から誘いがあったが、荒北はその全てを断った。正式な返事をしたのはつい先日なので、顧問あたりからその話が福富に伝わったのだろう。
「推薦受けりゃあ楽だけどな。チャリで大学入っと、色々選択肢狭まっからァ。あんまやりたくねーの」
「そういうものか」
「うちは福ちゃんチとは違って、ふっつーの家なんでネ」
 仰向けのまま、荒北は右手を欠けた月に伸ばす。長袖の内側に隠れたその肘はいまだにきれいには伸び切らない。自転車に影響はないが、ピッチャーには二度となれない腕。
 月とて欠ける。
 腕も壊れる。
 あたりまえにあると思っているものだって、簡単になくなるのだ。
「就職とか、考えるワケ。妹もいるしネ。長男がニートやる余地ねんだよなァ」
「……新開が嘆くな」
「適当に話しといてくんね?」
「いや。お前から話すべきだろう」
「ヘイヘイ。福ちゃんそーゆーとこ容赦ねーよなァ」
「……俺も」
「あ?」
「来年はお前と共に走れないのだと思うと、残念だ」
 相変わらず目は空に向けたまま、福富がぽつりと言った。
 沈黙が落ちる。
 三分の一ほども欠けた月を並んで見上げて、福富がまたぽつりと呟く。
「不思議な形だ」
「ソーネ」
「だが綺麗だな」
「――――」
 ちらり、と荒北は福富を見やり、くんくんと鼻をうごめかした。
 そして笑う。
 つねの荒北の、歯茎を剥き出しにする笑い方とは違う、穏やかな笑みだった。
「……なぁ、福ちゃん。インターハイ、負けたけどさァ。サイコーだった」
「ああ」
「オレ、あのまんま死んでもいーかなって、思ったヨ」
「……わからなくはないが。死ぬのは良くない」
 あくまでも真摯に、福富は顔をしかめた。
「荒北が死ぬと、俺は悲しい」
「……そ。ゴメンネ。死なないよォ」
「ああ」
 満足そうに福富が頷く。
 ククッと喉を鳴らして、荒北は伸ばした右の手の指を曲げ、欠けた月にガブリと噛みつかせた。