麦の実りと晴れた空

 ばたん!
 ナイフ投げは船室のドアを乱暴に閉めました。音楽家が咎める声を上げたのが扉越しにかすかにきこえます。ナイフ投げはますます腹を立て、飛行艇の廊下をずんずん進んでいきました。音楽家のことは好きだけれど、かれが人形使いをやさしく慰める言葉は、かけらだって耳にしたくありませんでした。
 さきごろこの船にやって来た人形使いのことが、ナイフ投げはきらいです。深く被ったフードの下にある陰気で卑屈な顔つきも、おどおどした態度も、胸に抱いた人形の声音でしか話しかけてこないところも、そんなふうなのに仲間たちにやさしくされているところも、……ショーに出始めて、たちまち子供たちの人気者になってしまったことも。
 なんであんなやつを仲間にしたんだろう。
 腹を立てながらずかずか歩いていたナイフ投げを、穏やかな声が呼び止めました。声のした方を振り返ると、クラウンが笑って手招きしています。そういえばここは、かれの部屋の前でした。なんとなく気恥ずかしくなりながら、ナイフ投げは素直にクラウンに歩み寄りました。
「髪がほどけてしまっているよ。結ってあげるから、ここにお座り」
 クラウンはカウチの座面をぽんと叩いてそう言いました。ナイフ投げはうれしくなって、ぽすんとそこに座ります。クラウンはブラシを手にカウチのうしろに立つと、ナイフ投げの金色の髪に絡んだ結い紐をはずして、丁寧にくしけずり始めました。
 クラウンに髪をいじってもらうのは、ずいぶんと久しぶりです。ナイフ投げはうっとりと目を閉じて、カウチに背を預けました。クラウンはナイフ投げの髪を指に絡ませ、伸びたねえ、としみじみと言いました。
「こんなにきれいな髪なんだから、大事にしておやり」
 うん、とナイフ投げは素直にうなずきます。いい子だ、とクラウンは言い、ごちゃごちゃとものを置いたテーブルの上から、鮮やかな青のリボンと、夜空のような濃紺のリボンを取りました。
「どちらにしようか」
 ナイフ投げは少し迷って、紺色のリボンをゆびさしました。そう、とクラウンは優しく答えて、青いリボンをテーブルに戻します。
 紺色はクラウンの髪の色です。ナイフ投げがこの船にやって来たとき、クラウンはその髪をひとふさ、ナイフ投げにくれました。
 ナイフ投げは、青い色がきらいです。自分の青い目もきらいです。金色の髪だって、ずっときらいでした。だって、ナイフ投げのうまれた土地には、金色の髪も、青い目も、ナイフ投げのほかにはひとりもいなかったのです。ナイフ投げはいつも髪を泥で汚し、ターバンを頭に巻いて、路地裏でこそこそと暮らしていました。それでもなにかの拍子に本当の色を知られると、ばけものだ、小鬼がいるぞと罵られ、石を持って追われるのでした。ナイフ投げはずっとひとりぼっちで、ずっとお腹を空かせて、ずっと怒っていました。
 けれどある日、ひとびとに追われて逃げるナイフ投げにぶつかったクラウンは、その拍子にこぼれた髪と、かれを見上げた瞳を見て、こう言ってくれたのです。
 ――麦の実りと、晴れた青空。なんと美しい色だろう!
 クラウンに手を引かれて、ナイフ投げはこの船にやって来ました。クラウンはナイフ投げをぴかぴかに洗い上げ、ぼさぼさの髪を整えて、きれいな服を着せてくれました。
 クラウンがやさしく梳かしてくれるたび、ナイフ投げは自分の髪が少しずつ好きになりました。髪を伸ばしているのは、クラウンと同じ色になった毛先が、いつでも自分で見られるからです。でもまだ、青はあんまり好きになれません。
「あの子をあまり怒らないでおやり。あの子は人間がこわいんだ。おまえの姿を怖がっているのではないよ」
 ナイフ投げの髪を編みながら、クラウンは穏やかに言いました。ナイフ投げは答えずに、唇をつんと尖らせました。そんなことを言われても、嫌な気持ちは変わりません。人形使いに怯えられるたび、自分はやっぱりおそろしいばけものなのじゃないかと、暗い気持ちに胸を塞がれてしまうのです。
 クラウンはそれ以上なにも言わずに、ナイフ投げの髪にリボンをきゅっと結ぶと、頭のてっぺんにキスを落としました。ナイフ投げはカウチに座ったままごろりと反転し、クラウンの胸元に顔をすり寄せました。|えり飾り《ジャボ》のひだが頬をくすぐります。子供のように甘える仕草にクラウンはくすくすと笑って、ナイフ投げの結ったばかりの髪を遊ぶように指に絡ませました。
 舞台化粧を落としたクラウンの、人形のように整った顔は、出会ったころからちっとも変わりません。ナイフ投げの背がかれを追い抜いたのはずいぶん前のことですが、クラウンの涼やかな声や、白くてしなやかな手も、ナイフ投げの記憶にあるかぎりずっと同じままです。
 クラウンのやさしく細められた青灰色のひとみに、ナイフ投げの顔と、空の色の目が映っていました。ナイフ投げはようやく唇をほころばせました。胸にくすぶっていたむかむかも、どこかへ行ってしまったようです。
 いつかは、青も好きになれるでしょう。あの人形使いにだって、優しくしてやれるかもしれません。きっとその日もクラウンは、今日となにひとつ変わらない姿で、こうして笑ってくれるでしょう。