ひかり差すほうへ

 地響きのような歓声が聞こえる。
 一織たちIDOLiSH7は、舞台袖に集まっていた。そろそろ出番だと声をかけられ、楽屋ではいつものように輪になり、大和の号令で気合いを入れてきた。勢いよく振り上げた指の震えは、きっとみんなお互い気づいて、でも言葉にしないままでいる。
 音と光の洪水のような舞台とは裏腹の薄暗い場所を大勢のスタッフがひっきりなしに行き交う光景は、もうすっかり見慣れたものだ。けれど、彼らの交わす言葉のほとんどは聞き取れない。たまに断片的な単語やフレーズを耳がキャッチし、脳が理解しようとしてしまうのが煩わしかった。かつてノースメイアでセレモニーの舞台に立ったこともあるが、まったく馴染みのない北欧の言葉は木々のざわめきのようで、いまのような妙な緊張感はなかったような気がする。
 言語に堪能なナギが落ち着いた様子でいるのだから、なにも問題ないとわかってはいるのだけれど。
「七瀬さん」
 ひそめた声で、一織は陸に呼びかけた。全米ナンバーワンの歌姫が立つきらびやかな舞台をじっと見つめていた陸が肩越しに振り向いて、なに、というように首を傾げる。その呼吸は穏やかで、発作の兆候はない。背に耳をつけて喘鳴音を聞かなくても、それがわかるくらいには陸の様子に詳しくなった。
 一織は自分の衣装の手袋を片方外すと、陸の手を取った。陸の手袋も丁寧に外させて、素手になった手と手を合わせる。陸の手は存外厚みがあって、掌が広い。指が長いのは一織のほうだ。指の股の場所は合わないが、指先はほとんど変わらない場所で合う。そんなふたつの手と手をぴったりと沿わせて、一織はそっと目を伏せた。
 嫌な発汗はない、と思う。指先が冷えていないかどうかは――わからない。一織の指先も、陸の熱を計れるほどいつも通りかどうか、自信がないからだ。
「なんだよ、黙っちゃって」
 されるままに一織に手を預けていた陸が、クスリ、と小さく笑った。一織も目を上げて、ふ、と笑い返す。
「緊張はしていませんかと聞こうと思ったんですが、まあ、してますよね」
「してるよ。しないわけないじゃん」
 謎の偉そうな口調とは裏腹に、陸は眉尻を下げてみせた。そういう幼い表情をすると、この男はほんとうに可愛らしい。一織より年上で、人気絶頂アイドルグループIDOLiSH7のセンターで、「抱かれたい男ランキング」にも最近ではすっかり常連になっているくせに、いまもこんなあどけない顔をしては一織の庇護欲をたやすく刺激してくる。
 けれど彼の正体は、可愛らしいだけの愛玩動物とは真逆のものだ。モンスター。訴求力の怪物。彼が心からの感情を込めて解き放つ歌声は、人々の心を暴力的に揺さぶり、嵐を巻き起こす。
 その強大さに翻弄されたこともあった。あまりにも大きな渦に呑まれ、彼の手を危うく離しかけたこともあった。――自ら手放そうとしたことも。それでも、一織も、陸も、グループ七人全員が、なにも諦めず、諦めさせずにしがみついて、歯を食いしばって登って来たから、今日のこの日がある。
 世界の音楽シーンに影響を与える大きなフェスティバル、世界に配信されるライブ放送の、ドームコンサート。詰めかけたオーディエンス、そして画面の向こうの無数の人々の心を掴めるかどうかで、IDOLiSH7の未来は大きく変わるだろう。
 地獄も、天国も、一歩踏み出したすぐ先に見えている。
「ライブはたくさんやってきたけどさ、これまでで一番でっかい舞台だもん。一織だって緊張してるだろ。手が冷たくなってるし」
「……はい」
 指摘されて苦笑する。多分そうなのだろうなと思っていた。合わせた掌から、ふわりと温かな陸の体温を感じ始めていたからだ。
 ここで緊張していないと言い張らないだけ、自分も大人になったものだ。
 一発本番のライブで、全体を見通してフォローしながら立ち回る。一人一人の個性にさりげなくスポットを当て、小さなミスは初めからの演出のような顔をして埋める。そうした動きは本来一織の得意分野ではあるが、だからこそ最初の大失敗の苦い記憶はいつまでも消えることはなかった。己のミスも含めた、あらゆる可能性を想定しておけるようにはなっても、いつだって怖くて怖くて仕方がない。
