月蝕とアイラブユー - 2/5

【エースクライマーとエーススプリンターの場合】

 月はずいぶん欠けてきた。何枚目かの写真を撮った東堂が出来映えを確認していると、のそのそと大きな図体が隣に寄ってくる。
「尽八、食う?」
 発音がやや不明瞭なのは、新開がパワーバーを口に咥えたままだからだ。東堂はもともと山なりの眉の片方の角度をさらにつり上げて、盟友を見やる。
「いらんよ。というか隼人、おまえさっきからずっと食べているだろう。物を食うなとは言わんが、もう少しカロリーの低いものにしたらどうだ」
「いやあ、この味が好きでさ」
「……ひとつ確認するが、部費で購入したものではないだろうな?」
「え、多分部のだけど」
「おいこら」
「でもこれ、泉田がどうぞっつってくれたんだぜ?」
「……泉田は相変わらずおまえに甘すぎだ……!」
 大仰なポーズで嘆く東堂の隣で、新開はマイペースにもぐもぐと咀嚼し、パワーバーをごくんと飲み込んだ。その間にも右手がごそごそとポケットを探り、次のパッケージを取り出す。
 その手首を東堂ががしりと握った。
「はーやーとー。俺はさっき、おまえになんと言った? ん?」
 新開は肩を竦めてパワーバーをポケットにしまいこみ、代わりにキャンディを取り出して包装をはがし、口に放り込んだ。
「尽八は真面目だなあ」
「おまえは予算会議で部費をもぎ取る苦労を知らんだろう。大変なんだぞ、あれ。チャリ部は実績も部員数もあるが予算も食うからな、他の部から集中砲火だ」
「へぇ」
「……次回は黒田が苦労するな」
 ふと東堂が、ため息をつくように呟いた。ちらりと新開が目を向けると、東堂が口元にこぶしを当ててなにやら思案している。
 箱根学園の自転車競技部が他の部に比べてなにかと優遇されているのは、圧倒的な実績を誇る故だ。全国大会二位、個人総合も二位三位四位という今年の成績もけして悪いものではないが、昨年の結果と比べて見劣りすることは否定できない。実態が互いの粗探しにひとしい予算会議で、そこを突かれるのは間違いないだろう。
「なあ隼人。次回の会議、俺のファンの女子から手を回すのはアリだと思うか?」
「うーん」
 新開は首を傾げる。
「黒田は怒るかも」
「だよなぁ……」
「けどバレなきゃいいと思うぜ」
「うむ」
 ニヤリと人の悪い笑みを東堂は浮かべる。
「隼人のそういうところ好きだぞ」
「おれもおめさんのそういうとこ好きだぜ」
 得意のポーズを向けた新開に、こら俺を仕留めるな、と東堂は苦笑した。
「ときに隼人よ。おまえが花より団子なのは今更どうこう言わんが、せっかくこうして機会を設けたのだから、少しは月も見たらどうだ」
 東堂が指差した方向を素直に振り仰ぎ、へえ、と新開は声を上げた。
「三日月とは違うんだな。面白いな」
「うむ。異形の美とでも言おうか」
 携帯のカメラをまた頭上にかざしながら東堂はしたり顏に言う。
「完全に影に入ると、赤く見えるそうだぞ。おまえの好きなたぐいの話に出てきそうじゃないか?」
「ああ、そうだな、あるかも」
 頷いた新開の、よく意外だと言われる趣味はミステリ小説だ。いかにもな体育会系タイプである新開が本を読むこと自体もそうだが、本気で走るとき以外は飄々として屈託のない新開とミステリ小説の取り合わせが、ミスマッチにうつるのだろう。
 しばらく二人は並んで月をみつめた。
「尽八」
 ふといたずらっぽい声音になった新開が、東堂にまなざしを送った。その目の輝きは、図体のでかさと全身を覆う見事な筋肉とをむりやりに無視すれば、『小悪魔チック』と言って言えなくもない、かもしれない。きりりと男らしい眉の下、甘く垂れて黒目がちの新開の瞳に、それとちょうど真逆の、眦が吊って瞳の色素の薄い瞳を向け、この目が俺についていたら女にしか見えないと言われたかもしれんなあと、東堂はもう何度目かもしれないことを思う。
 その印象的な目で新開が鮮やかなウィンクを決めると、
「おめさんと見る月は綺麗だなあ」
「ワハハ!」
 含みのある口ぶりで、バキュン、と性懲りもなく決めポーズを向けてくるものだから。
 東堂は声を上げて笑い、
「当然だ! 何しろ俺は登れるうえにトークも切れる、さらに美形! スリーピングビューティ、東堂尽八だからな!」
 たっぷりと芝居がかった所作で決めポーズといつもの口上を、少しばかり抑えた音量で返してやった。新開がパチリとまばたいて、ニヤリと笑う。
 そんな風にじゃれているところに、泉田と黒田の新主将副将コンビが寄ってきた。
「新開さん、これどうぞ! パワーバーの新味出てますよ」
「おっ、サンキュー泉田!」
「甘い、大甘だぞ泉田……!」
「あー大丈夫っスよ東堂さん。新開さんへの貢物は自腹で買えよっつって塔一郎には言ってあるんで。それよりさっきの予算会議の話すけど、使えるモンは使いたいんで、手回し頼んでいーすか」
「おお! 頼もしいな黒田、副主将たるものクレバーでなくてはな。わかったぞ、確かに引き受けた」
「んじゃ、サッカー部の新副部長のカノジョが東堂さんのファンらしいんで、そこ経由でサッカー部抱き込んでくれませんかね」
「おっまえ難度高いとこつっこんでくるな!? むしろその新副部長に恨まれてるぞ俺は!?」
「そこはキレるトークでお願いしますよ」
「……むぅ……」
 仕方あるまいと重々しく頷く東堂を、わー尽八チョロいな! とパワーバーを頬張りながら新開が茶化す。泉田がその隣、久々に見せる後輩の顔をして、ニコニコと嬉しげに笑う。
 クライマーとスプリンターの中心的人物である4名が楽しげに談笑して入れば、おのずと他の部員達も寄ってくる。新開も東堂も真剣に見入っている者に配慮してか声は抑え気味だが、皆楽しげだ。音頭を取った甲斐はあったと満足げに頷いて、東堂は後輩に笑顔で応じている盟友の、男らしく整った横顔を見やる。
 ああ、そうだな、隼人。
「――死んでも良いよ、俺は」
 誰にも聞こえない声で呟いて、東堂はひっそりと微笑んだ。