ずっと恋をしていた

 そうですよ、と疲れたような顔で笑って、一織はずるずると床に座り込む。
「私はずっと、兄さんのことが好きなんです。恋愛感情として」
「一織……」
 オレが名前を読んでも、一織はこちらを見なかった。カーテンを開けたままの窓の外を、ぼんやりと眺めている。
 すっかり暮れた空には、三日月が浮かんでいた。
「……ねえ、七瀬さん。血の繋がったきょうだいって、どうして恋をしてはいけないんでしょうね」
「え、」
「事実として、血の近い男女から生まれる子は、そうでない子より、先天性の疾患が発現しやすくなる。いとこより近い関係の婚姻が法律で禁じられているのはそのためです。――でも、恋をすることと子を作ることは、別な話でしょう。子供が病気になるからだめだというなら、遺伝する可能性の高い病気のある人は、誰とも恋をしてはいけないことになる。そもそも同性では、たとえつくりたくても、つくれませんし」
 レポートを読み上げるような、淀みのない、淡々とした声音だった。一織がオレになにかを教えてくれるときの話し方と変わらない。そのことが、胸に痛かった。
 血の繋がったきょうだいで恋をしてはいけない理由。
 オレが今この瞬間に人生で生まれて初めて直面している疑問を、そんな風に語れるくらいに、一織にとってのそれは身近なものだったんだ。
「昔からタブーとされてきたから? 同性愛を禁じる文化や宗教だって、世界各地にありましたよ。でも、”同性に恋をしてはいけない”、”同性と恋愛するなんておかしい”という思想は、今の世の中では差別的だと指摘されるでしょう。古くからの禁忌なんて、絶対的な価値観ではないんです」
「……うん」
 一織は足を曲げて引き寄せて、膝こぞうに顎を乗せる。小さな子供みたいな仕草だった。
「いけない気持ちだと、ずっと、思っていて……、兄さんに申し訳なくて……、それでも、どうしても、気持ちは消してしまえなくて……。だから、調べたんです。たくさん。絶対に赦されない、罪深いことなのだと納得できれば、諦められるかもしれないと、そう、思って。……でもね、七瀬さん」
 ようやくこっちを見た一織は、能面がひび割れるみたいに、ひどく歪んだ笑顔を浮かべる。
「ないんですよ。ひとつもないんです。私が私の自由な意志で、兄さんに恋をしてはいけない、合理的な理由は、ひとつも。私のこの気持ちは、罪深いものなんかじゃない。諦めたくて調べたのに、そう結論を出したらやっぱり、嬉しかったんです。本当は諦めたくなかったのかもしれません。……でも、そんな証明ができたって、結局何にもならなかった」
「一織、」
「最初から分かっているんです。七瀬さんだって、九条さんが恋の相手になりうるかなんて、考えたことはないでしょう? あのひとが『血の繋がった兄だから』」
 言い切られて、オレは言葉を失う。一織の言った通りだからだ。天にぃのことが大好きだけど、恋愛感情かどうかなんて、考えたこともなかった。大好きで、大切で、特別だけれど、恋をする相手として考えたことは一度もない。
 それはオレにとって当たり前のことで――その”当たり前”に、一織はずっと傷つき続けているんだと、それだけは分かる。
「わかっているんですよ。どれだけ理屈を並べても、どんな言葉で証明しても、どうしたって、あのひとにとって私は弟で、ただそれだけで、永遠に、それ以上の存在にはなれないんです。私は、『血の繋がった弟だから』……」
 ぽとりと一織がこぼした涙が、カーペットにしみをつくる。
「なのに、兄弟じゃなければ良かったと思うこともできないんです。だって、もし兄弟じゃなかったら、兄さんが私のことを、特別に愛して下さることは、なかったでしょう……?」
 泣かないで、という言葉をオレは飲み込んで、そうっと一織に近づいた。だってたぶん、一織は今、ようやく泣けたんだろうから。
 隣に座って、肩に腕を回す。優しく引き寄せて、さらさらの髪を撫でた。
 小さくしゃくり上げながら、一織がオレの肩に顔を押しつける。
 言ってあげられる言葉なんて見つからないまま、一織の見ていた夜空を見上げる。
 藍色の夜空と、少し赤みがかった三日月。
 きれいで、悲しい、この夜空を、たぶんオレは忘れないだろう。オレの肩で押し殺されている泣き声のことも。
 祈るしかできなかった。
 一織が――そして三月が、幸せになれますように。
 どんなかたちがふたりの幸せなのかすら、今のオレには、なんにも分からないけれど――