おやすみの前に

「また夜更かしですか? 二階堂さん」
「おまえさんこそ、明日も学校だろ。あまり遅くなるんじゃないよ」
「ええ、もう寝ます。その前に、これを洗いに」
 そろそろ日付が変わろうという時刻、リビングにやってきたイチは紺色のマグカップを軽く掲げて、キッチンに足を向けた。短い水音が二回と、カタンという音は水切りかごにカップを置く音だろう。手早いもんだ。たかだかカップひとつだけど、リクだと何回かに一回はやばい音が聞こえてくるし、タマやナギも手つきが危なっかしい。年少の奴らの中で、イチの家事スキルは頭ひとつ抜きん出ている。ミツはもちろんメンバー最強だし。和泉家がどれだけいい家庭なのか、二人を見ていたらよくわかる。きちんと躾ける親と、親思いの息子たち。
 ミツにくっついてイチも出てっちまって、俺もいなくて、そりゃこの寮も大変だったよな……と、あらためて思う。使う頻度の高いグラスや皿がずいぶん被害に遭っていて、タマは半べそだったし、戻ってきたミツもイチも苦笑いしていた。ソウはもちろん頑張ってくれてたんだけど、家事を主に回していたメンバーの4分の3がいなくなっちまったんだ、限度があるよな。それにソウは味覚がアレだし。
「映画の資料ですか」
 すぐ部屋に戻るのかと思いきや、イチは俺の手にしていたものに興味を持ったらしい。ソファの後ろに立ったイチを振り仰いで、表紙を見せてやる。
「まあ、そんなもん」
「映画専門誌……。これなら四葉さんが泣かずにすみますね。だいぶ古いバックナンバーのようですが、これは二階堂さんの?」
「いや、千さんが借してくれた。監督のインタビュー載ってるから、参考になるかもって」
「ああ、『mission』の。撮影は順調ですか?」
「んー、まあまあかな」
 つい先日まではとても順調とは言えなかったのだが、先日打ち明け話大会を催したとはいえ、そこまで正直に言える性格はしていない。イチは疑わしげに首を傾げたが、それ以上突っ込んでは来なかった。
 もう寝ろよ、おやすみ、と言いかけて、全員の予定を書いたボードにちらりと目を向ける。イチの明日の予定は学校とダンスレッスンで、仕事が詰まっている様子はない。
「あー、イチ?」
「はい」
「えっと…………、悪かった」
「いきなり、なんですか」
「『和泉プロデューサー』にさ、変なこと言っちまったなって。おまえさんと二人で話す機会があったら、謝んなきゃって思ってたんだ」
 言いながらへらっと笑っちまうの、悪い癖だなと思ってはいる。思ってはいるんだが……苦手なんだよ、こういうの、心の底から。目を逸らさなかっただけ、及第点として欲しい。
 イチは俺をじとっと見下ろして、はーっと大きな息をついた。それからスタスタと大股に歩いて、俺の対面のソファに腰を下ろす。ああ、うん、正面に来るのね……。ほんと、まっすぐだよ。
「二階堂さん。謝罪ならもう少し具体的にお願いします」
「うっ……いや、」
「と言いたいところですが睡眠時間が惜しいので、私から言って差し上げますね。IDOLiSH7を瓦解させかねないスキャンダルに関わりがあることを仄めかすことで、IDOLiSH7のためにあなたを切り捨てますと――あるいは、それでも私たちにはあなたが必要ですと、私の口から言わせたかった。影のプロデューサーである私の判断に従うという形式を取って、思考停止をしたかったんでしょう。違いますか」
「……ご名答です……」
 ひとっかけらの容赦もなく、イチがズバリと斬り込んできた。
 諸手を挙げて降参のポーズを取りつつ、うなだれる。顔が真っ赤になってる自覚はあった。もうほんと心底恥ずかしい。五歳も下の高校生に、なんつう甘え方をしてるんだ。
「はい。では謝罪をどうぞ」
「ごめん。マジごめん。悪かった。申し訳ありません」
 ふう、とまたため息を、イチが吐く。
「……本当ですよ。ひどい人」
 くぐもった声がかすかに震えていて、俺は羞恥心をねじ伏せて顔を上げた。イチはこぶしを口元に当てるいつものポーズで、あさっての方を向いている。長くて真っ直ぐなイチの睫毛が、水気を含んでいるように見えた。
「あなたを追い出したいわけ、ないじゃないですか」
「っ、ごめん……!」
 言葉尻に噛みつくみたいに、口からまた謝罪が飛び出した。
 ――メンバーにどれほど罵られたとしても、私がここからあなたを追い出してあげます。
 イチは優先順位を間違えない。IDOLiSH7にしがみつける俺なら、守る。しがみつく覚悟がない俺なら、切る。
 間違えずにいるために、イチは自分自身の感情を、優先順位の一番下に置いてしまうやつだ。
 嫌われることに怯えていた俺には、イチのその間違いのなさがしんどかった。いいからもうお前なんか要らないって言ってくれよって思ってたし、何があったって仲間ですって縋りついても欲しかった。
 なんて甘ったれ。あげく『かわいくないガキ』だって? ガキはどっちだよっつう話だよな。
「……いいですよ、もう」
 何度かまばたきをして、ゆっくり俺に向き直ったイチが小さく笑う。
 ああ、きれいだな、と、場違いな感想が浮かんだ。イチはきれいだ。見た目の話じゃなくて、存在とか、魂っていうのかな、透明な水晶みたいだと思う。純粋培養の――たとえばリクみたいな、汚いものが目に入らないタイプのきれいさとは違う。人間の汚さも醜さも知っていて、なお染まらない硬質なうつくしさだ。
「それに、二階堂さんに大人扱いされるの、嫌いじゃありませんし」
「イチ……」
「もう寝ます。二階堂さんも、夜更かしはほどほどに」
 ポロリとこぼした言葉が恥ずかしかったのか、イチはせかせかと立ち上がる。俺はひとつ息を吸って、その背中に向けて声を張った。
「イチ、いや、和泉プロデューサー。俺さ、IDOLiSH7にしがみつくよ。遅くなったけど、覚悟ってやつ、決めた。みっともなくても、お前らに迷惑かけても、諦めたりしない。お前らと、ずっと一緒にやっていきたいからさ」
 半身で振り向いて、合格です、とイチがほほえんだ。
「二階堂リーダー。IDOLiSH7がIDOLiSH7であるかぎり、みなさんがIDOLiSH7であろうとするかぎり、私は全力で戦いますよ。誰ひとり欠けさせない。盾にも、剣にも、なってみせる。――私はずっと、そうなりたかった」
 ひらりと黒髪を翻して、細っこい姿が扉の向こうに消える。
 俺はソファに思い切り背中を投げ出して、天井を仰いだ。ほんっと、ウチの子らってさぁ……。
 かっこよすぎて、お兄さん困っちゃうね。
 両手を天井に向けて伸ばしてみる。格別でかい手じゃない。甘やかされた妾の子の経験値なんてたいしたもんじゃない。お兄さん、なんて名乗れる器なんかじゃないと、とっくに思い知ってる。
 でもあいつらが、リーダー、って俺を呼ぶから。
 ぐっ、とこぶしを握った。爪が手のひらに食い込むくらい、強く。この痛みを覚えておこう。いつだってこの決意を、今日のこの日の気持ちを、同じ強さで引っ張り出せるように。
 大事なもんだけは、絶対に、この手に掴んだままでいるよ。離すもんか。

 ああ、きっと今夜は、いい夢が見られそうだ。