月蝕とアイラブユー - 5/5

【クライマーたちの場合】

 ようやく訪れた皆既食のすがたに、空を見上げる顔が増えている。どの顔も興味深そう、もしくは楽しそうだ。喧噪から少し距離を取った東堂は満足げにひとつ頷くと、携帯を掲げていくつか写真を撮り、そこから流れるような動作でメール作成画面に移動しカチカチと慣れた手つきで文章を打ち込んだ。
 自転車部で集まって観測会をしていること、普段見られない月の姿のおもしろさに加えて、期せずして流行した妙な告白大会のこと、チームメイトのこと。もちろん、異国で暮らす巻島の安否を問う言葉も忘れない。淀みない長文に、写りのいい写真のいくつか――月食の様子だけでなく、部員達のショットと、当然のように自撮り写真も含まれる――を添えて送れば、程なくして返信があった。連絡のまめでない巻島にしてはめずらしい。
『箱学キモいショ』
 端的にすぎる短いメッセージにくふふと笑う。たいがいひどいコメントだが、客観的な感想としては否定し得ないし、巻島が口癖をわざわざ文面に書き込んでくるのは、機嫌のわるくないときだと東堂は知っている。唇の端をあげて、クハ、と笑う顔が目に浮かぶようだった。
(巻ちゃん)
 異国に旅立った、生涯のライバルと思い定めた相手を思う。イギリスと日本の時差は9時間、あちらはようやく昼前で、月など空にありはしない。雨が多いと聞くあちらの天候が本日いかなるものであろうとも、この天体ショーを同時に分かち合うことは不可能だ。
 距離を隔てていても同じ月を見ていられるのならば、誰が始めたのやらこの屋上にすっかり蔓延してしまった、明治の文豪による愛の言葉を、数倍の熱烈さをもって送ってやるのだけれど。
(遠いなあ、巻ちゃん)
 イギリスは遠い。あのきらめく夏の日も、すっかり遠くなってしまった。
 背中を思い浮かべる。骨ばって細く、けれどもあの派手なクライムを支えるだけの筋肉に覆われた背中。東堂の前になり後ろになり、並んでいたはずのそれが遠い。ひとつ先の大人の世界へ彼は早くも飛び込んで、東堂に背中を見せつける。
(だが追わねばなるまいよ。俺たちは、ライバルなのだから)
 あの箱根。最後の勝負のために追ってきてくれた彼の姿に東堂がどれだけ歓喜したか、追いつ追われつ山を駆け上がったあの瞬間をどれだけ愛しているか、彼は正しくわかっているだろう。それが自惚れではないと、東堂は信じている。
 だから今度は、東堂が追う番だ。
 彼とレースで競える機会がこの先にあるのかは分からないけれど、それでも。
『ワハハ、俺達の仲の良さにヤキモチかね巻ちゃん?だが案ずるな、俺の一番のライバルはいつでもおまえだぜ!』
 情熱的にしたためた二通目を遠く海外へ送り出した携帯は、ややあってまた返信を知らせる。
『ワケわかんね。聞いてねーし』
 でも否定はしないんだな巻ちゃん――東堂は、また微笑む。
 それから月を見上げた。
「ああ、もう終わってしまうな……」
 地球の影が月面を通り過ぎ、月はまた元の輝きを徐々に取り戻し始めている。
 しばらくその様子を眺め、習い性のように写真を撮り、――それから東堂はまたメールの文面を打ち込んだ。
『月は見たか?』
 一文だけの簡素なメールを送る。予想通りに返信はない。
 メールの宛先は真波山岳だ。夏のインターハイ、箱根学園自転車競技部史上初めて一年生にしてレギュラーを勝ち取り、灼熱の三日間を東堂らと駆け抜け、最後の勝負を託されて――そして負けた少年は、いまこの場にいない。
 ごめん先輩、そーゆーの興味ないや。やることあるし。
 へらりと笑って東堂直々の誘いをさっくり断った真波はきっと今日の部活後も、足が動かなくなるまで山を攻めていたのだろう。今頃はようやく帰路についているところか。
 インターハイが終わってから真波は変わった。真面目になった、と評価する向きもある。だが東堂に言わせれば、真面目な真波など、もはやそれは真波山岳ではない。
 少し思案し、東堂は二通目を打つ。
『今度月見に付き合え。美しいものは誰かと見てこそだ』
 送信を押して、パタリと携帯を閉じる。
 山が好きで好きでたまらないあの無邪気なクライマーと体力が尽きるまで本気で山頂を競い、大の字に伸びて見上げる月はきっと美しいだろう。巻島とそんなふうに見上げた月が、いつも美しかったのと同じように。むろん山神の名を冠するものとして、二年も下の男に抜きつ抜かれつの互角の争いを許してやる気は、まだまだないけれども。
 そういう風に真波と山を楽しむことを、期待していなかったと言ったら嘘になる。が。
「あいつとも、話さねばならんなぁ」
 いまはきっと、まだ無理だ。それは袋小路だと第三者がいくら忠告しても、聞こえない時期というのはある。
 それでもおまえの周囲に人はいるのだと、伝えることはおそらく無駄にはなるまい。

 ――オレ、生きてる!

 ふと彼の口癖が耳に蘇った。
 先人が月が綺麗だと言い、死んでもいいと言ったように、真波山岳は愛をあの言葉で語るのかもしれない。
 東堂は空を見る。赤くかげっていた月が少しずつもとの光を取り戻していくさまを、静かに見守った。
 どこか禍々しく赤い月も、見慣れないかたちに欠けた様子も、それはそれで美しかった。けれどもやはりもっとも美しい月の姿は、まるく白く輝くそれだろう。
 視線を下げてあたりを見渡す。天体ショーは終わりを告げ、部員でひしめく屋上の空気もどこか緩んでいた。
 戻って来いよ、山岳。ここへ。
 胸の内で呼びかけ、そして東堂は、仲間たちのもとへと歩き出した。