「……行っちまいましたねぇ」
「うん、行っちゃったね」
カバネの後ろ姿は一度も振り返ることなく、地上へと続く長い長い道の奥へと消えていった。その足取りは確かで、泥をまとわりつかせたような億劫げな所作の名残はどこにもない。
コノエは立ち上がると、隣に佇むクオンを見やった。
「……クオンさん。聞いていいッスか」
「いいよ。でも、立ち話には長いかな」
戻って、お茶にしようよ。そう言って、クオンはいつも通りの、穏やかな笑みを浮かべた。
とにかくリベリオンへ戻る、先のことはこれから考える――クオンから過去のいきさつを聞いてなおその一点張りだったリーベルの慌ただしい出立を見送ったあと、クオンはカバネの部屋を訪ねて、長い時間話し込んでいたようだった。
クオンを避けるカバネの心情を慮ってばかりだったクオンが、必要最低限の連絡以外で自らカバネに話しかけたのは、リーベルとカバネの会話に割って入ったあのときが、実に数百年ぶりのことだった。この地下深くまで流れ着いたあの二人には、確かに、変革の力を持っていたらしい。
彼らの間にどのような会話があったのか、コノエは知らない。知りたくはあったし、叶うならその場にいたかったが、それは従者としての分を越えることだ。コノエはいつも通りに住居を片付け、翌朝のための支度をして、床に就いた。
翌朝、いつも一番に目覚めるコノエを、旅支度を整えたカバネが待っていた。これから地上へ行くと告げられ、留守居を頼まれた。まるで寝耳に水の事態だ。自分もついて行くとコノエは何度も懇願したけれど、留守の間に地下の居住区が荒れて、この先ここで暮らしていけなくなっては困ると言われて、最後には諦めた。カバネは一度も口にはしなかったが、クオンの身辺の世話も、コノエを置いていく理由に含まれていたのだろう。
そうこうしているうちにクオンが起きてきて、カバネに目を向けて、にこりと笑った。
「行ってらっしゃい、カバネ」
「……ああ」
カバネはクオンの視線から逃げることなくひとつ頷いて、それで挨拶を済ませたとばかりに二人に背を向けた。土色の無骨な外套に身を包み、従者のひとりとして連れず、けれどもそれは確かに、王の出陣であった。コノエは思わず騎士の礼を取って跪き、ご武運を、と口にした。カバネは応えなかったが、彼が土を踏む音に交じって、わずかに、笑うような呼吸音がコノエの耳には確かに届いた。
「いやー、昔ッから、こうと決めたら待てのきかないお方ッスけどねぇ」
二人分の茶を食卓に置き、椅子を引いて腰を下ろしながら、コノエは苦笑する。何も告げられなかったことを残念に思わないわけではないが、カバネは主でコノエは部下だ。気安い口調や振る舞いも、その方がカバネやクオンがいくらか気が楽だろうと続けてきただけのもので、カバネに気遣われるより、命じられる方がコノエには心地よい。
それはそれとして、カバネの行動の理由を知りたいという気持ちは当然ある。クオンもコノエの心情を汲んでくれているのだろう、ありがとう、と律儀に礼を言って茶を一口啜ってから、あのね、と切り出した。
「カバネは、僕を助けたことを後悔していたよね。それは当然のことだ。ナーヴに敵対したことでゴウトは滅ぼされ、なのに死ぬこともできなくて、僕らは長い長い時を、三人きりで過ごすことになったのから」
「ああ…………、はい。そう、スね」
「”天子の呪い”を終わらせることはできず、次世代に持ち越されて、死なない身体だけが残る。そんな不完全な解呪なんて知らない方がいい。今のナーヴ教会にとって、天子は信仰の象徴で、今回みたいに外へ連れ出されるようなことがなければ、呪いで人を死なせる場面も、そうはない。人質としての価値がないアルムをリーベルが傍に置いて、自分や周囲の人間の命を危険に晒す理由はない。ましてや、ともに在る代償として、死を永遠に失う理由なんて――。カバネがそう思う気持ちは、僕にもとてもよくわかるんだ。彼は、とても優しい人だから」
クオンの言葉に、コノエも頷く。少し前の、カバネとの会話を思い出していた。リーベルを案じる気持ちから真実を語ろうとしたカバネは、かつての闊達さをすっかり失ってなお、高潔で心優しい王のままだ。
「でも、……でもね、僕は天子だったから……。知っているんだよ。僕のせいで、ただ僕が恐怖したせいで、人がばたばたと死んでしまう苦しさも。大切な人が、自分の傍にいるだけで呪いに蝕まれていく焦りや恐怖も。それでも傍にいて、笑って支えてくれる人がいることを、申し訳なくて、おそろしくて、それでも嬉しいと思ってしまう――一緒に生きて欲しいって、願ってしまう気持ちを」
