Still white canvas.

『何者にだってなれる。』

 都内有数のターミナル駅の地下通路に張り出された巨大な広告には、そんなメッセージが書かれていた。
 ちりばめられた写真は、日常を切り取ったようなものばかりだ。半分ほどには、人の姿が写っている。後ろ姿、手元のアップ、前髪で目元を隠した横顔、ロングスパンで撮られたショット――。徹底的にモデルの顔を隠した写真が並び、中央にはひとつのメッセージ。
 立ち止まる私の周囲から、音量を抑えた、けれども隠しきれない興奮に満ちた囁き声が聞こえてくる。
 ねえ、これって――。
 間違いないよ、だって――。
 絶対そう! 見間違うわけない――。
 パシャリ、パシャリ、シャッター音も聞こえてくる。私は慌てて歩みを再開し、その場をあとにした。いつもの帰り道を辿りながら、頭の中はあの広告のことで一杯だった。
 何者にだってなれる、だなんて。
 あなたたちが言うの。

 囁き合う彼女たちと同様、私も顔を見せない彼らが誰なのか、すぐに分かっていた。幾人かの特徴的な容姿や、右下に小さく入った企画ロゴからも、それは明らかだ。
 Re:vale、TRIGGER、IDOLiSH7、そしてŹOOĻ。最近、若年層向けの大きな企画で起用されることの多い、四組のアイドルグループ。彼らがある企画に参加するという発表は、芸能ニュースを軽くでも追っていれば目に入る。頑張っている人々、夢を追う人々を応援したい、そういった企画主旨だった記憶があった。
 私は特に誰のファンというわけではないけれど、彼らのことは好きだった。わちゃわちゃした等身大の姿が魅力的なアイドリッシュセブン、かっこよさも面白さもかわいさも兼ね備えるRe:vale、俺様キャラと思いきや、最近かわいい面が見えてきたŹOOĻ。ゴージャスとセクシーで売っていたTRIGGERは、芸能界から消えたように見えたけれど、どうやら復活を遂げたらしい。所属が変わったとかなんとかで、以前より親しみやすくなった印象がある。
 だけど彼らは、アイドルだ。
 何気ない日常の中にいるような写真をいくら撮ったって、そのきれいな顔面をわざと隠したって、彼らは華やかな世界の住人だ。そうであってほしかった。
 喉元までせり上がったのは、怒りだった。
 何者にだってなれる――だなんて。
 もうとっくに「何者か」になっている人たちに、そんな言葉を投げかけられたくない。
 私にはなにもない。ただ日々を暮らしているだけ。あなたたちみたいな、いきいきと輝く人たちに活力を分けてもらって、ようやく生きていられる、ちっぽけで平凡な存在だ。
 だのに、わざわざ高いところから降りてまで、私と並ぼうとしないで。余計に惨めになってしまう。
 腹の底にぐるぐる渦巻くものを抱えながら、カツカツとヒールの底を鳴らして、家路を急いだ。買ったばかりの靴が、私の踵に靴擦れを作った。

 それから数日経った、ある日のことだ。
 あの日から、会社の行き帰りは少しだけ憂鬱なものになった。横長の大きな広告を、完全に視界に入れずにいるのは難しい。私のこの感情が八つ当たりめいたものだとは分かっていた。SNSや芸能ニュースでも、目に入るのは好意的な声ばかりだ。
 ため息をつき、いつものように足早に通り過ぎようとしたところで、違和感に気づく。目を向けてしまうのは、結局、それだけこの広告を気にしているからなんだろう。
 ひゅうっと息を吸い込んで、私はそのまま立ち尽くしてしまった。

『何者にだってなれる。』
 あの日私が腹を立てたフレーズが、白いキャンバスに書かれていた。その手前、足元に並ぶのはペンキの缶。筆やテーブル、脚立代わりだろう大小のスツールも置かれている。
 視線を動かす。右半分には、十六人の彼らが並んでいた。以前の広告のような普段着姿ではなく、白いツナギのような揃いの服で、思い思いの着こなしと立ち姿で、全員がこちらをまっすぐ見ている。
 引き寄せられるように、私はふらふらとその広告に近づいた。
 彼らはなんだか不思議な表情をしていた。確かに笑顔なのに、アイドルという言葉から思い浮かぶ、格好良い、可愛い、元気な、クールな、セクシーな、そういう笑顔とは、どこかが違う。
 自信。誇り。決意。そんな言葉が浮かんでくる。
 彼らの後ろには、ひとつの絵があった。絵というより、模様だろうか。たくさんの色を使い、描かれているのは渦だった。あるいは、波のようにも見える。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ。
 どうだ、と、言われている気がした。
 左にあったあの白いキャンバスに、彼らは彼らの絵を描いた。一人で描く絵ではなく、おそらく十六人全員で、身体ごと巻き込まれそうな大きな渦を。
 筆の跡も鮮やかな、まだ乾きもしていないような巨大な渦の前に並んで、彼らは誇らしげに私を見つめてくる。
 
 We’re [ IDOL ].
 We’re [ARTIST].

 中央に大書された2行の英文もまた、彼らが彼ら自身で描いたものを、高らかに歌うようだった。
 どうだ、と。
 オレたちは描いたよと。描いているよと。あなたはどうか、と。
 ほら、ここに、まだ白いキャンバスがある。これは、あなたが描くものだよ、と――。
 そんな声が聞こえた気がした。

 知っている。知っていた。彼らが簡単にあの場所に立っているわけじゃないこと。降り注ぐのは賞賛の言葉だけではなく、それでも笑顔で、輝きを失わず、必死で立ち続けているのだということ。
 夢みたいにきれいで、現実味のない、高いところの人たちでいて欲しかった。でもそうじゃない。そうじゃないんだって、必死で叫ばれているみたいだった。
 頑張るのはしんどい。自分がちっぽけだと思い知るのはしんどい。あなたたちは選ばれた存在で私とは違うんだと、言い張るのは簡単だ。でも。
 描きたくなってしまった。
 私だってあんな顔をして笑ってみたいって、思ってしまったのだ。
 スマホを取り出して、カメラのアプリを起動した。パシャリと写真に収めたのは、笑顔を浮かべる彼らではなく、白いキャンバスと、そこに描かれた一行のメッセージだ。
『何者にだってなれる。』
 We’re IDOL、We’re ARTISTと彼らは言う。それは何者にだってなれた男の子達が選んだ夢、描いた虹だ。
 私はどうだろうか。あのキャンバスになにを塗り、あの白い枠に何を書こう。
 アイドルって、なんだか凄いな。昨日までも同じ言葉を目にしていたのに、今日私が受け取ったのはエールだった。きっと何千何万の私みたいな人間が、彼らに勝手に腹を立てて、勝手に励まされているんだろう。アイドルたちはそれを全部受け止めて、ああやって笑っているんだ。

 明るい音楽を連れて帰るような、不思議に浮き立つ気分で、私は家路につく。デザインに一目惚れして買った新しい靴は、あの日よりずいぶん足になじんで、私の足元で軽やかな伴奏を奏でている。