「おまえ、前に言ったよな。オレの本気の想いはみんなに届く、オレの願いをみんなが叶えたがる。オレにはそういう力があるんだって」
壁際に一織を追い詰め、陸は低く囁いた。じとりと近い距離から一織を睨み据える、赤く大きな瞳の中には、炎が燃えさかっている。
その顔を見続けてはいけないと知っていて、一織はもう目を逸らせない。陸と目を合わせたまま、縛り付けられたように硬直してしまっていた。そうだ、これこそがまさに、人の感情を喰らうモンスターの吸引力だ。
「オレには、まだよくわかんないよ。そんな力、オレにあるなんて思えない。――けど、おまえがそんなに強情なら、なってやる。世界中に向かって叫ぶよ。……『一織、愛してる』って」
甘やかに愛を囁く言葉が一織の鼓膜を震わせ、遅効性の毒のように全身を麻痺させていく。
やめて、と一織は小さく呻いた。陸はそれを聞いて、いっそうまなじりをつり上げる。
「一織が好きだ、いっしょにいさせてって。好きな人を好きだって言うことのなにが悪いんだよって、オレの本気で、世界中に訴えてやる。オレの言葉なら、みんな共感してくれて、俺の願いを叶えてくれるんだろ。そう言ったのはおまえだよ、一織」
「やめて……おねがい、やめてください」
「どうして」
「あなたの――七瀬陸の訴求力は、そんなことのために使っていいものじゃない」
「『そんなこと』？」
不快げに眉を跳ね上げ、鼻先が触れるほど顔を寄せて、陸は一織を視線で貫いた。
「好きなやつがいて、その子もオレのこと好きなのに、世間体とか、アイドルの不文律なんてものを理由に拒まれて、オレの想いまでなかったことにされるのが、『そんなこと』？」
押し殺したような声音が、陸の本気の怒りを伝えてくる。心臓を握り込まれるような心地だ。普段の、じゃれ合うような喧嘩などまるで比較にもならない。彼の双子の兄の見せる冷ややかさすら、優しく感じられるほどだ。
「――っ、ななせさ……」
「そんなに世間が大事なら、世間のほうを変えようよ。みんながいいよって言ってくれる世界なら、いいんだろ？ 優等生の和泉一織クンは、さ」
陸の指先が、一織の表情を隠す横髪をすくって、形のいい耳にかけた。くすぐったさにビクッと一織が震えるのを見て、吐息だけで笑う。
――誰だ、この男は。
一織は唖然として、目の前の青年を見つめた。ぞくりと、痺れるような悪寒が背筋を駆けのぼる。
「ねえ、一織、どうしたの？ オレが怖い？ オレのこと、コントロールするんじゃなかったの？」
「――――」
ごくりと喉が鳴った。おそろしさに震える睫毛を伏せ、長く長く息を吐いて、一織はふたたびその目に陸の姿を映す。
暴れまわる心臓を懸命になだめながら、まっすぐに、その炎の瞳に視線を合わせた。じっと奥底まで覗き込めば、燃えさかる炎の芯の、不安定な揺らぎが見えた。
激情の奥で、ちいさな陸が、ひとりぼっちで怯えて泣いている。
覚悟を決めるときだった。本当はもうとっくに、できていなければいけなかった。
自分の感情が恐ろしくて、逃げていただけだ。
「しますよ」
声はもう、震えなかった。
「私が、あなたの魔王になる」
ほんの一瞬、陸が泣き出しそうな顔になる。
一織は甘くほほえんだ。その顔にずっと絡め取られてきた。最初の一人が自分だっただけだと――そう思い込むのは楽だった。でも。
「『そんなこと』ですよ。あなたの力を、そんなことのために使わせてなんかあげない。あなたは、七瀬陸は、スーパースターになる人だ」
「いおり、」
「だから」
そっと唇を重ねるのは、ほんのわずかな動きだけで足りた。
それほど近くにいる。いつだって、そうだった。
数センチの隔たりを埋めるために、足りなかったのは覚悟だけだ。
「あなたがその願いを世界に叫ぶ前に、私が叶えればいいんでしょう。仕方のないひとだな……」
「――やった！」
ぱちりとまばたきをしてから、陸がぱっと破顔して、一織に抱きついた。怪物の顔はいずこかへと霧散して、ちぎれんばかりに尻尾を振る犬がいっぴき。
ちょっと変わり身が早すぎないか。一織は先ほどとは異なるため息をつく。
「……人前では、節度は守って」
「うん！」
「むやみやたらに言いふらさない」
「わかってる！」
「それから……」
「わかってるってば、一織しつこいよ」
物理的に黙らせてやるとばかりに、今度は陸が唇を重ねてきた。押しつけるばかりの子どものキスのあと、ぷは、と息を吐いて、照れたように笑う。
「一織真っ赤」
「っ、誰のせいだと……」
「へへ、オレ！」
ふにゃりと頬をゆるめた陸が、こつりと額を一織のそれに合わせてきた。少し汗ばんだ、一織の白い額を、陸の前髪がくすぐる。
「だいすき、一織。オレを置いていかないで。天国でも地獄でも、おまえと一緒に行くよ。スーパースターにだって、一緒になるんだからな」
「…………はい」
三度目のキスには、どちらからともなく目を閉じた。吐息が混じり合い、鼓動が重なって、まるでデュエットを歌っているようだ。
ほとんど脅迫めいた言葉で追い詰めてきた陸の、泣き出しそうだった瞳を一織は思い浮かべる。陸はいつだってそうだ。怖くても、苦しくても、前に進もうとする。
彼を支えて、高みに押し上げると決めたのだ。
それこそがずっとずっと追い求めていた、一織自身の夢だ。
その夢のために、恋も愛も不要だと思っていた。なくすことはできなくて、でも一人でそっと抱えるだけにしておきたかった。陸とのあいだに、そんな不確かで不合理なものなど要らないと思っていた。
けれど、違うのだろう。
きっと一織が捧げるこの愛すらも、陸というモンスターは喰らわずにはいられない。
この怪物が飢えないように、一織は愛を注ぎ続けてやらねばならない。――それならば、大丈夫だ。抱えた愛の重さなら、一織にだって自信がある。
人の想いを喰らい続けるモンスターと、重たい感情を持て余す魔王。二人で手を取り合って、どこまで行けるだろう。天上だろうか、地の底だろうか、それとも虹のたもとまで。
「あいしてる、一織」
うっとりと甘い声で、うたうように、陸が囁きかける。
万感の思いを込めて、一織は静かに応じた。
愛していますよ、わたしのスーパースター。