Can’t Help Falling In Love

 コンコンコン。
 折り目正しいノックが三回鳴って、はーい、とオレは読みかけの本を置いて立ち上がる。
「こんばんは、七瀬さん」
 ドアを開けると、お盆を手にした一織が微笑んでいた。湯気を立てる二つのマグカップに入っているのは一織特製のホットミルクだ。
「こんばんは、一織。ミルクありがと! 入って」
「お邪魔します」
 恒例のやりとりをしながら、一織を部屋に招き入れる。この時間帯に二人とも部屋にいるときはほぼ毎晩、一織はこうしてオレの部屋を訪ねてくれるので、ノックだとかお盆だとか挨拶だとか、もうちょっと省略したっていいと思うんだけど、そういうことをしないのが一織なのだ。それに、この穏やかな響きの「こんばんは」がオレに向けられる機会はこのときを除いてあまりないので、オレもこの丁寧なやりとりを気に入っている。
 しばらく前から、オレの部屋にはクッションがひとつ増えた。大きめで、身体が沈み込む、きもちのいいやつ。元からあった赤系のチェックのをオレが使って、新しい紺系のチェックのはお客さん用、というか一織用だ。赤系統で統一したオレの部屋で、紺のアイテムはよく目立つ。新しいクッションを初めて目にしたときの一織はなんだかすごい百面相をしていたけど、最近は慣れた様子で使ってくれるようになった。
 二つ並べたそのクッションにもたれて、ホットミルクをゆっくり啜りながら、ぽつぽつと会話をするのが、オレたちのいつもの夜――なんだけど。
 困ったな。……ドキドキする。
「――七瀬さん。聞いてます?」
「えっ、と、……ごめん。あんまり聞いてなかった」
 たいして減っていないホットミルクをテーブルに戻して、オレは一織の顔を伺う。
 オレの視線に気づいた一織が、こっちを向いて、少し首を傾げた。長めに垂らしたサイドの髪が、さら、と揺れる。
 一織本人よりどこか素直な感じのするこの動きが、オレはすごく好きだ。
「あの、さ、一織」
「……はい」
「ええと……もうちょっとそっち行っていい?」
 言った途端、一織が固まった。顔と首と耳が、一気にふわぁっとピンクに染まる。うわぁ、かっわいい……!
 一織の返事を待たず、オレは腰を上げて、思い切って距離を詰めた。腰骨があたって、オレの左肩が一織の右肩に重なるくらいの、ゼロ距離っていうかマイナスぐらいまで。しゃり、とクッションの中のビーズが音を立てる。
「……近すぎませんか」
「くっつきたいんだもん」
「………………」
 困ったように眉を寄せて、一織は手の中のマグカップに口をつける。
「一織は、オレとくっつくの、イヤ?」
「いえ、……嫌、では」
 この角度だと、うつむいた一織のうなじまで赤いのがよくわかる。オレはたまらなくなって、一織の身体に両手を回してぎゅっと抱きついた。
「っ、七瀬さん……!」
「いおりぃ」
 一織の首のところに顔を伏せて、首筋に頬をすり寄せる。さらさらの一織の髪がオレの頬にかかって、ちょっとくすぐったい。――くすぐったいんだよね、これ。
 このくすぐったさを初めて知ったのは、昨日のことだ。
「あ、あの、」
「だめ?」
「…………」
「だめ? 一織」
 ゴト、と音がして、一織がマグカップをテーブルに置いたのがわかった。仕草の丁寧な一織らしくない、ちょっと大きな音になっていた。
「すき、一織」
「…………」
 黙り込む一織の、ごく、って飲み込む喉の動きも、この距離だとわかる。オレは一織に抱きついたまま、返事を待った。
