陸が倒れた翌日、見舞いに訪れた病室には先客がいた。九条だ。
昔は頑なだったこいつも、最近では陸になにかがあったときは、こうして顔を見せるようになった。もちろん、そんな機会はないに越したことはないんだけど。うちのセンターはいつだって全力で、大きな一仕事のあとにこうして体調を崩すことは、残念ながら未だに皆無とは言えない。
七人全員で寮暮らしをしていた頃は、陸が大きな発作を起こした後、落ち着いたら帰宅しての療養となるのが通例だった。だいたいは大仕事のあとのオフのタイミングだし、暮らし慣れた家で、仲間に囲まれている方が、陸の体調にとってもプラスだと判断できたからだ。
けれどオレたちが寮を出てバラバラに暮らすようになってからは、陸は芸能人御用達の私立病院の、居心地のいい個室で回復期を過ごす。個人の仕事がそれぞれ多く、特にこの時期は陸の負担を見越して他のメンバーに仕事を割り振ることもあって、陸の生活面のフォローをしてやることが、オレたちにはもうできないのだ。
陸自身はやっぱり自宅に帰りたがったけれど、一織とマネージャーを筆頭にオレたち全員で説得して、病院にいて貰っている。その代わり、見舞いにはできるだけこまめに足を運んだ。オレたちだけでなく、事情を知っている人たちにもお願いして、顔を見せてもらっている。九条はもちろん、八乙女や十さん、Re:valeの百さん千さん、ŹOOĻのやつらもだ。ほかにも、この数年で少しずつ事情を話せる相手は増えていて、陸の病室は時々、ちょっとした社交場みたいになっている。
だから病室と言ってもそれほどシリアスな雰囲気ではないんだけれど――それは陸が起きているときの話。いまみたいに、陸が眠っているときは、この部屋の雰囲気はがらりと変わってしまう。
眠る陸の傍らに静かに佇む九条は、沈鬱なオーラを漂わせていた。陸の呼吸は穏やかで、苦しそうな様子はない。けれど双子の弟が病室にいるという状況に、心を痛めずにいるのは難しいだろう。
「……ねえ。少し話せる? 和泉三月」
「ああ、いいぜ。ラウンジ行くか?」
「いや、ここがいい。陸を一人にしたくない」
「わかった。そっちのソファ座ろうか」
陸の病室はいわゆる特別室ってやつで、デスクやソファセットが備えられている。(ついでにユニットバスもある。)陸はぐっすり眠っているようだから、そっちで小さな声で話せば、眠りを妨げることもないだろう。頷いて見舞いの品を冷蔵庫にしまい、オレは九条と隣り合ってソファに腰を下ろした。
「――小鳥遊さんから今回の経緯は聞いてる。陸が迷惑おかけします。だけど、身内として言わせてもらうよ。もう少しなんとかならないの。今年はもう二回目でしょう」
九条の声音は制御が効いた穏やかさで、それでも心痛はひしひしと伝わった。そりゃあそうだろう、と思う。こいつが陸に寄せる愛情の大きさはよく知っている。その陸がたびたびこうして倒れてるんじゃ、心が安まらないだろう。
「わかってる。正直、オレたちもなんとかしたいと思ってる」
「だったら」
「情けないけど……、オレらがどんだけ口酸っぱくして懇願してもさ、陸本人が本番でやる気になっちまったら、止めらんないんだよ。またアイツ、スケジュールに響かない程度に無茶するテクが年々上がってんだ……」
ごめん、九条。年上のくせに、力不足で。そう呟いてため息をつくと、九条は眉間に深い皺を刻んだ。
「陸が陸の意思で無茶をしてることは、ボクも知ってる。キミたちがどれだけ気をつけてくれても、陸本人が従わないんじゃ意味がない。だからこれまで何度も陸と話してきた。
――でも、陸一人じゃないでしょう。陸の無茶を、和泉一織が許してる。違う?」
「――――」
まっすぐ切り込まれて、オレは唇を噛んだ。
九条の指摘は正しい。陸がこうして無茶をして倒れるのは、一織が許しちまうからだ。
他のメンバーやマネージャーが陸に求める自制より、ほんの少し外側に、いつも一織が線を引く。ここまでならやっていいと――やれるなら、ここまで来いと。陸はその通りにやりきって、満足げに、心置きなくぶっ倒れる。それから数日休んで、周囲にごめんと笑って、また立ち上がるんだ。
