その先の物語

「カバネ」
 扉の向こうから、クオンが呼んだ。
 俯いて思索に沈んでいたカバネは、はっと顔を上げた。クオンの声には、そうさせるだけの響きがあった。この数百年間カバネが聞き続けた、悲しげで申し訳なさそうな、遠慮がちに呼ぶ声とはまるで違う。
 静かで、けれど、強い。
「話があるんだ、カバネ。ここをあけて。……お願いだよ」
 しばしの逡巡ののち、カバネは立ち上げると戸口に手を掛けた。鍵などない粗末な扉だ。クオンがその気なら、いくらでも勝手に押し入ることができる。実際、ずっとずっと昔には、クオンはよくカバネの都合などお構いなしに飛び込んできたものだ。
 気が遠くなるほど昔の、何気ない日々のことを、結局いまも忘れられずにいる。
 カバネがゆっくりと引いた扉は、ギイと軋んだ音を立てた。
「ありがとう、カバネ」
 クオンはにこりと笑うと、部屋に足を踏み入れた。灯りをつけても? と問われて、カバネは頷く。
 辿々しい手つきで手燭からランプに火をうつし、クオンは少しためらってから、寝台に腰を下ろした。人を招くことなどないカバネの私室には、カバネの使う椅子と寝台がひとつずつあるだけだ。
「カバネも、座って」
 促されて、椅子に腰かける。視線が同じ高さで交わって、カバネは居心地の悪さに身じろぎをした。
 クオンの顔を正面から見るのも久しぶりだ。彼は、こんな顔をしていただろうか。
「ふふ……、なんだか、変な感じだ」
 同じようなことを考えたらしいクオンが、小さく苦笑する。カバネは眉間に皺を寄せて、彼を睨んだ。
「話があるんだろう。くだらないことを言っていないで、本題に入れ」
「ああ、ごめんね。さっきも少し話したけれど……、リーベルと、アルムのことだよ。カバネ、彼らがともに生きる道は、本当にないんだろうか」
「…………。現在のナーヴは、俺たちの頃の何倍も支配力と軍事力を増している。アルムの奪還までなら、運が良ければ叶うかもしれないが……完全な解呪の方法を教会から聞き出せる可能性は限りなく低い」
「うん……そうだね」
「ユニティオーダーの初動が遅かったところを見ると、ナーヴはアルム自身の生死にさほど執着してはいないだろう。アルムを連れ出し、おまえと同じ解呪を施してしまえば、ナーヴは新たな天子の育成に手をつけるだろうな。アルム個人を天子の呪いから解放することは、おそらく不可能ではない。――だが、それをやってなんになるというんだ」
 苦々しい思いとともに吐いた言葉は、思った以上に棘を帯びていた。クオンがびくりと肩を波立たせ、目を伏せる。
「ナーヴ教会の非道はなにひとつ変わらない。それでも、アルムが地上で暮らせるようになればいいのか。善行をしたといい気になって、時の流れの外に置き去りにして死んでいくのがあの男の望みか? それともふたり手に手を取って俺たちの道連れになると? ひと思いに心中するほうが、まだマシだ。――後悔するに決まっている」
「…………」
 ふつふつと胸に沸き上がる昏い衝動を、どこか他人事のようにカバネは知覚する。どす黒く粘ついた、それはまぎれもない怨嗟だ。
 だから、彼と言葉を交わしたくなどなかったのに。
(おまえは俺の、最後の誇りすらも奪うのか)
(子どもひとり救ってやれないどころか、赦すことすらできない醜い男よと、嗤わせてやれば満足か)
「アルムを同じ地獄に引きずり込んでやりたいか、クオン。俺とコノエを、おまえの運命に巻き込んだだけでは足りないか?」
「っ、」
 ナイフで心臓を貫くときのような手応えが、カバネの利き手を震わせた。幻肢痛にもどこか似た生々しさ、視界は返り血を浴びたように赤い。
 クオンをひどく傷つける言葉を選んでぶつけたのは初めてだった。それだけはしたくなくて、ずっと彼から逃げていた。そんなちっぽけなプライドすら守らせてくれないこの子どもが、憎くて憎くてたまらない。
「だって、嬉しかったんだ!」
 クオンの上げた声は、まるで悲鳴のようだった。
「嬉しかった。嬉しかったんだ、カバネ。ごめん、ごめんね、きみを、きみとコノエを、僕の運命に巻き込んでしまってごめんなさい……。でも、だけど、僕は、僕はね、……嬉しかったんだ、ほんとうに、嬉しかったんだよ。もう兵器じゃない、もう誰も殺さない、もう、泣きたいときに泣いていい……っ」