「……クオンさん」
「アルムの呪いを解いても、世界のかたちはなにひとつ変わらない。だけど、アルムには――僕らには、それはもう、なにもかも違う世界なんだ。望むまま、大切な人の傍にいられる世界なんだ。それが、不死と引き換えにする価値はないなんて、そんなこと……、僕ら以外の誰にも言えない。カバネにだって、言わせないよ」
ふうわりとやわらかく、クオンは微笑む。
ああ、と、コノエは理解した。クオンはそれを、カバネに告げたのだ。
「ごめんね、コノエ。僕の運命に巻き込んで、きみやカバネを苦しめた。死ねない呪いを与えてしまった。ひどいよね……。わかっているんだ。でも、僕は……」
クオンは虚空を見つめる。視線の先の、空っぽの椅子は、カバネの定位置だ。
いつしか言葉を交わすことすらできなくなって、お互いに存在しないように振る舞いながら、それでも、ずっと、彼らはともに在った。コノエの世話がなければ暮らしていけないなんて、子供だましの言い訳だ。
「カバネが僕を助けてくれたことが、カバネの隣で生きる世界を彼がくれたことが、本当に、……本当に嬉しかったんだ。
あのひとを、僕のたったひとりの英雄を、あんなに、あんなに苦しめて、恨まれて、それでも、僕はこの世界が欲しかったんだよ……」
微笑んだまま、震える声をクオンは絞り出した。それが彼の懺悔なのだと、コノエにはわかる。涙を一粒もこぼさない彼が、いま泣いているのだということも。泣くことも、怒ることも、喜ぶことも、気の遠くなるような時間の中で、自分たちはうまくできなくなってしまった。
「リーベルとアルムがお互いを想う気持ちが、どんな強さかは、僕にはわからない。カバネにだって、きっとわからないよ。彼ら自身にしかわからない――ううん、彼ら自身にだって、すべてはわからないだろうね。いま、どれだけ強く想っているのか、その想いをずっと抱いていられるのか、いずれ失ってしまうのか……」
「……そう、スね」
「僕らは、うまく行かなかった。僕を助けたことで、カバネを苦しめてしまった。けれど、それは、リーベルとアルムがうまく行かないことの、証拠には、ならないんだ」
クオンの語る言葉は、長すぎる生に苦しみ続けたカバネに告げるには、あまりにも残酷な真実で――けれど、コノエにはわかる。
カバネはきっと、クオンのその言葉を、ずっと聞きたかっただろう。
「だから、カバネ様は行ったんすね。リーベルとアルムくんに、選ばせてやるために」
「うん。僕らは、彼らの先輩だもの」
「……クオンさん」
「なんだい、コノエ」
「ありがとうございます」
椅子を後方にずらし、コノエは深々と頭を下げた。コノエ、と小さくクオンが、困ったような声で呼んだ。
「……お礼なんて言わないでおくれよ。そんなのじゃないんだ」
「いや、言わせてください」
がばりと顔を上げ、主君の唯一無二の友をまっすぐ見つめて、コノエは晴れ晴れと笑った。
「我が君の出陣なさる姿を、今一度この目で見ることができた。私が手入れした剣を、あの方がふたたび戦いの場へお持ちくださった。こんな、――こんな喜びはありません」
「コノエ……」
「待つしかできない身が、歯がゆくはありますが……、あ、すんません、クオンさんを責めてるんじゃないッスけど」
「うん。わかってる」
応じたクオンは、もう、泣いてはいなかった。コノエは茶を飲み干すと、立ち上がる。
「あー! いい日だー! クオンさん、今日は飲みませんか」
「コノエの秘蔵のやつかい? すてきだね。いまなら、眉をひそめる人もいないし」
「そッスよ! 乾杯しましょう、乾杯!」
弾んだ声が室内に反響する。カバネがここにいたなら、やかましいと顔をしかめただろう。
そんな想像をすることすら、いまはやけに楽しい。
酒瓶を戸棚から取り出しながら、コノエは鼻歌を歌い出す。こんなに心が躍るのはいつ以来だろうか。きっと美味い酒になるだろう。カバネが戻ったとき、空になっていなければいいけれど。
心は勝手に未来を夢見る。かの英雄王の帰還のその日は、部屋中に灯りをともして、食べきれないほどの食事を並べて、そして今度は三人で、乾杯をするのだ。
――我らが英雄の、千年ぶりの出陣と、その凱旋を祝して。