きょうだいげんか

 あんたが妬ましかったと姉が泣いた日のことを、百はぼんやりと思い出す。鋭い針で貫かれた心臓のことを。自分にまっすぐ向かってくる嫉妬や憎しみを、初めて知覚した日だった。
 楽屋の椅子で膝を抱えて、わかりやすく落ち込んでいるのは和泉三月だ。つい先程までスタジオを沸かせていた名MCの面影は、すっかりどこかへ行ってしまっていた。仕事に影響させない三月のプロ意識は見事なもので、けれどもそうやって先送りするほどに心のダメージが大きくなっていくのだと、百は経験則として知っている。
「兄弟喧嘩したんだって?」
 隣の椅子に腰を下ろしながら、百は敢えて軽い口調で問いかけた。三月は顔を上げないまま、のろのろと首を横に振った。礼儀正しい彼が、人の目を見もしない。これはなかなか重症ですぞユキ、と百は相方にテレパシーを送った。受信して貰えることのないテレパシーは、それでもいつも百を真人間に保ってくれる。
「……喧嘩なんかじゃないです」
「そう?」
「あいつとまともな喧嘩なんて、ほとんどしたことないんです。オレがガーッて怒って、一織が謝って、しばらくしてオレから声かけてなんとなく元に戻る、そういうのばっかで」
 喋りながら三月は曲げた片足を引き寄せる。膝に顎を寄せ、椅子の上で丸くなると、小柄な体格もあって拗ねた子供のようだった。
 彼の弟の、ぴんと背筋を伸ばしたシルエットが、ふと百の脳裏に浮かんだ。年齢以上に大人びた少年は、人目のあるところで姿勢を崩すことがない。そんなところも、対照的なふたりだ。
「あいつがあんなこと思ってたなんて、全然知らなかった」
「……一織は、なんて言ってたの?」
 百の問いに、三月はきゅっと唇を結ぶ。
 和泉兄弟が喧嘩したのは一昨日の夜のことらしい。百のもとにも、仲間想いのメンバー達から、その日のうちに連絡が来ていた。後輩達に素直に頼って貰えることは、百の誇りだ。どんなに忙しくても、全力で力になってやりたくなる。
 まずは三月自身の口から顛末を聞くべきだろう。急かすことなく待っていると、三月は深呼吸のように大きく息をついて、ようやく口を開いた。
「――オレの、」
 ひどく苦しげな声。
「オレのこと、ずっと、羨ましかったって。『兄さんみたいになりたかった』、って、……」
 なんで、と、震える声が小さく呟いた。
 丸くなった背を、百はそっとさすってやる。
「だって、あの一織が、……なんでも持ってるのに、あいつ、」
 途切れ途切れに絞り出される言葉は、紛れもない三月の本心だ。だからこそ百の胸も痛んだ。完治し得ない過去の傷が、ほじくられてぐじゅりと血を流す。
 近くにいるだけで愛する家族を傷つけていた。羨まれ、悲しい思いをさせて、そのことにずっと気づきもしなかった。
 それだけでも当時の百には大きなショックだったけれど、三月はおそらく、更に衝撃が大きいだろう。アイドルとしての和泉兄弟を知る誰もが想像するだろう関係性は、今三月が口にしたそれの、ちょうど真逆だ。
「…………そんな風に思ってるの、オレだけだと思ってた……」
「そっか」
 短く答えて、百は背を撫でていた手を三月のオレンジ色の頭に移動させる。コシのある髪を優しく撫でつけていれば、否応なく彼の弟の、サラサラと癖のない感触も思い出した。千ともタイプの異なるストレートヘアを調子に乗って撫ですぎて、とうどう怒られたものだ。
 一織はいいよな、まっすぐで綺麗な髪で。そのとき、そんな風に三月が笑ったのを覚えている。一織が兄に微笑み返すまでに、ほんの僅かなタイムラグがあったことも。
『兄さんの髪も、太陽みたいで、兄さんらしくて、好きですよ』
 羨ましいと口にすることすら、あのときの一織にはできなかったのだろう。
「オレも昔泣かれたなあ。姉ちゃんに。あんたがずっと羨ましくて、ねたましかったって」
「……それは、だって、……百さんはすごい人だから」
「三月だって同じだよ。一織の口癖じゃん。『兄さんはすごいんです』って」
「…………」
 答えあぐねた様子で三月は俯いた。受け止めるのが難しいのだろう。そのわだかまりは、百にもよくわかる。千がどれだけ百に言葉を尽くしてくれても、彼と対等の存在だと百が信じ切れないでいるのと、たぶんよく似た感情だ。
 けれど三月より少しだけ長く生きていた百は、自分のそういう感情が千を悲しませていることも、もう知っている。
 飽くなき向上心は間違いなく和泉三月の美徳だ。けれど、その原動力として彼が抱え込んだ劣等感や自己否定は、ときに彼の周囲の人間を苦しめもする。三月を愛し、彼の才能を愛し、彼のように在りたいと願っても、本人がその才能の存在すら否定してしまったら、想いの行き場はなくなってしまう。
「一織とたくさん話してみな。初めての喧嘩、思い切りしたらいいよ。たぶん、乗り越えられる時期が来たんだよ。三月も、一織もさ」
「……はい」
 まだ納得しきらないような顔で、それでも三月は頷いた。今はそれで十分だ。きっと前へ進める。
 にんまりと笑った百の耳に、廊下のざわめきが届いた。機材トラブルからの待機時間も、そろそろ終わりのようだ。ナイスタイミング。モモちゃん神がかってますぞ、ユキ。
「そろそろ再開みたい。後半もがんばろ、三月」
「っ、はい!」
 ぱっと顔を上げた三月が、きりりと眉をあげて、気合いを入れ直した。なんて頼もしい後輩だろう。
 空っぽの楽屋を見たスタッフが慌てる前にと、百は立ち上がった。三月にひと声かけ、弾む足取りで廊下へ出て行く。意識せずとも顔には自然と笑顔が浮かんだ。仕事はいつだってハッピーな空気でこなすのが、百の流儀だ。
 頭の中では、収録後の飲み会の誘いから三月をさりげなくガードして、まっすぐ彼らの家に帰すための算段をつけている。千との夕食の約束は残念ながらご破算になりそうだけど、訳を話せばきっと笑って許してくれるだろう。
 和泉兄弟の仲直りの暁には、今度こそ揃いの恐竜パジャマを着て、がおがおと吠えてもらおうか。イケメンにあるまじき顔で笑うダーリンを想像して、百は陽気なステップを踏んだ。