一度なら感動ストーリーかもしれない。けど、あいつらは何度だって、その綱渡りを繰り返す。九条にはああ言ったが、オレたちだって止められるもんなら止めたい。
……でも。
九条はオレにぐっと顔を寄せて、正面から目を合わせる。陸を起こさないためだろう、声はあくまで低く静かで、だが隠しきれない怒りをはらんでいた。
「和泉一織はボクの話を聞かないだろうから、和泉三月、キミの情に訴えることにした。ズルいのは承知だけど、そろそろボクも我慢の限界だ。キミならわかってくれるでしょう」
九条はフェアなやつだ。きっとオレにこれを言うまでにずいぶん悩んだんだろう。それでも陸の兄として、どうしても、譲れないんだよな。
わかるよ。
だからオレも、腹を括ることにした。口にするのがどんなに心苦しくても、いまここで言わなきゃだめだ。
九条が陸の兄であるように、オレは一織のたったひとりの兄なのだ。
「……悪ぃ、九条。わかるけど、でもわかってやれねぇや」
「和泉三月?」
「一番苦しい想いしてんのは陸自身だし、身内が苦しんでて辛いのは九条だよな。申し訳ないと思ってるし、できることがあるならしてやりたいよ。けどさ――けど、じゃあ、おまえらは、一織がどんな気持ちでいるか、考えたことあるか? 陸に無茶させて、一織がなんにも感じてないって思ってるのかよ……?」
ガリ、と膝に爪を立てる。
この件で九条を責めるのは、本当は筋違いだ。でも、九条が一織を責めるなら、オレにだって言い分がある。
「アイツ、全部自分で決めてるんだ。オレらがみんな、陸を守ろうとしちまうから、陸の願いを叶えるために、叶えてそれでも陸を失わないために、どこまでなら許すか必死で考えて決めて、歯ぁ食いしばって陸の背中押して……、ずっと、一人で」
「――――」
黙ったまま、九条がオレを鋭く睨んだ。そうだよな、そんなこと、おまえはちっとも望んでないんだろ。責められても困るよな。
けど、一織を止めろとオレに言ったのは九条だ。
同じことを、オレはおまえに言わなきゃいけない。
「何もかも全部陸のためだよ、おまえのこと追っかけてきた、お前に並び立ちたがってる、おまえの弟のために戦ってんだよ……!」
深呼吸をした。喉の奥が震える。本当はこんなこと、オレが言えた義理じゃない。陸が無茶やって最高のライブにして、それでオレたちIDOLiSH7にどれだけのものをくれてるのか。わかってる。陸を支えることで返せるほど、小さなものじゃない。アイツがいなければきっとここまで来られなかった。オレたち6人、いやマネージャーや社長や万理さんやスタッフみんな共犯だ、でもだからこそ。
「オレだって正直見てらんねぇよ……。できるなら止めたいよ、けど悪い九条、陸のためじゃない、一織のためにだ。オレに一織を止めろっていうなら、おまえこそ陸を止めてくれよ、これ以上一織に苦しい想いさせないでやってくれよ……!」
「やめてください、兄さん」
「っ!」
静かな声が割り込んで、オレは勢いよく振り返った。
病室の戸口に立った一織は、凪いだまなざしでオレと九条を等分に見て、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「兄さんはご自分が思うより、興奮したときの声が大きいんですよ。七瀬さんを起こしてしまいます。お静かに」
「――和泉一織」
「こんにちは、九条さん。お見舞いをありがとうございます」
「ボクの弟のことだ、キミに礼を言われることじゃない。和泉一織、キミ、今の話を聞いていた?」
「さほどは。でも想像はつきます。……兄さんが言ったことは忘れていただいて結構ですよ。IDOLiSH7には七瀬陸の歌声が必要です。七瀬さん自身も歌うことを望んでいる。ツアーは大成功で、来週には退院もできる。スケジュールに穴を開けてもいません。なにか問題が?」
「大ありだ。キミは人の弟の寿命を縮めている自覚ある?」
「高熱や怪我を押して舞台に立つ人の言葉とは思えませんね。あなた自身がする無茶を、七瀬さんがしてはいけない理由はないでしょう。あなたの仰るプロの仕事を、七瀬さんも同様にこなしている。違いますか?」
