忘れ得ぬ獣

 大斧が、常識外れの速さで迫り来る。
 避けることなど、とても無理だ。カバネは両足に力を込めて衝撃を受け止めた。左腕が吹き飛び、脇腹がえぐれたが、カバネの肉と骨は二撃目が放たれるまでの時間を僅かに引き延ばす。
 僅かだが、十分な時間だった。カバネは右手の短刀を深々とヴィダの肩に突き立て、曲げた膝を鳩尾に叩き込む。血糊にまみれた武器を捨て、次の刃を外套の裏から引き抜いた。
「がぁぁッ!!」
 咆哮を上げたヴィダが、片手で斧を振りかぶった。彼の体重ほどもあるだろう武器を自在に操る膂力は人間のものとは思えない。”人類最強”――その二つ名は正確とは言えないなと、カバネは胸の内で苦笑する。これはすでに、人類の持ちうる強さではない。
 第十二地区に暮らす死者崇拝の部族。カバネが地上に暮らしていた頃から、その存在は知られていた。血族結婚を繰り返し、死者を奈落に放り込み、積み重ねられた死によって戦士たちの戦闘力を強化する。
 ゴウトは軍事の国だったが、むやみな侵略はしなかった。十二地区は縄張り意識が強いものの、拡張欲は乏しい。十二地区との戦端を開いたのは、支配欲の強いナーヴだ。
 ナーヴの呪いの天子は十二地区の戦士たちを死に至らしめたが、戦士らは息絶えるまでに聖印を刻んだ騎士を数多く道連れにした。すさまじい戦いだった。
 天子の奪取を目論んでいたカバネは、その戦場の様子を遠くから眺めていた。その戦いでナーヴを震撼させた戦士らの中にも、ヴィダほどの者はいなかっただろう。
 千年の時を経て彼らの呪術は増幅し凝縮され、ヴィダという青年の形を取っている。
「すさまじい強さだな……」
「当然だァ!」
 美しい顔を凄絶に歪めて、ヴィダがまた吠える。
「俺は最強なんだよ! 誰よりも、誰よりも、誰よりも!! 俺の仲間はみんな死んで死んで死んで死んで死んだ! 死ぬたんびに俺を強くした! だから、誰にも、負けねぇ!!」
「負けない、ね……!」
 左腕が指先まで再生した瞬間、カバネは隠し持っていた短刀を投げ放つ。ギン、ギン、と鈍い音を立ててヴィダの大斧がそれらを弾く隙に間合いを詰めて、踵の仕込み刀でヴィダの足の腱を切り裂いた。
 カバネはかつては軍事国家の王であり、国一番の勇士でもあった。その腕を鈍らせない程度の鍛錬は、長い地下暮らしの暇つぶしのひとつだ。それでもヴィダの戦闘力にはとても及ばない。世界中から集めた手練れを十人並べても、ヴィダ相手では互角がやっとだろう。
 血しぶきを上げるままのヴィダの足に蹴り飛ばされ、カバネはごろごろと床を転がった。転がりながらまた武器を取り、立ち上がると同時に投げ放ち、軌道を追うように床を蹴ってヴィダに肉薄する。斬撃を受け止めながら、腕の肉を削ぐ。
 ヴィダに対してカバネに利があるとするなら、肉体の損傷に頓着しなくていいことだ。肉を切らせて骨を断つ、どころの話ではない。こちらの骨を断たせるあいだにヴィダの骨を断てばいい。真っ二つに両断されても、跡形もなく切り刻まれても、カバネは死にはしない。ヴィダとて、そんな化け物を相手にした経験はないだろう。勝手の違う戦闘が、彼を苛立たせているのがわかる。
「ふっ……、人類最強、こんなものか? まだまだ、殺したりないんじゃないのか?」
「うっせぇ、くそが……!! 大人しく死んどけ……!!」
 激昂するヴィダに見せつけるように、カバネは口角を上げて笑ってやる。希望を託した青年たちは先へ進んだ。カバネの役割は、少しでも長くこの場にヴィダを留め置くことだ。
 いまヴィダを突き動かしているのは、絶望と、怒りと、殺戮への衝動だ。自分がそれを一手に引き受けている間は、この獣は誰を殺すこともない。
 哀れだとは思う。
 死者を背負う重みは、カバネとて知っている。カバネが統べた美しい国は、カバネの独断専行の報いを受け、赤子の泣き声とともに壊滅した。ともに地下街に逃げ込んだ僅かな手勢も、再起を果たすことなく滅びた。
 死にゆく者たちはみな、カバネの名を呼んだ。カバネに想いを託し、恨みを手渡し、未来を願い、そうやって死んでいった。だがカバネは彼らに、なにひとつ報いてやらなかった。
 千年の時が流れ、ゴウトの物語など、もはや誰も語らない。一夜にして滅びた悲劇の国の名は、世界にすっかり忘れられた。カバネの愛した美しきゴウト。女たちの織った布の文様も、優しい響きの言葉たちも、夏の夜を彩る祭りの賑やかさも、カバネが生まれ育った城の、迷宮のようなつくりも、もう、誰も知らない。カバネとコノエとクオンの記憶の中にしか存在しない。
 その悲しみを知っている。
 残される苦しみを知っている。
 忘れられる無念さを知っている。
 死者の声を聴くというこの男が、なにに囚われているかも、きっと世界中でカバネが一番、知っている。
 カバネにはそれでも、コノエがいて、クオンがいた。ヴィダにはもう、彼らのような存在すらいないのだろう。
 ひたすらに、哀れだった。
 それでもカバネは、リーベルとアルムに未来を手渡すと決めたのだ。死んだ者、死にゆく者の無念さで、生きた者を押しつぶして、誰も彼もを不幸にして、そうして得られるものなど、なにひとつない。
 覚えていてやることしか、カバネにはできない。
 ヴィダの斬撃のひとつひとつ、咆吼のひとつひとつ、与えられた死のひとつひとつを、死ねないこの肉体に、狂うこともできないこの脳に、刻んでやることしかできない。
「が、は……ッ、……、どうした……、もう、終わり、か……?」
「死んどけ、っつってんだァ! バケモンがぁ!!」
「ふ、ふふ……、死なせて……もらえるなら、嬉しいが、な……」
 ヴィダの振り回す斧に肉体を切り刻まれながら、カバネは笑う。
 死ねない肉体で良かっただなんて、千年生きて初めての感慨だ。
 ヴィダ。哀しく美しき獣よ。
 この呪いの解けるその日まで、おまえをけして、忘れはすまい。