 好き、という言葉を、初めて一織に伝えたのは昨日の夜だ。散々言ってきた「一織大好き」とは違う、好き。恋愛の、いちばんの、たったひとりのための「好き」は、気づいたら長いことオレの胸にあって、それがとうとうこぼれてしまった。
 おそるおそる、という風情で、一織の手がオレの手に触れてくる。確かめるように、そうっと俺の手に重ねられた一織の手は、さっきまでマグカップを握っていたからか、ふんわりとあたたかい。
「………………はい」
 長い沈黙のあと、囁くような声でくれた一織の返事も、昨日と同じだった。オレは嬉しくなって、一織の首筋に顔をうずめ、細い身体をぎゅうっと抱きしめる。お風呂のあとの一織の、いい匂いがした。やさしい、大好きな匂い。
「今日、来てくれてありがとう、一織」
「大げさですね。いつもしてることじゃないですか」
「うん、でも、オレたちがいつもじゃないから」
「……そうですね」
 ふふ、と忍びやかに一織が笑う。
「実を言うと、とても緊張しました。来るかどうかも悩んで」
「うん」
「でも、いつもしていたことですし、――来なかったら、七瀬さんは悲しむのだろうかと思いました」
「あはは。うん、ちょっと泣いちゃうかも」
「泣かないでくださいよ、そのくらいで」
「そのくらいじゃないよ。すっごい重要!」
「そうですか」
「うん」
「……そうですね。とても重要なことだ」
 一織が身じろぐ。腕の力を少し緩めると、一織はゆっくり身体を反転させ、真剣な顔をしてオレと目を合わせた。一織のグレーの虹彩に、オレの赤い髪がちらちらと揺れている。
「七瀬さん」
「はい」
「私は、あなたをスーパースターにすると約束しました」
「うん」
「あなたの願いを、私が叶えるとも」
「うん、一織」
「私があなたを導いて、あなたが降らせる流れ星を見たい。あなたが世界一だと人々に知らしめたい。ずっと夢見てきました。あなたと、……こういう関係になることは、その夢を壊すことに繋がるかもしれない。わからないんです、あなたと私がどうなってしまうのか。私はそれが怖い。怖くて、怖くてたまりません」
「っ、いお……」
「黙って」
 名を呼びかけたオレの唇に、一織は指先を当てる。
「ですが、……あなたの、…………っ、あなたの願い、は…………」
 溺れかけた人みたいに何度も不器用に息を吸って、一織はオレを見つめる。苦しそうな、いまにも泣き出しそうな、必死な顔をしていた。
 俺の口をやさしくふさぐ、白い指が震えている。
 今すぐ抱きしめてしまいたい衝動をオレは懸命にこらえて、一織の言葉を待った。
「…………っ、わたし、なんでしょう…………?」
「っ、」
「わたしが、……あなたのために、あなたを世界一のスターにするために、あなたの心を否定してしまったら――」
 一織の瞳がゆらゆら揺れて、涙の膜をうすくまとう。唇を湿らせる仕草を繰り返すのは、気持ちを隠したがる一織が、怯えながら懸命に本心を教えてくれようとしているからだ。
「それではあなたを、しあわせに、できないんでしょう……?」
「いおり、」
 オレのほうが泣いてしまいそうで、ぎゅっと唇を噛んだ。嬉しい。震えるほど嬉しかった。だって伝わってた! あんなに自信家のくせに、一織は身近な人の好意にだけ自信をなくす。好意を期待して間違ったら耐えられないとばかりに、向けられる愛情を低く見積もって、諦めてしまう。愛されなくても平気ですって顔をしながら、いつも一人で寂しがっている。その一織が、オレの気持ちを、オレの好きをわかってくれてた……!