「……っ」
「兄さんも、ご心配くださってありがとうございます。言うことを聞かずにすみませんが、私は七瀬さんのできる範囲を見極めているだけです。お医者様だって、少し休めば回復すると仰っていたでしょう?」
「…………」
困ったように微笑む弟を、オレは黙って見上げた。
おまえ、いつの間にこんな笑い方ができるようになったんだろ。目元にはうっすらと隈が浮いていて、でもそれはメイクできれいに隠せる程度のものだ。頭の天辺からつま先まできちんと整って、やつれた様子なんて一筋も見せない。今日も朝からみっちり詰まったスケジュールを完璧にこなしてきたのだろう。
頼って欲しいのに、守ってやりたいのに、どんどんオレから遠くなる、オレの弟。
「オレは陸よりおまえのほうが心配だよ、一織……。ちゃんと休めてるのか?」
「もちろん。ご心配いただくようなことは、本当にないんです、兄さん」
一織が頷き、九条が目を逸らして、聞こえよがしのため息をつく。
その重苦しい空気を打ち破ったのは、小さな笑い声だった。
「七瀬さん……!」
「陸!」
短距離選手もかくやという瞬発力で二人がベッドに駆け寄る。もちろんオレだってそれを追いかけた。笑い声の主――片腕を点滴に繋がれた陸は、昨日倒れたことが嘘のような明るい表情でオレたちを見上げ、ベッドに横たわったまま、自由な方の腕を持ち上げる。
「一織、」
弾かれたように一織が両手を伸ばして、陸の手を受け止めた。
「天にぃ、三月、ごめん。一織と二人にして」
「っ、陸、」
「お願い、天にぃ。ちょっとだけ。――お願い」
「――――」
陸の声音はいつもの甘ったれた弟のものによく似て、でも、どこかが決定的に違った。気圧されたように九条がじりっと後ずさり、くるりと反転する。
「わかった。また来る。お大事に、陸」
「ありがとう、天にぃ」
振り向きもせず言い、九条は大股に病室から出て行った。
「っ、九条……! あー、っと、陸、また来るな」
「うん、ありがと三月」
「一織のこと頼む」
とっさに出たセリフは、とてもじゃないがベッドの上の病人にかける言葉ではない。けれど陸は小さく笑い声を立てて、迷いなく頷いた。
「まかせて」
九条よりはいくぶん穏やかな足取りでオレは病室をあとにする。扉を閉めるために振り返ったとき、陸の枕元にいた一織が、椅子の上に崩れ落ちたのが見えた。
俯いた黒髪を、陸の手が慈しむように撫でているのも。
陸がちらりとオレを見て笑う。知らない表情だった。オレの弟だけじゃない。オレたちの天真爛漫なセンターは、いつの間にあんな笑い方をするようになったんだろうか。
一織も、陸も、オレの知っているあいつらではなくなっていく。
寂しさだとかやるせなさだとか、自分への怒りとか、オレに介入させない弟たちへの苛立ちだとか、様々な感情の去来する胸を抱えながら、オレは九条の姿を探した。まだ言い足りないことがたくさんある。オレにも、多分九条にも。吐き出させるくらいは、年上の仕事だろう。オレたちの間で言い合ったって、結局なんにもならないのかもしれないけど。
オレたち、自分の弟にフラれたようなもんなのかな。酷い弟たちだよな、なぁ九条。ブラコンの度合いじゃあいつら双子とは勝負にならないと思ってたけど、オレもたいがい重症だったらしい。
二人で手を取り合って、あいつらは進んでく。その背中の迷いのなさが、その足元の危うさが、オレはずっと恐ろしい。心配くらいさせろよと、きっと、ずっと、言い続けるだろう。たぶん九条も。
――けど。
九条の気持ちはわからないが、オレはもう、心のどこかで降参していた。オレが一織にはやれなかったもの、オレでは叶えられなかったもの。ずいぶん昔にオレが否定してしまった、なんだってできた弟の――一織自身の、夢。
それがたぶん、陸なんだろう。
一織がようやく見つけたそれを、諸手を挙げて喜んでやれたなら、どんなにか良かったろうか。ため息をつきながら、オレはラウンジの隅に見つけた九条の背中に歩み寄る。まずは酷いこと言ってごめんなと謝って――弟を取られた兄同士、傷をなめ合ってみるのも、いいかもしれない。