「――――」
「覚えているんだ、カバネ、僕の手を引いてくれたきみの手のあたたかさも……、初めて名前を呼んでくれたきみの声の響きも……、花瓶に活けてくれた花が綺麗だったことも、ぜんぶ、ぜんぶ……!」
 嗚咽まじりに、クオンは言葉を続ける。
「ごめんね……、酷い目に遭わせてごめんね……、きみに罰されることもできなくてごめんなさい……。だけどカバネ、きみがもう、とっくに失ってしまった気持ちでも……、僕がいま、どんなに、きみに憎まれていても……、それでも、後悔してないって言ってくれた、あのときのきみの言葉だけで、それだけで、僕は……」
「――――、…………」
 長く、ふるえる息を、カバネは肺から吐き出した。
 いつの間にか視界は元の色を取り戻していた。小さなランプの照らす薄暗い部屋。いにしえの英雄王が辿り着いた、ひどくちっぽけな縄張りだ。もうずっと長いこと、ここに閉じこもってきた。目を閉じ耳を塞いで、永い永い時をただやり過ごすように――。
 それでも書を読み、地上の出来事に目を向け続けてきたのは、何故だったのだろう。
 クオンは切なげに微笑んで、腕の包帯を指先でなぞる。
「あの子たちだって、後悔するのかもしれない……。それでも、立ち止まったら、奇跡は起きないんだ。僕たちは、チャンスをうまく掴めなかったけれど……、でも、それは僕たちが間違えてしまっただけだって……、可能性は、あったんだって、信じたいよ……」
「――……ひどいことを、言うんだな。それでは、俺たちはただの、愚か者だ」
「……うん。ごめんね……」
 ひそやかに、クオンが笑う。
「きっと、意味があるんだよ。だって、彼らはあのまま死んでいたはずだ。なのに生きのびて、ここまで流されて、そっくりの立場の僕らに会って……、それが、諦めさせるためだなんて、あんまり意地悪じゃないか……」
「俺たちの人生で、運命が意地悪でなかったことなど、大してないだろう」
「そんなことない。だって、僕の人生に、きみの存在をくれた。それだけでおつりが来るくらい、優しいよ」
「――――」
 はあ、と嘆息して、カバネは片手で顔を覆う。
「……それで。どうしたいんだ」
「っ、カバネ、」
 指の隙間からでも、クオンがぱっと顔を上げたのがわかった。紅い大きな瞳にランプの灯りが反射して、きらきらと光っている。
 覚えている。カバネはそのきらめきが、とても、好きだったのだ。
「呪いの言葉でなく、祝福を。信じてるって、がんばれって、きっと奇跡をつかめるって、あの子たちの背中を押してやろう。先輩の役目って、きっと、そういうものだと思うんだ」
「……っふ」
 顔を覆っていた手を顎に当て、カバネは低い笑い声を漏らした。ぱちりとまばたきをするクオンに、片眉を上げてみせる。
「千年物の祝福には、いささか物足りないな」
「え……」
「意味、ね……。いま、この時代に、この俺が、『死』に嫌われた肉体をもって存在することに、意味があるって言うんならな……、おい、コノエ。どうせ聞いてただろう。出てこいよ」
「ちょっとちょっとちょっとカバネさん、趣味悪いッス、勘弁してくださいよ……。いやそりゃ聞いてましたッスけどぉ……」
 半開きの扉の奥から、コノエが苦り切った顔をのそりと突き出す。わ、と声を上げたクオンは、一切気づいていなかったのだろう。千年を生きてなお、そういう抜けたところがあるクオンが、カバネは嫌いではない。
 恨んで、憎んで、遠ざけて。それでも、嫌いにはずっとなれなかった。
 それが真実だ。
「俺は何者だ? 呼んでみろよ、コノエ」
 たちまちしゃきりと背筋を伸ばしたコノエが、重々しく発声する。
「ゴウト国第十三代国王、カバネ陛下」
「ただちに支度せよ。出陣する」
「はっ!」
 床に片膝をついて騎士の礼を取ったコノエに目を合わせ、カバネはにんまりと笑ってやる。
「ありったけ仕込めよ。何回死ぬかわからんからな」
「当然ッス!」
 やりとりをぽかんと見守っていたクオンが、次の瞬間ぱああと顔を輝かせ、鞠のように飛びついてきた。
 その勢いを受け止めるのも、ほとんど千年ぶりだ。
「――カバネ! 格好良い!」
「ふっふ。当然だ」

 ――さあ。
 英雄譚の続きを、物語りに行こうか。