 わかってくれるまで、言葉で態度で伝え続けようと決めていた想いが、もう届いていた。嬉しくて、嬉しくて、今ならどんな歌だって歌えそう。
 どれだけオレのことを考えてくれたんだろう。一織にとって楽な自己否定に逃げないで、オレのほんとうを見つめてくれた。きっと、すごく怖かったはずだ。それでも信じてくれた。好きだよ、一織。大好き。
 うつむいた一織が、長く長く息を吐いた。それからもう一度、顔を上げる。
 夜空みたいな瞳がきらめきながらオレを映す。もう揺らいではいない、強い目だった。オレをスターにすると言ってくれたとき。フレンズデーでTRIGGERの歌を歌う前に、オレをコントロールさせてと、自分を指針にしてと言ってきたとき。あのときと同じ、決意と覚悟のまなざし。
「腹を括ります。見えない未来をおそれてあなたを拒んで、あなたを今すぐ失うくらいなら、」
 オレの唇から、一織の指がゆっくりと離れていく。ぎゅっと握りこんだ手を、まるで誓いの仕草みたいに胸元に当てて、一織は微笑んだ。
 震えて、ゆがんで、へたくそな笑顔だった。撮影用の笑顔ならどんなに不機嫌でもすぐさま繰り出すアイドル和泉一織が、オレにだけ見せる表情だ。
 何でもさらっとこなせて、頭も良くて、オレよりずっと大人びた一織が、オレのために一生懸命になって、いちばん苦手なことから逃げないでいてくれる。胸が一杯になって、叫びだしてしまいそうだ。
 オレは両手を伸ばして、一織の頬を包んだ。血の気のひいた白くつめたい頬に、オレの手の熱が伝わるように。息のかかる近さに顔を寄せて、一織の声に耳を澄ます。
 教えて、一織。おまえのこころを教えてよ。ぜんぶ、信じるから。
「――私は。あなたと、ともにいきたい」
「いおり、」
「七瀬さん」
 ひらいたままの一織の目から涙がひとつぶこぼれて、ぽたりと床に落ちる。
「わたしも。あなたが好きです」
「一織っ……!!」
 もう、我慢ができなかった。両手に力を込めて一織の顔を引き寄せる。オレからも顔を寄せて、口と口ががつんとぶつかるみたいな、乱暴なキスをした。唇がじんと痛くて、バカだなって思うけど、止まれなかった。
「いおり、っ」
 名前を呼んで、また唇を押しつける。唇が上下に少し開いて、それから離れたら水音がした。ああキスの音だって思った。キスをしている。一織とキスしてる。ずっとしたかった。ずっと!
 また唇をくっつける。オレはまだキスシーンのあるようなドラマに出たことはなくて、だからこれが初めてのキスだった。一織は恋愛ドラマの主人公の相手役をしたことがある。キスシーンも、たしかあったはずだ。見てはいない、見たくなかった。あのときはまだ自分の気持ちがよくわかってなくて、身内のキスシーンいたたまれないってわめく三月と同じ気持ちなんだと思ってた。バカだよね、荘五さんや環のドラマは見てたのに。
 たぶん、見たら悲しくて泣いちゃうから、見たくなかったんだ。
「すき、いおり、……っ、だいすき」
「、あ、」
 キスの合間に、伝えたい言葉を絞り出す。もう頭がろくに働かなくて、小さな子供みたいなことしか言えなくなっていた。
「んっ、……なせ、さ」
 一織がオレを呼ぶ。いつのまにか、手がオレの背中にまわっていた。縋るように、シャツをぎゅっと握り込んでいる。
 ドラマの中の一織は、絶対に、こんなふうなキスをしないだろう。そう思ったら身体が発火したみたいに熱くなった。顔を傾けて、かぶりつくみたいに一織の唇を貪る。お互いうまく息継ぎができてないから、唇が酸素を求めて自然と開いて、中のやわらかいところがこすれあって、
「――――っ!」
 触れたところから電流が流れ込んでくるみたいだった。気持ちいい。信じられないくらいに気持ち良くて、パニックになったオレは思わず、逃げるみたいに一織を押しのける。
「え、……な、なせ、さ、」
「ちが、あの、あのね、ちがう、まって、」
 呆然とオレを見つめる一織はライブのラストみたいに顔を上気させ、涙が幾筋も頬を伝って、その頬に濡れた髪がはりついていた。有り体に言って、めちゃめちゃえっちな顔だった。そのえっちな顔の、濡れたグレーの瞳が翳りを帯びるより前に、オレは大慌てで一織に抱きついて、要領を得ない言い訳をわめきちらす。
「まって、やじゃない、イヤじゃないよ、一織、誤解しないで、好き」
「、あの、」
「あのね、やばい、きもちい……」
 膝立ちになって、ぎゅうぎゅうと一織の身体を抱きしめる。あ、と一織が、戸惑ったような声を上げた。オレのかたくなったとこが、一織のおなかの近くに当たってる。うっ、やばい、もうこれだけで気持ちいい……。
 オレはたぶん真っ赤になってたけど、一織も同じくらい真っ赤だった。あの、その、って意味のない言葉を言いながら、ソワソワと視線をさまよわせる。とりあえず変な誤解は解けたと思うけど、今度はいたたまれなくて身の置き所がない。あちこち目がうろうろして、そうしたら、見えてしまった。
 ゆったりした部屋着のズボンの下で、一織のもたぶん、オレとおなじになってる。
 ――その瞬間の感情を、どう説明したらいいんだろう。
 だばばって音のしそうな勢いで、オレの両目から涙が溢れた。ライブで突然泣き出しちゃったこともあるけど、それよりひどい。
 ぎょっとした顔の一織の首に腕を巻きつけて、ひんひん泣きながら縋りつく。
「一織、……一織、好き」
「七瀬さん」
「すきなんだ、おねがい、」
 たぶん、オレも怖かった。怖かったんだって、今初めて気がついた。一織がオレにくれる好きが、オレの好きと違ったら? オレの歌が好きな一織が、オレのために、オレの恋を優しく受け止めてくれているだけだとしたら?
