歌ってください、七瀬さん。
一織のその要求に陸がノーを返したのは、それが初めてのことだった。
「イヤだ」
きっぱりと突きつけた否定に、一織がその目を大きく見開く。
「……七瀬さん」
「オレは、歌わないよ」
「何故ですか」
「……わかんないの?」
一織の問いに、胸の痛みを感じながら陸は質問を返す。一織がおずおずと頷いた。信じられない、とその顔には書かれている。
陸の歌を世界でいちばん愛しているのが一織で、一織に歌を望まれることをなにより求めているのが陸だ。それでも陸の身体が耐えられなくなったとき止めるのは一織だし、身体中がバラバラになりそうな悔しさと、一織に言わせてしまう不甲斐なさに歯噛みしながら、陸も最後には頷く。
ずっとそうしてやってきた二人だから、一織が陸の歌を望んで、陸が応じないなんて、一織は思ってもみなかったのだろう。
「歌わないよ。あの歌だけは、ダメだ。あれは、――Perfection Gimmickは、おまえの歌だから」
「七瀬さん……」
一織はハッと顔を上げて、陸の顔をまじまじと凝視する。その眉尻が切なく垂れて、視線がじわりじわりと下がった。きゅっと唇を噛む、痛々しい仕草を、陸は無言のまま見守った。
ひどいじゃないですかと陸を詰った、まだ十七歳だった一織の記憶が、その姿に重なる。
あれから数年経って、陸も一織もそれぞれに前に進んだ。それでも自分たちのかけらがいまも、あの場所から進めないまま泣いている気がする。
「オレがセンターで歌うはずだったよね。でも、あのときのオレには無理で、おまえがセンターに立った」
はい、という代わりのように、一織が黒髪を縦に揺らす。
「毎日しんどくて不安だったから、一織が代わってくれて安心はしたけど、でもめちゃくちゃ悔しかったし、悲しかった。本当はさ、歌いたかったよ。愛なNightの最初のテーマ曲で、オレたちをみんなに知ってもらうための歌だもん。オレがIDOLiSH7の七瀬陸ですって、真ん中で言いたかった」
「……知っています」
絞り出すような声が、あの日の陸の想いを肯定する。
のろのろと顔を上げた一織は、目尻を真っ赤に染めていた。いまにも泣き出しそうな苦しげな顔をして、それでも食い下がる。
「私は、私だって、あなたに歌ってほしかった。私達を広く世間に届けるためのあの曲は、あなたの歌であって欲しかった。だから、――いま、私達がここまで来たからこそいま、記念のステージで、あなたの声で歌われるこの曲が聴きたいと、望んではいけないんですか」
「――一織の馬鹿」
「なっ……」
「オレが欲しくて欲しくてたまらなかったもの、おまえがそんなに簡単に手放すなよ……!」
高ぶる気持ちのまま陸は叫び、手を伸ばして一織の襟首を掴んだ。青みがかったグレイの瞳を、至近距離から睨みつける。
「おまえにとって、あの曲はその程度のものなの」
「……七瀬さん……」
「ステージの真ん中に立って、青いサイリウムがいっぱい光ってて、おまえの名前を呼ぶ声がたくさん聞こえて」
ぽつ、と雨が降った。
陸の目から、一織の頬に降る雨だ。
「オレが大事にしてるもの、死んだって手放したくないもの、……おまえは要らないって言うの」
「――――」
ななせさん、と、震える声で一織が呼んだ。
その目尻からも涙が零れて、頬で陸の涙と混じる。
「……ごめんなさい……」
親とはぐれた子どものような、頼りない、小さな声だった。
「あの曲が、Perfection Gimmickが、すきです。私の名前を呼んでもらうのはうれしい、誇らしいです、でも、……でも、」
襟にかかる陸の手に、一織が手を添える。
わずかに力を込めて――まるで、陸にその喉を差し出すように。
「ずっと、ずっと、ほんとうは、あなたに、返したかった」
「いおり、」
「ごめんなさい……、わたしは、あなたのようには、あの場所を愛せない」
はらはらと泣くその姿がどれほど美しく魅力的か、きっと世界でただ一人、和泉一織だけが知らない。
昔から、ずっとそうだ。容姿も、身体も、頭脳も、陸の羨むなにもかも持っているくせに、一織はそれをただの道具のようにあっさりと投げ捨てて、陸の歌に、仲間の笑顔に目を輝かせてばかりいる。
陸にはそれが腹立たしく、そして切なくてたまらない。
一織の襟にかけた手を外し、代わりに陸はその肩をそっと抱き寄せた。
いつだって重い責任を当たり前のように背負ってくれるそこを、責任ではなく期待でもなく、ただ愛情だけで包んでやりたいのだと、どうやったら伝わるのだろう。
「歌ってよ、一織。おまえの、おまえだけの歌をきかせて。オレの隣で、オレたちの真ん中で」
心からの願いを込めて、陸は大切な相棒の、細い身体を抱きしめる。長くかぼそいため息が耳元で聞こえて、一織が遠慮がちに腕を回してきた。
「…………この頑固者…………」
この場面でこのセリフが出てくるのが和泉一織の和泉一織たる所以だろう。思わずくすっと笑ってしまえば、一織からも苦笑の気配が返ってきた。まだ鼻をぐすぐす言わせているくせに、いくつになっても生意気で、ちっとも年下らしくない。
「頑固はお互い様じゃない?」
「はぁ……。わかりました、あなたに免じて、今回は諦めます」
「今回はって」
「私があの曲に不誠実だというあなたの指摘は正しい。――でも、私が大事にしているものを、あなただってわかっていないでしょう。ですから、お互い様です」
「……どういうこと」
「言葉で説明しても伝わりませんから。わからないなら、いいんです。いつかわかって」
「えええ……。なんかまた言いくるめられてる気がする……」
「ふん」
いつもの調子になってきた。結局、一織とはずっとこうだ。きっと世界でいちばん大事で、わかってほしくて、わかりたい相手なのに、どこまでもどこまでも、どこかが重ならない。
「オレたちって平行線だよね……」
「それならそれでいいんじゃないですか。平行なら、ずっと離れずに行けますよ。線路みたいに」
「虹を越えていける?」
「夜空を抜けて、宇宙の果てまで」
「そっか」
じゃあ、いいか。
なんだかすとんと腑に落ちて、陸は笑う。
「『カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう』」
夜空へ延びる果てなき線路のイメージは、いつか舞台で演じた台詞を連れてきた。思い出すまま口にすれば、一織は一瞬息を呑み、それからため息のように忍びやかに笑って、
「『どこまでもどこまでも、僕たち一緒に進んで行こう』」
なんでもないことのようなさりげなさで、同じ場面の台詞で応じてくれた。ああ、やっぱり一織はすごい。嬉しくなって、陸はばしばしと一織の背中を叩きながら、声を立てて笑う。
――二人で引用した、その物語の結末なんて、そのときの陸は、ちっとも意識しなかったのだ。