月蝕とアイラブユー - 3/5

【カチューシャと元ヤンの場合】

 手洗いに行ってくる、と立ち上がった福富に、荒北は寝転がったままひらひらと手を振った。そのまま何とはなしに天体ショーを繰り広げる夜空を見上げていた視界を、
「荒北荒北」
 にゅっ、と頭上から逆さまに出てきた顔に遮られて、うおわっと荒北は思わず声を上げた。
「ッだよいきなり出てくんな! ウゼ!」
「うざくはないな!」
 東堂は意に介せずいつもの台詞で返してくるが、彼のライバルほどではないもののスポーツに打ち込む男子高生としてはいささか長すぎの感のある黒髪がすだれのように垂れてきて、事実として現状はかなりウザい。が、それを指摘しても面倒な問答になるに違いないので、荒北はそれ以上言い募る代わりに、東堂の秀でた額をぐいっと力尽くで押しのけながら起き上がった。
「なんの用事ィ」
「用もなしに来てはいかんか?」
 ひょこり、と首を傾げると、東堂は荒北の隣に腰を下ろした。荒北や他の部員がやるような、重力に任せてどすんと体を投げ出すような座り方を、東堂はしない。歌舞伎役者のようだと表現したのは誰だったか、動作そのものは大ぶりなのに、と乱暴な印象のかけらもない動きなのだ。手足の末端までコントロールのゆき届いた、動と静を同時に感じさせる所作は、そのまま東堂のペダリングの美しさに通じる。
 天才を自認する彼を、周囲が適当にあしらいつつも積極的に否定せずにいるのは、彼のこういうところを知っているからだろう。
「まあ、用といえば用か。なぁ荒北」
「だからァ、ナンだよっつの」
 片目をすがめて促すと、東堂はビシィ! と音のしそうな手つきで、大半が欠けた月を指差した。
「『あい、らぶ、ゆー』」
「……ハァッ!? ナニ言ってんだよてめェ頭沸いてんのかァ!?」
「ん? なにをそんなに怒っているんだ? 知らないのか、『月が綺麗だな』は英語だとこう言うんだぞ」
「このバァカチャンが、逆だ逆!!」
 思わず怒鳴りつけた直後に、あっ、と荒北は固まった。罵声を受けた東堂が、それはそれは楽しそうに、目を三日月のように細めてにんまりと笑ったからだ。
「やはり意味を知っていたな」
「ッ、――」
「あの反応では、残念ながらフクは知らんようだがな、どちらも」
 てめェ聞いてやがったのか! と怒鳴ろうとして、荒北はそれはそれは凶悪な顔つきで口をつぐんだ。東堂が先程の福富との会話を聞いていたのは問うまでもなく確かで、怒鳴ったところで勝ち誇ったように笑われるのがオチだ。
 はー、と深く息を吐き出し、荒北はガシガシと短い黒髪をかき回した。少し前の自分の気紛れが心底恨めしい。
「……言っとくけどなァ! 変な意味じゃねェかんな!!」
「そうだろうな」
 思いのほかさらりと肯定の言葉が返る。意表を突かれて思わず顔を向けた荒北に、東堂は存外に穏やかな笑みを返した。
「love、愛という単語は、恋愛感情のみを指すものではないからな。家族愛、友愛。ひとがひとを大切に思う感情のすべてだ」
「……おまえそれ言ってて口ん中カユくなんねェ?」
「ならんな。俺に言わせればおまえが照れ屋すぎるのだ。今風に言うとツンデレという奴か」
「ッセ!」
「うるさくはないな。というか、今うるさいのはおまえだなー」
 本当に、ああ言えばこう言う。
 もう相手にすまいとそっぽを向こうとしたところで、荒北、と東堂が呼んだ。
「おまえと見る月は綺麗だと、俺は思うよ」
「……あー、そぉ」
「おまえフクと俺で態度が違いすぎじゃないか?」
「あったりまえだろぉがテメー福ちゃんと同じ価値があると思ってんのォ!?」
「当然だ! 箱学一の美形クライマー、東堂尽八だからな!」
「うっぜ!!」
「うざくはないな! ほら荒北、定型句でなくても構わんのだぞ、友愛の情を示す台詞をこの東堂尽八に告げてみろ、ほらほらほら」
「あーウルセーウルセーウルセー」
 額に青筋をたてて荒北は罵声を吐き出す。
「おめェになんざ死んでも言うか! バァカ!! ――あっ」
 うっかり飛び出した失言に、目を円くした東堂が腹を抱えて笑い転げたので、殺意を込めて蹴飛ばしてやった。