 幼かったオレはずっと、両親や天にぃの、きれいでやさしい愛情だけを貰って、真綿にくるまれるように生かされてきた。
 感謝してる。父さんも母さんも天にぃも、大好きで、愛してる。だけど、たったひとり恋をしたひとから、そんな愛だけ返されるなんて耐えられない。
「オレのこと大事にしないで、一織、きれいじゃなくていい、きれいじゃないのがいい」
「っ、七瀬さん、」
「ひどいよな、ごめん、知ってる、けど」
「…………ばか、ばかなひと、」
 ぐい、と襟首を掴まれて、引き寄せられる。ボロボロ泣いてる一織が、オレの目を睨みつけながら唇を押しつけてきた。
「んっ…、っふ……ぅ、んん」
「っ、ん、ひぉ、」
 一織が仕掛けてきたのは、涙と唾液でぐちょぐちょの、とんでもなくやらしいキスだった。小さな生き物みたいな舌が入ってきて、舐め回されて、なにこれ、なにこれ……! びりびり痺れて、目の奥が真っ赤に染まる。あまりのことに一織を凝視するオレから、一織も目を逸らさない。燃えるような目だった。
 意識するより先に手が動いて、一織の身体をきつくかきいだく。一織の腕も、オレに絡みついていた。
「……っ、あなたを、大事にしない覚悟なんて、とっくに……!!」
 キスの合間に、血を吐くように一織が言った。ぶるぶる震える腕から、一織の激情が伝わる。――そうだ。そうだった。それは、恋をするよりも先に、オレが一織にねだって、一織がオレにくれたものだ。
 世界中のお医者さんがだめって言っても、一織が歌えっていう時は、歌えるオレになりたい――。
 とんでもなく、酷いことを言った。一織はずっと、その覚悟を抱えてオレと走ってきてくれてたんだった。
 オレはまた泣いて、でもごめんと謝るより、いまは一織とキスがしたかった。震えながら泣きながら、オレたちはやらしいキスをかわす。ハリウッド映画で見るみたいなキスの声、息継ぎをしながらキスを続けたら、漏れ出ちゃう声が自然とああなるんだって、初めて知った。
 一織の背をクッションに押しつけて、ぴったり覆い被さる。オレと一織のアツいところが布越しに密着して、くらくらする。腰を押しつけ合って、はちゃめちゃに興奮したオレは一織のスウェットの裾をめくって肌をなでた。肌はうっすら汗ばんで、一織の匂いがつよくなった。一織の手もパジャマの裾から入ってきて、オレの背中をまさぐる。ぞわぞわして、たまらない。
 少しだけキスをやめて、身体を起こした。ねばついた唾液がつうっとオレと一織の唇に橋を作って、ぷつりと切れる。
「一織」
「……七瀬さん」
 名前を呼んだら、うっとりと微笑んだ一織が呼び返してくれた。やさしくて、あまくて、でも勝ち誇るような顔をしている。
 私のものだ、って、言われてる気がした。
 そうだよ、おまえのもの。
 オレの歌はファンのみんなのものだけど、歌うたいの七瀬陸の心臓は、おまえにあげる。持っていてよ、一織。ずっとそこにいて。オレが歌えなくなるその瞬間まで、オレを見てて。
「私を置いていかないで、七瀬さん。私も、置いていきませんから」
 オレに向かって腕を広げながら一織が言ったのは、昔オレが一織にねだった約束だ。
「うん」
 その腕の中にゆっくり収まりながら、オレは短く誓った。
 だいすき。
「ねえ、……もっと近くに行きたい、一織」
 耳元で、吐息のように一織は笑う。
「私もです。あなたをください、七瀬さん」
 甘い、やさしいキスをして、そしてオレたちは、恋を始める。