 怖くて怖くて――けれど、この瞬間を心から愛してもいた。不安より遙かに強い期待が胸には満ちている。だってこれから、最高の時間がやってくる。
 一織が愛してやまない歌声を、誰よりも近くで聴いて、その声に自分の声を沿わせ、対の存在となってステップを踏む。
 この場所は、メンバーのうちの誰かにだって譲ってやりはしない、一織だけの特権だ。
「七瀬さん」
 改まった声で呼びかけると、陸も居住まいを正して一織を見つめた。情熱の炎を宿す、陸の大きな瞳にしっかりと視線を合わせて、一織は唇を開く。
「あなたの歌声が世界一です。私たちを知らない観客にだって、あなたの歌なら届く」
「うん」
「流れ星を降らせて。世界を虜にして。あなたにならできます。あなたしかできない。袖に引っ込んだ瞬間にぶっ倒れてもいい、あなたの命を燃やした歌をみんなに聴かせて」
「うん、一織」
 誇らしげに、嬉しげに、陸がひとつひとつ頷きを返す。
「あなたが、私たちの爆弾だ」
「あはっ、懐かしいな、それ」
 まだともに幼かった頃、伝えた言葉に、陸が反応して笑った。
「おまえに爆風、いってもいい? とんでもない爆発しちゃっても、完璧にサポートしてくれる?」
「しませんよ。もう要らないでしょ」
「ええ~、ひどい。じゃあ、何してくれるんだよ」
「起爆装置になってあげますよ」
 顔を上げて。甘く囁く言葉に、陸がぱっと顔を輝かせた。
 合わせていた手をそっと離し、指先で作った銃口の照準を、陸の心臓の在処に合わせる。
「――ばん」
 ウィンクとともに、指先を跳ね上げる。とっておきのファンサービスを受けた陸が、顔をくしゃくしゃに綻ばせながら抱きついてきた。
「かっこいい! 一織、最高!!」
「当たり前です。私は、あなたの隣に立つ人間なんですから」
 陸を抱きとめながら、一織も笑う。
 昔、陸を支えるための言葉がわからなくて、たくさん悩んだ。わかってみれば、簡単なことだ。一織は陸の歌が好きで、陸の歌の力を信じていて、いつまでもその隣で歌っていたい。その全てを伝えれば、それだけで良かった。一織が陸を求めるように、陸も一織を求めていると、いまの一織は知っている。
 一織の探していた夢が、目の眩むような幸福がここにある。
「あー、いおりん、りっくん、ずるい。オレも!」
 抱き合う二人を見とがめて、飛びかかってきたのは環だ。僕も、とすかさず荘五が加わる。ワンテンポ遅れたナギと三月が文句を言いながら抱きついてきて、最後にゆったりやってきた大和が、よーしお前らまとめてお兄さんが抱いてやる! と腕を回した。間違っても舞台の邪魔にならないよう、埃を立てないよう、声も動きも抑えながらはしゃぎ回る。そんな器用なやり方だって、この七人ならすっかりお手の物だ。
「皆さん、すぐに出番です!」
 気づけば観客席から大きな拍手が聞こえていた。頼もしいマネージャーが手を挙げて呼ぶ。目尻に気の早い涙を滲ませ、けれど満面の笑みを浮かべる彼女に、一人一人が寄っていく。大和は頭に手を乗せ、三月は手と手を打ち合わせ、環が頬をつつき、荘五が握手を求め、ナギが指先にキスを落とす。一織はその小さくて偉大な戦友の肩を抱いて、行ってきます、と告げた。最後に陸が、包み込むようなハグをする。社長にチクってやろ、と大和がからかって、みんなで笑いながら手を振る。
「七瀬さん、手袋。――ああ、貸して。やります。じっとして」
「ありが……って、外したの一織じゃん」
「だから嵌めてあげてるじゃないですか」
「そうだけどさぁ」
 軽口を言い合いながら手袋を元通りにしたとたん、司会の力強い前口上が始まる。ぴったり、さすが、と陸が笑って、一織に手を差し伸べた。
「行こう!」
「ええ」
 その手を取って、歩き出す。まばゆい光が、その先には待っている。